目覚めを待つ悪魔

(いつもとは違う二人をお楽しみください)

ジャローダと遊んでいた私に、彼が言った。

「何がそんなに楽しいのですか?」

背中をさっと冷たいものが伝う心地がした。喉の奥が軋む音を聞いた気がしたけれど、それは緊張が生んだ質の悪い幻聴なのだと言い聞かせた。
相変わらずの優しい目で、さらりととんでもないことを紡いだ彼は、その穏やかな笑顔のままに小さく首を傾げた。

彼はあまりにも博識だった。それと同時に誠実で親切な、思いやりに溢れる人でもあった。けれど、たまにこうしたことが起こる。
私には理解できないような難しい化学式や数式を操り、コンピュータ言語を使いこなし、そうした科学全般についてあまりにも多くの知識を使いこなす彼は、
しかし私にも感じ取れるような、世の人間の多くが当然のように知っている筈の、日常の中に潜む、ほんの些細なことについて笑顔のままに難色を示すことがある。

常識がない訳では決してない。彼の白衣はいつだって清潔なままに保たれているし、バトルを終えて傷付いたポケモン達をすぐに回復させてあげるという優しさもある。
私の知らないことについて(それは大抵、彼の研究している科学に関する質問だったのだけれど)、いつだってその眼鏡の奥を輝かせ、とても分かりやすく丁寧に教えてくれる。

「……」

だから私は当然のように、彼の質問に対しても、私なりの相応の誠意をもって答えを導き出さなければならなかったのだ。
けれど、これが存外難しい。うーん、そうですね、とありふれた音を紡ぎながら、何か、彼に相応しい言葉をその笑顔の裏で必死に探している。
滑稽だと思う。それでもこの場所にやって来てしまったのだから仕方がない。このプラズマフリゲートが、彼の金色の瞳が、何度でも私を呼ぶのだから、仕方がない。仕方ないのだ。

そんな彼と私が出会ったのは、私の旅の途中、ヒウンシティでのことだった。
プラズマ団とのバトルを見ていたらしい彼は、私に何かの可能性を見出したらしい。
それ以降、時折何の前触れもなく現れては、私に助言をしてくれたり、進むべき場所を示してくれたり、道を切り開くための道具をくれたりした。
そんな彼に憧憬めいたものを抱き、彼を慕うようになるまで、そう時間は掛からなかった。
何故そんなことを思ったのかと問われても、そう思ってしまったのだから仕方ない。あの想いに、嘘はなかった。

プラズマフリゲートの一室で彼を見つけた時も、私は驚きこそすれ、ショックを受けることはなかった。
彼はただ純粋に、ポケモンの力を引き出すための方法を模索していただけなのだと信じられたからだ。
人との交流か、科学力か、ポケモンと人との在り方を決める舞台に私を送り込んだ。彼に「選ばれた」ことを私は素直に喜んでいた。

喜んでいた私は、この時、自分にとってとても都合のいい仮説を立てたのだ。
『できうるならばこれまで通り、トレーナーとポケモンとの信頼関係であってほしい!貴方はそれが正しいと教えてくれるのか楽しみです!』
ホドモエシティで彼が告げたあの言葉は紛うことなき彼の本音であり、彼はずっと「そう」望んでいたのだと。
私をプラズマ団へと誘導したのは、私に、プラズマ団の行いを止めてほしかったからなのだと。私は彼に、信頼してもらえていたのだと。
そんな風に思うことにしたのだ。そう自惚れることの許されるだけの時間を、私はこの人と重ねてきたのではないかと、浅ましくもそう、思い上がることができていたのだ。

だから、再びこの船を見つけた時、私は心から喜んだのだ。
またあの人に会える。彼と話したいことが沢山あった。
旅の中で為された私達の会話はとても忙しないもので、ゆっくりと互いのことについて話をする時間などなかったのだ。
『よければまた、ポケモン勝負をしてください。』
そう言った彼の言葉に甘える形で、私は毎日のように彼の元を訪れた。いつだって彼は笑顔で私を出迎えてくれた。

そんな彼に大きすぎる違和感を抱いたのは、プラズマフリゲートに通い始めて一週間が経った頃だった。
母と一緒に作ったクッキーを渡すと、彼は困ったように首を捻って微笑み、それをそのまま私へと突き返したのだ。

『折角作ってくださったところ大変申し訳ないのですが、わたしはこうした、栄養価の殆どないものは口にしないようにしているので。』

彼からの明確な拒絶に少なからずショックを受けたけれど、彼なりに自身の健康に気を遣った結果の断りだったのだろうと思っていた。
しかし、彼の不思議な言葉はそれからも続いた。

『そのボール遊びは楽しいのですか?』
『貴方のジャローダは殆ど傷を負っていないのに、何故ミックスオレを飲ませているのですか?』
『その鞄に付いている、ピカチュウの絵が描かれた金属板は何に使うのですか?』

彼は、ポケモンとボール遊びをすることが「楽しい」ことであることを知らない。
バトルを終えたポケモンにジュースを渡すことが、私の、彼等への「労り」の形であることを理解しない。
私の鞄についているキーホルダーを、私が「可愛いから気に入っている」ということに、気付かない。
今までの彼からそうした歪さを感じなかっただけに、彼にそうした「楽しさ」「労り」「可愛い」といったことが悉く欠けているという事実は、私の心臓を強く締め上げた。

『でも、アクロマさんもポケモンにミックスオレを渡していますよね。』

『ええ、漢方薬よりもこうした嗜好飲料の方が、彼等は喜んでくれますから。ポケモンの力を引き出すための手段として、ミックスオレの方が合理的なもので。』

私は、彼に抱いていた何もかもが、全て私の思い上がりによって造られた幻想であったことを、この日、初めて知ったのだ。

彼が白衣を清潔にしているのは、そうしておくのが衛生面において合理的だからで、
バトルを終えたポケモン達をすぐに回復させるのは、そうすることでポケモンからの信頼を得ることが、彼等の力を引き出すために効率がいいからで、
「ポケモンとトレーナーとの信頼関係であってほしい」という言葉は、あの場で自分に求められている模範的な言葉を組み立てたものに過ぎないのであって、
「楽しい」「労り」「可愛いと思う」といった感情を理解しないのは、そうした想いが非生産的で、合理的ではないものだからであって、つまり、
……私が見ていた「彼」の、親切で誠実で思い遣りに溢れたその姿は、全て「合理性」や「効率の良さ」の元に為されたものだったのだ。

それは悪いことでは決してない。寧ろ彼が優秀な科学者であるために、必要なことであったのかもしれない。
そして誤解しないでほしいのだけれど、私は「騙された」と思っているのでは決してない。
彼にそうした意図は全くなかった。全ては私の思い上がった誤解が招いたことであった。

彼は彼なりの誠意をもって私に接してくれた。その事実は揺らがない。
けれどそれら全てにおいて、私と彼の心が共鳴していたのだと愚かにも信じていた私にとって、そうした彼に強く惹かれていた自分にとって、
彼の効率的で合理的な「誠意」は、どんな侮蔑よりも欺きよりも絶望するに足るものだったのだ。

「こうしてジャローダを見ていると、普段、バトルの時に彼の背中を見ているだけでは解らなかった、色んなことに気付くことができるんです」

だから私は、そうした彼に「合理的」で「効率的」な答えを用意しようと焦っていた。
それが私にとっての真実ではなかったとしても、本当の答えは別にあったとしても、そう答えることが彼に示し得る誠意だと信じて疑わなかったのだ。
私が苦し紛れに捻り出したその答えは、しかし彼を満足させるに足るものだったらしい。成る程、と頷いて、彼は私の隣に屈み、ジャローダを観察し始めた。

……私には、大きすぎる懸念がある。
私が彼を誤解していたように、彼も私を誤解しているのではないかというおそれだ。
それ自体はどうということはない。人を誤解するということは別段、珍しいことではない。問題は彼が私のように、その誤解に「気付いてしまった」その先にある。
彼の好む合理性や効率性を持ち合わせていない私は、彼の世界に相応しくないと判断された私は、彼に見限られてしまうのではないか。拒まれてしまうのではないか。
私はそのことが酷く恐ろしい。

しかし、それよりももっと恐ろしいことが、彼ではなく私の中で起こっている。
それは私が彼のそうした面を見つけても尚、恐ろしい思いをしながら彼に相応しい答えを用意しなければいけなくなっても尚、私が此処を訪れているという事実にある。
私は、私の価値観と彼のそれとが相容れないことに気付いている。私の見ている世界と、彼のそれが交わらないことを知っている。
それでも私は毎日のように、彼がいるプラズマフリゲートの甲板を訪れる。
いつか見限られてしまうと確信していながら、その日は近いうちにやってくるのだろうと恐れながら、それでも彼に惹かれ続けている。
そうして私はようやく、彼への想いを自覚するに至ったのだ。

けれど、この想いだけは絶対に知られてはいけない。だってこんな「非合理的」な想いを知られてしまえば、彼は私に失望するに違いないから。
貴方に目を掛けたのは間違いだったと、あっさりと見限られてしまうに違いないから。

私は彼の横顔をそっと盗み見た。

2015.8.21

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