※ED後、参ってしまった少女とそれに付き合わされるフラダリさんのお話
彼女は過去に囚われていた。
それは「好きな人に振られた」とか「ポケモンリーグの四天王に惜敗した」とかいう、そんな生温い挫折とは一線を画していた。
彼女が抱えているものは、もっと大きくて強大で、若干14歳の少女には到底扱いきれないものである筈だった。
しかし少女はその全てを取り零すことなく拾い上げる。全て私のものだとでも言うように、ギラギラと目を光らせながら決してその荷物を譲渡することはしない。
それらはある時には少女の逃げ道を奪うバリケードとして、またある時は少女の自由を奪う足枷として働いたが、
今は少女曰く「極上の安定」を得られる、温かくてとても素敵なものに成り下がってしまったらしい。
過去に対する異常な執着は、それが強いられたものにせよ恣意的なものであるにせよ、少女を大きく変えてしまっていた。
生きているものに対する無関心を増幅させ、変わりゆくものに対する敵意を助長させる。
つまり今の少女には全てが醜く映っていたのだ。この美しいカロスにおいて死んでいるものは綺麗に隔離され、変わらないものなど何処にもありはしないのだから。
「フラダリさん、おはようございます」
だから少女はその為の空間を作った。
真っ赤な壁は圧迫感をもって二人に迫ってきた。一人の男は理性を失わない程度になんとか持ちこたえていた。
しかしもう一人の少女に関しては、正気だとかそうした類のものを少女が映す醜い世界の何処かに捨ててきてしまったらしい。
いつでも笑みを絶やさないその姿は、旅をしている中では到底見られなかったものだった。
少女は全てに怯えていた。少なくとも、男にそんな笑顔を見せたことはなかった。
言葉の通じない新しい世界で、泣きそうな顔で旅を続けながら、それでもその世界を愛したいを足掻いていた。
少女は疲れ果ててしまったのだろうか。男はそんなことを思った。
「おはようございます。寒くはないですか」
「いいえ、丁度いいですよ」
そんなことを言う少女の手を男は徐に掴んだ。氷に触れているような冷たさで、思わず顔をしかめてしまう。
その変化を少女は見逃さない。絶やされることのない笑顔のまま「どうしたんですか?」と尋ねてくれる。
何でもありませんよと男は返した。少女は嬉しそうに笑った。この少女から感覚が失われているらしいと気付いたのはつい最近のことだ。
「そうだ。フラダリさんにお見せしたい子が居るんです」
少女はそう言ってポケットからボールを取り出した。出てきた赤い花のフラベベは、男の方にふわふわと漂ってきた。
この空間で少女以外の「生きているもの」を見るのは本当に久しぶりで、男はその小さな体温に指を延べた。
「4番道路の花畑で捕まえてきた子なんです。綺麗な花でしょう?
「ええ、とても美しい色だ」
そう言って笑う少女に相槌を打ちながら、男はこのフラベベに対する同情の念を寄せた。きっとこの小さな命も少女に毒されてしまうのだろう。
度を越した潔癖と外界の断絶は少女の十八番だった。そうすることで少女は何とか生き延びてきたのだ。
しかもそれはカロスを、ましてや大多数の人間やポケモンを脅かすものではない。それを実行に移そうとしたフラダリが咎められる範疇のことではなかった。
自分だけ、自分だけなのだ。この臆病な少女には自分しか居ない。
あの瓦礫の中から自分を見つけ出した時、少女はどんな顔をしていたのだろうか。少なくとも泣いてはいなかった。
薄ら笑いを浮かべていたのか、怒りの形相だったのか、それとも射るような目でただこちらを見据えていたのか、どうしても思い出せない。
ただ言えるのは、自分には責任があるということだ。この少女は幼すぎた。その小さな背中に負わせるには、今回の自分が企てたことはあまりにも大きすぎたのだ。
それでも少女を選んでしまったのは、そこに自分の歪んだフィルターが挟まれていたからだ。
選ばれし者なら他にも沢山居る。その中で彼女を選んだのは、フラダリ個人が彼女を求めていたからだ。
願わくば、美しい世界を共に生きて欲しいと望んでいた。その為の切符なら喜んで差し出すつもりだった。
しかしそれは今、残酷な形で実現されている。
「怖がらなくてもいい、頃合いを見て逃がしてあげます」
ですから、少しだけ付き合っては頂けませんか。
恭しくそう紡いだ男にフラベベは小さく頷いた。フラダリさん、何か言いましたか?と向こうから少女の声が聞こえた。
いえ、何でもありませんよといつもの常套句を返した。怯えるフラベベは何処か少女に似ていた。
少女を変えたものは何だったのだろう。
長いこの空間での生活は、男から野望と覇気とを奪い、少女から考える能力を奪った。
閉じられた世界は何も変化しない。少女はそのことを酷く喜んでいる。
しかし男は彼女の気付かない内に変化し始めていた。それは自分でも驚くべき変化だった。
この少女を、助けてやりたい。
愚かなことだと自嘲した。自分で壊しておきながら、それを直せないことを嘆いている赤子のようだと思った。
しかしそれでもいいと思えた。男もすっかりこの空間に毒されていた。何故なら男にももう少女しか居なかったからである。
彼女を助けてやりたいという思いは、重ねた狂気めいた時間が生み出したものだった。
それはきっと少女も予想しなかったし、男もこうなることを予想出来なかった。完全に予想外の、偶然の産物である。
それでも、その思いに嘘はなかった。
「シェリー、散歩に行きませんか」
「!」
この関係に甘んじているのは他でもない、その主導権を握っているのが彼女だからだ。
それを無理矢理奪い取るつもりはない。だから自分はこうしてゆっくりと、小さなきっかけを差し出し続ければいい。
飽きるほどにした提案をもう一度そっと差し出す。途端に少女の顔が強張った。
「大丈夫ですよ、何も怖くない。わたしが守ります」
「……本当に?」
今までなら「嫌です」と一言で切り捨てられていたその会話が、沈黙と戸惑いをもってして続いていることに男は驚く。
その目には怯えの色があった。忘れかけていたが、出会ったばかりの頃の少女はいつだってこんな目をしていた。
もしかしたら、変わるのかもしれない。少女にも変化が訪れようとしているのかもしれない。
時間ならたっぷりある。いつまで掛かってもいい。どうせ自分には少女しか居なくて、少女にも自分しか居ないのだから。
そんな倒錯的な考えに陶酔出来る程には男は狂っていた。しかし大丈夫だとしきりに囁くその目には光があった。
「君はわたしが守ります」
もう一度だけ紡いで、男は少女の返事を待った。
全てのことがどうでもいいところに押しやられて、つまりは自分も少女もすっかり変わってしまっていたのだ。何を恐れることがあったというのだろう。
2013.11.27
ランジェニュ……無垢な人(有名な哲学者の著作)