「少しの間、此処に来なくなると思います」
プラズマフリゲートの一室で、ソファを勧めたアクロマに対し、少女はぽつりとそう告げる。
「ご家族と旅行ですか?」と尋ねて彼女の方へと視線を移し、何処へ、と続けようとした言葉を思わず飲み込んだ。
その少女が、今にも泣き出しそうな表情をしていたからだ。
「……どうしました、シアさん」
「あ、その……」
メゾソプラノの声音が不自然に震えていて、不安になったアクロマは椅子から立ち上がり、彼女の方へと歩み寄った。
しかし驚くべきことに、少女はその足を一歩だけ後ろに引いたのだ。
驚愕と絶望が一気に心臓の方へと打ち寄せる心地がした。近付くことを拒まれている、と推測することはあまりにも容易かった。
しかしその感情をアクロマが顔に出す前に、寧ろ彼女の方が絶望したような顔色を見せ、慌てたように言葉を溢れさせたのだ。
「ご、ごめんなさい!違うんです。アクロマさんのことを嫌いになった訳でも、貴方に会いたくなくなった訳でもないんです」
焦って舌足らずになりかけているその言葉と共に、彼女の透き通った青い目がぐらりと揺れる。
海の水かさが増したようだとアクロマは思い、その、あまりにも危うくて美しい目に茫然とする。ああ、飲み込まれてしまいそうだ。
一体、何が彼女をここまで不安定にさせているのか。何故、彼女は泣きそうになっているのか。
何もかもが解らないままに、アクロマは沈黙を持て余した。彼女に掛けるべき言葉を組み立てることすら忘れ、彼は少女の零れそうな海の色に見入っていた。
「……怖いんです」
「え?」
それは決して、聞き取れなかったが故の尋ね返しではなかった。はっきりと紡がれたその一言を、しかしアクロマは理解することができなかったのだ。
「怖い」という、全く予想していなかったその単語にアクロマはただ驚き、思わず声を上げてしまったに過ぎない。
しかし彼が零すたった一音を合図としたかのように、彼女はわっと声を上げて泣き出してしまったのだ。
慌てて駆け寄った彼の肩を、しかし少女は片手を乱暴に振りかざすことで拒んだ。「来ないでください!」と、喉を割くように発せられた声音が部屋中の空気を震わせた。
まるでかんしゃくを起こしてしまったかのようなその行動に、いつもの彼女の面影を見つけることができず、アクロマは狼狽える。
しかし自分の動揺より先に彼女を落ち着かせる方が先だと判断し、それでも己の動揺は殺しきれなかったようで、
つい先程、その手で強く振り払われてしまったにもかかわらず、アクロマは少女の肩を強く掴み、その目を覗き込もうと躍起になってしまった。
「シアさん、落ち着いてください」
「嫌だ、離れて!離れてください!」
「シアさん!」
次から次へと零れるものを拭うことすらせず、ただその両手で彼を拒み続けていた少女は、ようやく叫ぶような拒絶の声を止めて彼を見上げた。
その二つの海の目があまりにも分厚い水の膜を湛えていて、もう一度瞬きをすればその海は再び溢れ出してしまいそうだった。
「だって、だって怖いんです。貴方の傍にいることが、こんなにも怖い……!」
絞り出すように発せられたその言葉にアクロマは絶句した。
一体、自分の何が少女を怖がらせてしまったというのだろう。その原因となる要素にどうしても思い至ることができず、途方に暮れるしかなかった。
アクロマは一回り以上年下である彼女に、それでいて自分を酷く慕ってくれていたこの少女に、できる限りの誠意をもって丁寧に、優しく接してきたつもりだった。
しかし彼女はその涙で、嗚咽で、両手で、自分を怖いと叫び拒んでいる。一体、どうしてしまったというのだろう。まだ、何もかもが理解できない。
「……大丈夫ですよ、シアさん。貴方を怖がらせるようなことは何もしません。この距離が近過ぎるのでしたら離れましょう」
だからどうか、わたしを拒まないでください。
そう続けようとしたその瞬間、少女は激しく首を横に振った。その揺れに伴い、目の中の海がわっと溢れ出す。
「違うんです。アクロマさんは何もしていない。私が、勝手に恐れているだけで……」
「何をですか?」
「……」
「シアさん、貴方は何を恐れているのですか?」
そう尋ねれば、溢れ続けていた海がようやく少しだけ収まりを見せた。
泣き腫らした目は少しだけ赤くなっていて、夕日を映しているようだと、アクロマは彼女の目を覗き込みながらそんなことを思う。思いながら、彼女の言葉をただ静かに待つ。
もう、彼は少女の肩を掴んではいなかった。彼女から手を離し、数歩分の距離を取って話しかけている。
その距離に安心したのか、彼女はぽつりと言葉を零した。その声音に、もう先程のような荒々しさも焦りも見当たらなかった。
「……私、きっとおかしくなってしまったんです」
しかし、ようやく紡がれたその言葉は、先程のアクロマの問いに対する返答の形を取ってはいなかった。
「アクロマさんと過ごす時間は何よりも楽しかった筈なのに、最近は、此処に足を運ぶ度に怖くなるんです。
何か貴方の気に障ることを言ってしまうんじゃないか、貴方に呆れられてしまうんじゃないかって。だって、私はこんなにも子供で、貴方はとても立派な人なのに」
そうして彼女の言葉は徐々にスピードを上げていく。
思い付いた言葉をそのまま直ぐに吐き出すが如く、彼女はあまりにも多くの音を痛烈な響きで紡ぎ続けた。
「おかしいですよね。アクロマさんに軽蔑されたことも、ぞんざいな態度を取られたこともないのに、怖くて仕方がないんです。だって私は貴方に相応しくない」
「……」
「心臓が、壊れてしまいそうなんです。上手く答えなくちゃって思えば思う程に息が詰まって、ろくな言葉を組み立てることができないんです。
貴方に見限られることを考えただけで、こんなにも苦しくなる。
こんなにも苦しいのに、こんなにも怖いのに、それでも貴方に会いたくて此処に来てしまう。苦しむことが解っているのに、この場所は何度も何度も私を呼ぶ」
湯水のように溢れ出る言葉にアクロマは沈黙した。
助けて、と、消え入るように発せられた言葉は果たして、本当に彼女のものだったのだろうか。
この少女が自分を慕っていることは知っていた。一回り以上年の離れた、彼女よりも膨大な知識を所有している自分に、憧憬のようなものを抱いていることも解っていた。
頭を撫でれば嬉しそうに微笑み、何処かへ出掛けましょうかと誘えば目を輝かせてついて来てくれるこの少女に、特別な親密さを見出していなかったと言えば、嘘になる。
しかし、アクロマは「知り合い」以上に踏み込むためのアプローチを起こさなかった。
少女が今の距離で、今の関係で十分に満たされているのなら、自分もそれでいいと思えていたのだ。そうして、時間はただ穏やかに過ぎていたのだ。
しかし、その少女が今、泣いている。
貴方に嫌われることが、見限られることが酷く恐ろしいのだと、自分の感情を持て余すように、未知の感情に恐怖するように、嗚咽を零しながらその想いを吐き出している。
アクロマは待っていたのだ。
この誠実で一途な少女が「もっと」を望む日を。「貴方はこれを望んでいたのですか?」と、アクロマの望みでもあるそれを差し出すことができる日を。
果たして、今がその時なのではないだろうか。
『貴方の傍にいることが、こんなにも怖い……!』
あれは、そうした情動に関してあまりにも無知であった彼女の、彼女なりの、告白なのではなかったか。
「……手を、握ってもいいですか」と、消え入るように尋ねられたそれが、自分の声音であることがアクロマは信じられなかった。
しかし少女の耳にその言葉は届いてしまったようで、少しの躊躇の後に小さな右手をおずおずと差し出す。
その手をアクロマはぐいと掴み、自分の左胸、……心臓があるその上へと押し当てた。
「……おかしいのは自分だけ、などと、ゆめゆめ思わないことだ、シアさん」
「!」
「わたしも、……わたしだって、こんなにも貴方が愛しい……!」
ああ、おかしい。愛とはこんなにも苦しいものだったのか。こんなにも狂おしいものだったのか。……こんなにも。
いとしい、と、新しい言葉を覚えた子供のように少女はその言葉を反芻する。ぎこちない瞬きと共に両目の海が揺蕩う。
2015.8.21
(いつか訪れるかもしれない未来の話)