かわいい悪癖Ex

 鉄の棒を脳髄に突っ込まれ、めちゃくちゃに掻き回されているかのような感覚だ。頭蓋をガンガンと叩いたり、ギシギシと引っ掻いたりしてくるそれは、歯を食いしばったくらいではいなくなってくれそうになかった。
 どうするべきだったか、と考える。頭を僅かに動かせば、すっかり溶けて意味を為さなくなった元・氷嚢が枕をコロンと転がり落ちた。また新しいものを額に当てれば少しはマシになるだろうか。そう考え、ベッドの上で腕と脚を動かしてどうにか立つ姿勢を作ろうとする。鉛のように重い上半身を起こして、ふらつく脚をベッドから下につけて、軽く前のめりになって。

「っ!」

 カラスバの両脚が、自分のものではないかのような挙動をした。力が入ったのは一瞬だけで、後はもう糸の切れた人形のように床へとくずおれてしまう。

「ごほっ、かはっ……ひゅ、っぐ、ぁ……げほっ」

 衝撃に肺も驚いたらしく、止まっていた咳がまたしてもぶり返してしまった。喉や肺に針のような細い何らかを流し込まれているかのようなそれは、まあ激痛といって差し支えない。ベッドに這い上がる力など残っているはずもなく、背中を丸めて痛みの少なそうな姿勢を取るのが精いっぱいだった。
 喉が痛い。肺が重い。ごほごほと繰り返すそれの勢いが増していく。そのうち血を吐くんじゃないかとさえ思えてくる。いやこれ、もう吐いた方がええんとちゃうかな。やってこんなに、痛いのに。
 この痛みを咳ですべて押し出してしまいたい。そんな思いから、カラスバは半ばえずくように咳を繰り返した。しかし何度繰り返しても熱く尖った何らかは己の喉から抜けてはくれない。ああもうええ加減にせえよ、とかいう悪態を吐きそうになる。
 べしゃ、と床の上で丸まったカラスバを追い掛けるように転がって来たのは先程の氷嚢だ。水のたぷたぷとした感覚が腕に触れるのを感じる。これは、いつ作ったものだったか。

「あっ」

 違う、違う! 自分ではない。あの子が作ったものだ。夕方になっていよいよ咳が止まらなくなったカラスバの、薬が切れて再度上がってきた熱を紛らわせるためにと、彼女が用意したものだ。薄いガーゼを二枚重ねて氷嚢を包み、良い感じ、と満足そうに笑って額にそっと添えてきたのだ。
 思えば今日、カラスバが自分でしたことなど皆無に等しかった。食事も薬の用意も、温くなったペットボトルの交換も、夕方になってまともに歩けなくなったこちらの肩を支えてここまで連れてきたのも、空調の温度を調整したのも、氷嚢を持ってきたのも、その氷嚢の水滴で枕が濡れてはいけないからと枕カバーの上からバスタオルを巻いたのも、布団をカラスバの肩の少し下までかけたのも、全部、あの子だ。彼女が丸一日潰して文字通りカラスバに尽くした。寝る間も惜しんで取り組んでいたポケモンの調査も街の人からの依頼も、バトルゾーンを巡回しての、バトルを兼ねた夜間パトロールだって、彼女はすべて中止した。カラスバのために。こんな、何もない男のために!

「っ、ぁ……は、ひゅっ、ごほっ、げほ、っ」

 息苦しさ極まって自身の喉元を掻き抱くような姿勢になる。手が冷たい気がする。いやきっと気のせいだろう。彼女に握られていないからそう感じるだけだ。ここにいないからそう感じるだけ。いないから。ここに、いないから。

「ふっ、……ざけ、ごほっ、げほ、ひゅ……」

 なんでや。なんでここにおらんのや。勘弁せぇや。ここまでオレのためにしておいて、オマエがおらなあかんようにしておいて、なんで、一番キツい時に来てくれへんの。

「……っ!」

 ぞっとするような他責が肺の奥からまろび出たことに、カラスバは愕然とした。
 何を言うてるんや、アホらしい。あの子より年上の大人の癖して、みっともないこと考えよってからに。凭れるな、甘えるな、縋るな。大体、来てもろたところで何をどうせえっちゅうんや。こんな咳き込むヤツの傍に呼んだって困らせるだけやろ。
 そもそも彼女が帰った可能性だって十分にある。彼女はジプソからの依頼がいつまでであるかを話さなかったが、普通に考えて未成年がサビ組の建物の一室で夜を明かすなんて健全ではないわけで。夕方にカラスバが眠ったのを確認してからそのまま帰宅していたとして、誰も彼女を責められない。むしろ日中ずっといてもらったのだから十分すぎるほどだ。
 そこに「なんで」と責める気持ちを抱くなど、許されない。許されないのに。

「っあ、も……げほっ、ヒュッ、ひ、っふ、もうさいあ、っくや」

 咳が酷いせいだ。上手く呼吸ができないせいだ。これらが落ち着けば心などどうとでもなる。しかしそう思い至るのが遅すぎた。えずくようにめちゃくちゃに繰り返したせいで、もうすっかり酸欠になっていたのだ。頭がくらくらする。ろくなことを考えられないのもきっとこれのせい。喉に突き刺さったような痛みをえずくような咳で吐き出そうと格闘したせいで、呼気ばかりが過剰になり、吸う分が全然足りなくなってしまったのだろう。
 もう随分と昔の、ガキの頃を思い出させる、ひゅーひゅーという呼吸音。この音は大人になっても変わらへんのやな、と懐かしさに近いものを覚えながら、どこか他人事のように聞く。吸わなければ、息をしなければ、と思うのに、思う程、呼吸は覚束なくなる。ありったけ吸い込むのに全く楽にならない。息の音ばかりがひゅうひゅうと大きくなる。
 益々ぼんやりとしていく頭にこれあかんやつかもなあと考えながら、それでも大丈夫なはずだと、なんにも問題あらへんと、半ば洗脳のように自身へと言い聞かせていた、その時だった。

「カラスバさん」

 声だ。今日初めて聞く、くぐもっていない声だ。あのごついマスクを付けていない、何の遮るものもない声だ。

「カラスバさん、聞こえますか」
「っ、あ」
「ちょっと落ち着きましょう。ゆっくり吸えますか?」

 もう一度、名前が呼ばれる。情けないほどにガクガクと震えるカラスバの手、それを宥めるように、両手でぎゅっと握り込まれた。
 いるのだ。あの子が、ここに。帰ってなどいなかった。ずっといてくれたのだ。ここに。こんな何もないヤツのところに。
 他の誰でもない、カラスバのところに。

セイカ

 先程からえずき混じりの咳と引きつった声と呼吸音ばかりで、ろくな言語を発せていなかったはずのカラスバの喉は、けれども己の手が握られたと分かった瞬間に、淀みなくその名前を吐き出した。

「ひゅ、っは……ぁ、っ、セイカ
「はい」
セイカセイカ、っ」
「ここにいます」

 不思議なことに、その名前を繰り返せば何かが幾分か楽になった気がした。咳も呼吸も頭痛も意識が薄れる感覚も何一つマシになどなっていないのに、彼女の名前を口にした途端、何かが……名付けられない何らかが、もう決定的に救われた気がしたのだ。大袈裟な話だが、これさえ。これさえあれば。この先ずっと、何にも絶望せず生きていかれるのではないかと。

「大丈夫ですからね。アナタは大丈夫」

 凛とした声で注ぎ込まれる言葉たちがただ心地いい。どんな顔で歌っているのだろう。顔を上げて彼女を見られないのはこちらの情けなさや羞恥から、とかであればよかったのだが、単純にもう呼吸がめちゃくちゃで意識が朦朧としているからだ。そもそも今は夜で、この寝室の電気だって当然のように消されていて、顔を上げたところで彼女がどんな表情をしているのかは、どのみち確認できなかっただろうけれど。

「ごめんなさい、ウトウトしてました。気付くの、遅れちゃいましたね」
「ごほっ、はっ、ヒュ、ほ、んま遅い、って」
「……!」
「ヒュッ、っひ、っふ、ぁ、かえ……ごほっ、帰った、かと」
「帰るわけない、こんな状態のアナタを置いて帰るわけ……。ごめんなさい、不安にさせて」

 アホか、なんでオレはこの子に謝らせてるんや。
 彼女が「看病人」としての自負が強すぎるために、一時間置きに必ず様子を見に来ていたことはもう気配で分かっていた。そんな調子なのでこの空間にいるしかない状況においてもなお、彼女はまとまった睡眠を取れていない。普段から寝不足である彼女がソファでウトウトしていたとして、それ故にカラスバの体調の、急激な悪化に気付くのがほんの数分、いや数十秒かもしれない、たったそれだけ遅れたところで、どうして彼女を責められよう。
 彼女はあのごついマスクを付けないままにここへ来た。きっとカラスバの咳き込みように気付いて飛び起きて、マスクを手に取る余裕さえなく、すぐに駆け付けたのだ。お礼を言いこそすれ、不安をぶつけたり、ましてや、遅いと責めるなんて。
 罪悪感が肺を圧してくる。潰れた肺には空気が入りきらなくて、まだどうしたって苦しい。嫌な呼吸音も、止まらない。

「げほっ、はっ……ヒュッ、ひ、っふ、ぁ」
「あ、ちょっとマズいかな。大丈夫ですよ、ワタシ別に傷付いてない。アナタのこと全然、嫌になったりしてない」
「う、そ、嘘や。こん、な、っは……ひゅ」
「一回起きましょうカラスバさん。この冷たい床にいつまでもいるのはよくないかも。ほら体、起こして。ワタシを見て。面白い顔してるから」

 最後だけ少しおどけたように口にして、彼女はカラスバの手を離し、何のためらいもなく両脇へと手をぐっと差し込んできた。掛け声も何もなく、ぐっとカラスバの上半身が持ち上がる。一般よりはずっと小柄で細身であるとはいえ、男性の体を簡単に動かせてしまう、その怪力には本当に恐れ入る。ごっついな、とでも言ってやりたいのに、また喉を咳が塞ぐからどうしようもない。
 ぐらつく頭で平衡感覚が怪しいながらも、なんとか上体を起こした姿勢になる。目をそっと開ければ、薄暗い部屋の中、こちらを真っ直ぐに見る彼女と目が合った。胡桃色の瞳はこの空間における僅かな光を集めて、まるで人外の超存在であるかのように輝いている、ようにも見えた。

「ほんま、や」
「あれっ、ほんとに面白くなってた? 嬉しい誤算ですね。まあこれを機にワタシの顔も気に入ってもらえれば」
「は? そんなんもう、ずっ、ごほっ、げほっ」

 体を起こすと、激しく咳き込む度に肩や背中が大きく揺れて、余計に疲れさせてくる。はぁ、とふらつきながら息を吐いたカラスバを見た彼女は、一瞬だけ眉を寄せてから、傍の何らかを引っ掴んでガバっと勢いよく広げた。ブランケットだ。カラスバが彼女に別のものを贈ったために、サビ組のオフィスではお役御免となったそれ。元々カラスバの私物だったが故に、そのまま私室へ持ち帰ることになったもの。
 かつて夢見の悪さから寝不足をやらかしたカラスバをソファへ押し倒したときのように、彼女はそのブランケットを一瞬でカラスバに巻き付けて、そのまま羽交い絞めにした。

「っ、は」

 体勢を維持できず、彼女の腕に引かれるまま、ちょうどその肩に顔を乗せるような形になる。背丈に差がないために姿勢に全く無理が生じない。その都合のよさに彼女も気付いたのだろう。「あ、良い感じ」と小さく呟いて、息だけで笑った。
 再びえずくような咳がカラスバの喉から吐き出される。すかさず彼女の腕が拘束する力を増す。軽く痛みさえ覚えるその怪力に多少ひやっとさせられるが、咳の衝撃で、一人ではどうしたって跳ねてしまう体が、拘束により押さえつけられて跳ねなくなったことで、苦痛と焦りが随分と和らいだ。咳が出るのを止めることはできないが、それに引きずられて跳ねる体の消耗はもう物理的な拘束で抑えてしまおう、ということなのだろう。
 どんな力技やねん、と思わなくもなかったが、実際それで幾分か楽になっているのだからツッコミも入れようがない。ごっついな、とカラスバは素直に感心する。どうされるのがカラスバにとって楽かをよく分かっているのだ。もう彼女に任せてしまいたくなる。この体も意識もすべて。
 でも。

「っな、あ、あかんやろこれ、は」
「あかん? どうして? あぁそういえば手以外に触れるのがブランケット越しでもアウトか否かについては要審議事項でしたね」
「ちが、ごほっ、っなぁ、ルールの話なんかしてへん。っ、移るやろが……風邪が」
「ああ! なるほどまだ元気ですね。ワタシを案じる余裕があるんだ」

 彼女の顔がカラスバのすぐ左にある。ふふっと笑う声が、おそらく今までで一番近い。喋り出す直前の、吸い込む息の音まで聞こえる。彼女の音すべてがカラスバを安心させにくる。安心してしまう自分が、憎らしくなる。

「でもこんなに弱ってたらもう振りほどけませんね。ほら無理でしょ」
「っ、あ……ふざけ、っげほっ、っは、ヒュ」
「嬉しいなぁ、ここまで弱ってるとワタシ如きの筋肉でもアナタを屈服させられるんだ、実に気分がいいですね。やっぱりアナタ定期的に弱った方がいい」

 彼女の得意とする煽り文句に悪態を吐きたい気持ちでいっぱいになる。そうした反抗心で胸が満たされたからだろうか、暴れるように繰り返されていた咳が、にわかに勢いをなくした。だが彼女の、ブランケット越しにこちらを羽交い絞めにする腕は弱まらない。思うように力の入らないカラスバでは、この拘束から逃れられない。

「っなあ、もうやめろ、腕離せっ……! オマエが風邪引いたら」
「そうなったら今度はアナタが看病する番ですね?」
「っせやから! それができ、っは、ごほっげほっ」
「おっと」

 とんでもないことを言い出した彼女にカラスバは半ば怒鳴るように抗議した。看病? オレが? 冗談やあらへん。できるわけないやろオレに。なんも知らんオレに。

「オレ、できんねん看病とか」
「ああご経験がない」
「経験っちゅうか、知らんねんこういうん。なんも知らん。どないしたらええか分からん」
「……」
「やめてくれほんま。栄養とか、感染とか、予防とか、そんなお利口なこと、なんも、っ、知らん。ビタミンとか、飛沫感染とか、アレルギーとか、薬の選び方とか飲み方とか、全部分からん」
「えっ、ごめんなさい。アナタを責めているように聞こえた? 別に今日の話すべて、アナタに、引け目を感じさせるためにしたわけじゃ」
「知っとるそないなこと! でも」

 一気に喋ってしまい、酸欠で再び頭がくらくらして小さく呻いてしまう。彼女は羽交い絞めにしていた腕を緩めて、震える呼吸を繰り返すカラスバの背中を、そっと擦るようにする。

「っは……ふっ、はぁ、っ、あかん、なぁ」
「慌てないで。ゆっくりでいいですよ。アナタの話、全部聞きます。まあ、何を言われたところで離してはあげられないけど」

 抜け出すなら拘束が弱まった今なのに、カラスバは動けなかった。震える腕を彼女の背中に回して、縋るように力を込めさえした。

「オレ、なんもないねん。オマエみたいな知識も、技量も、器量も……何も。ただ見えるとこだけ小綺麗にして、それっぽくしとるだけや」
「立派じゃないですか。あるもの全部、ムダにせずに使いこなせてるって相当すごいことですよ」

 声を出すこと自体への負担を減らすために、カラスバは声量をぐっと落とした。ぽつりぽつりと懺悔するように零した、囁くような声。それに合わせるようにして、彼女も声を小さくして、撫でるような穏やかさでカラスバの言葉に交えてきた。

「でもそれだけや。それ以外のところ、ほんまなんもあらへん。オレがお仕事やバトル以外で話せること、セイカのためにできること、何も。空っぽなんや、この部屋みたいに」
「……それは、違うでしょう」
「なんも違わん。もう十分分かったやろ。こないに暴かれたらもう立つ瀬があらへん」
「違う、そんなの違う。言ったでしょう。アナタがアナタ自身のことを話してくれる度に、ワタシはアナタの凄さを思い知ってるんです。何もないなんて、思ったことない」

 何もない、とカラスバが繰り返す度に、彼女はあらゆる言葉で否定してくる。その言葉に救われていないといえば嘘になるが、そう言わせてしまっている気もして、やはり罪悪感が募るのは避けられない。
 それに、彼女にどれだけ温かい言葉で否定されたとして、少なくとも、カラスバに「風邪に関する知識」がないことはもう疑いようもないのだ。

「オマエが風邪引いて弱っても、辛なってるときに、するべきこと、きっと何もしてやれんのや」
「カラスバさん」
「分からんまま、間違うてることばっかりして、もし、死なせ」
「待って待って! え、そんなに!? そんなことまで考えちゃう感じですか今……っ」

 慌てたような大声とともに、カラスバを拘束する腕の力が再度強まった。カラスバの中にある「もし風邪を移したら」という恐怖の中身が、彼女の想定以上だったことにかなり驚いているようだ。だがもし死なせてしまったら、と思ったことは本当だ。だって感染や薬の知識がまるでないカラスバに、何ができよう。
 カラスバには空気感染と飛沫感染の差が分からない。ガキの頃によくあった嫌な呼吸音と息苦しさの正体を知らない。それがなぜ大人になるにつれてよくなるのかも分からない。弱っているときに摂るべきと彼女が口にしたビタミンとミネラルの詳細も知らない。複数の薬の箱から今の症状に適したものを適切に選び取れる自信もない。解熱剤を渡す前、常飲している薬はないかと彼女が事前に尋ねてきたあの意図だって、分からないまま。脱水になると何がいけないのかも、よく知らない。
 彼女がそれらの知識を駆使して、おそらくは彼女にできる最善を丸一日尽くしてくれてさえ、今のカラスバの体調は最悪なのだ。もし逆の立場だったら、本当に、彼女をもっと悪化させて、取り返しのつかないことにさせてしまっていた可能性だってある……というのは、考えすぎなのだろうか。今のカラスバには、尤もな想定に思えるのだが。

「あかん看病の仕方して、ほんまに殺してしもたら」
「殺されないから! 大丈夫ですって!」
「大丈夫やない。ほんまに、もう、死なせてしまう」
「ああもうしっかりしてください! 大体ね、ワタシが風邪を引いたくらいで! アナタの下手な看病如きで! くたばるとでも? 舐めないでいただきたい!」

 彼女は背中に回した手をバンバンとやや強めに叩いた。おそらくは軽い叱責、そして激励。頼もしい姿だ、いつものカラスバなら、きっと彼女の応援に笑って喜べたはず。けれども彼女が今朝言った通りの「ぐずぐず」に陥った今のカラスバは、そんな彼女の心意気を正しく受け止めきれない。今のカラスバには、彼女の強さが少し痛い。

「もう、っ、もうオマエ帰りよし」
「嫌です。アナタが逆の立場になったとき、ワタシを置いて帰れると宣言できるなら従いますが」
「っ、ああもう勘弁せえや……」
「そうそう、そのままキレていてください。ワタシのこと嫌っていいから、恨んでいいから」

 馬鹿げている。口先だけの言葉だ。だって帰りよしなんて言いながら、カラスバは全然彼女を離してやれていない。先程からカラスバはもう、抱き締めてきた彼女を突き返すためではなく、彼女がどこにも行かないように力を込めている。背丈だけ等しいこの華奢な体の、相応に薄く小さな背中に縋り付いている。
 もう仕方ない。仕方なかろう。だってこんなに痛いのだ。頭が、喉が、四肢が、心が。こんなにも痛くて、こんなにも寒くて、こんなにも寂しいのに、なぜお利口にこの手を離すことができよう。

「辛いですよね。どうしたらいいかな……」
「いや、っ、はぁ……あかん取り乱し方したわ、堪忍な。もう、っ、ええから」
「気にしないで。ね、何かワタシにできることありますか? 何があればアナタ、今より楽になれる?」

 何があれば、なんて、これ以上求めるものなどあるはずがない。今日のカラスバに必要だったものを彼女はすべて差し出してくれた。この壊滅的な喉でも食べられる食品とちょっとした料理。今の症状に一番効くと判断できる薬。脱水とやらを防ぐためのペットボトル飲料。ふらついたときには肩を支えてくれさえした。氷嚢だって今日だけでもう何度も換えてくれた。求める暇がないくらい、彼女は最善のタイミングで最善のものを差し出し続けてくれた。
 唯一思うようにならなかったことがあるとすれば、それは、カラスバがいてほしいと思ったときに、彼女が傍に……手を取れる距離にいなかったという、あれだけだ。しかもそれだって、カラスバが「アホ言うなや」という虚勢で拒んでしまったがために実現しなかっただけで、絶対に彼女のせいではないのに。
 カラスバからの回答を得られなかったことに戸惑ったのか、彼女の、こちらに回す腕の力が弱まった。怖くなって、もう考える間もなく口を開いた。

「いやや、離す、な」
「!」
「何も要らんよ。要らんからもう、離すなや……っ!」

 彼女の呼吸音が止んだ。三秒、いやおそらくは五秒以上。それから大きく吸い込んで、震わせながら吐いた。どんな表情なのかは、もうお互いに顔を近くに置きすぎているせいで分かりやしない。

「っふふ、それじゃあアナタの許可も得られたことだし」

 どこかで聞いた前置きの言葉とともに、彼女は腕の力をゆっくりと強めて。

「ずっと一緒にいましょうね」

 ああ思い出した。彼女がかつて、カラスバの贈った揃いの靴に向けて告げた言葉、あれとまるきり同じだ。オマエちょっと狡くないかと、自身が贈ったものであるにもかかわらず、彼女の足元で鳴る靴に、あの時、そのような馬鹿げた嫉妬心を抱いたのだ。
 あの言葉に、今の響きがぴたりと重なった。ああオレにもくれるんかそれ、と思いながらカラスバは目を細めた。嬉しい。もう嬉しい。嬉しくなくて何だというのか。その言葉通り、あの靴のように、本当にずっとこの子と一緒だったなら、どんなにか。

「あぁ、酷いなワタシ」
「なに、っが……」
「アナタがこんなに辛そうなのに、喜んでる。アナタもう、ワタシがいなきゃダメなんですね。まあぐずぐずになったとき限定かもしれないけど」
「っ、ダメって、そらオマエもやろが!」

 ほぼ同時に顔を上げた彼女とカラスバの目が、近くでぴたりと合う。カラスバが眼鏡を掛けていないため、距離としてはとんでもなく近い。胡桃色の目が、リビングに続くドアから差し込む僅かな灯りをたっぷり吸い込んで、陽光のように煌めいていた。彼女の目には……こちらは、どう見えているのだろう。

「オレ知ってんで。セイカは、もう、オレの手ぇなかったら」
「えっ、あ」
「ろくに眠れへんのやろ」

「お仕事」と称してカラスバが三日と空けずに彼女を呼び出し、ポケモンバトルの前払いで二時間の仮眠を毎度強要しているにもかかわらず、彼女の睡眠時間が一向に増えている気配がしないのはそういうことだ。カラスバ自身が彼女に手を握られて眠る機会を一度だけ得てしまったことで、そのたった一回でもう勘付いてしまった。だってあんな、安心できるものを覚えてしまったらもう終わりだ。戻れなくなる。あの握手がなかった頃には、もう。

「あーあ、バレちゃった」

 丸い目を軽く細めて、ふわっと綻ばせて、彼女は笑った。優しい咲き方だった。

「オレがおらなあかんなぁ」

 カラスバが放った、そんなからかい混じりの言葉にさえ、咲いたまま頷いてみせるのだった。

「そうなんですよ、実はそう。だからどのみち切れることなんてあり得ないのに、アナタが事あるごとに不安になるから」
「いや……それ今指摘するんは反則やろ」
「っふふ、でもその不安はまあ、ワタシにも覚えのあるものだから……何か丈夫なものを作った方がいいかも。ほかの誰にも分からなくて、でも決して切れることがないと二人ともが確信できるような、何かを」
「何か、って?」
「それは、もうちょっと時間を掛けて考えようかな」

 彼女がそう告げて首を捻る。真ん中分けにされた長めの前髪がカラスバの頬を僅かに掠った。もう既に思い付いていて、敢えて明言を避けているといった調子ではない。本当にたった今思い付いて、その後の構想はとくに練れていないのだろう。
 ほかの誰にも分からなくて、この二人にだけ確信できる何か。そんなものを彼女は「作る」と言った。カラスバがぱっと思いつくのはこれまで幾度となく交わしてきた握手くらいのものだが、ああいうものをまた一つ増やすつもりなのだろうか。どうしたって不安になってしまうカラスバのために、同じように不安を抱える、彼女自身のために。

「いやでも……正直助かったわ」
「おや素直」
「こないになるなんて、知らんかった」
「ああここまで本格的に体調を崩したことがない感じですか」
「いや、こんなんは普通に」
「あれっ?」
「これまで、全然、一人でも」

 平気やったのに、と続けようとした言葉がまたしても咳に飲まれる。激しく咳き込みすぎて半ばえずくような形になる。体の内側から殴られるような感覚にまたしても体が跳ねるが、すかさず彼女がえいっと羽交い絞めにしてきたためダメージが良い感じに軽減された。4倍弱点に追加でスリップダメージが入るところを、2倍弱点程度に抑えられているくらいの印象かもしれない。

「おおき、に」
「どういたしまして。もうこのままベッドへ横になっちゃいましょう。立てますか?」
「ん」

 彼女の支えを借りつつ立ち上がり、カラスバは半ば倒れ込むようにしてすぐ傍のベッドに戻った。シーツに顔を押し付ける形でごほごほと咳き込む。それは息苦しいでしょ、と苦笑する声とともに、そっと背中を擦られた。ゆっくりと顔を上げて、置き去りにしていたスマホロトムを起動させる。零時を少し過ぎたところだった。

「うーん、まだ前回の分を飲んでから六時間経ってないんですよね。お薬、追加で飲むのはやめた方がいいかも。このまま寝れそうですか?」
「まあ……起きてすぐよりは、マシやな」
「よかった。じゃあ睡眠チャレンジしてみますか。冷たいものだけ持ってきますね。一分で戻ります」
「アホ言うなや、十秒の間違いやろ」
「無茶言わないで。じゃあ三十秒」

 繋いだ手をぎゅっと強めに握ってから、ぱっと離し、彼女はすっかり溶けた氷嚢とともに部屋を飛び出した。パタパタと走る音と、遠くで冷凍庫が開く音がする。ビニール袋のカサカサという音、蛇口を捻る音、またパタパタと走る音。二十八秒。

「よしいけた! 絶対いけた。お待たせしました」
「っはは、オマエほんまおもろいな」
「無茶振り十秒を要求するアナタには負けます」

 分厚いガーゼの布を二回巻き付けてから、枕の上へぽんと置く。カラスバが頭をそこへ沈めれば、いい具合にコロンと額のところへ転がって来てくれた。冷たさが心地よくて目を細める。「かわいい」と彼女がぽつりと零した。氷嚢のことだ。そうであってほしい。

「お昼前にもこうして一緒にいればよかった。アナタのあれが虚勢だってちゃんと分かってたのに」
「は? ちょっと待て、分かってた?」
「ええ、でもあの時のアナタは暴かれるのを恐れていたみたいだったので、気付かないフリをしました」
「っ、はぁー……」
「要らない配慮でしたね、ごめんなさい。今後は遠慮なくずかずか暴いていくので、そのつもりで」
「もうそうしてくれ……」

 彼女はベッドに腰掛けて、カラスバの方を振り返るようにして手を差し出した。右手と左手で握手するように繋ぐ。ふわっと湧き上がった何らかをカラスバは上手く形容できない。ただ、薄闇の向こうの彼女が咲いたことしか、分からない。

「心許しすぎるんも考えものやでほんま」
「っふふ、心を許したワタシがいざってときに来てくれないかもって不安になる?」
「いや……あかんわ、そんなわけないのになぁ。ただ来てくれるまでがほんまにキツい。アホみたいなこと、考えそうになる。なんでもっと早う来んのや、とか」
「そ、っ、それはたいへん失礼しました! そんなこと思わせないレベルで今後はくっついておきますから。アナタがうんざりしたって離れてやらない」
「っはは、そらええわ。期待しとこ」

 永遠も絶対もないことをカラスバは知っているので、これを失う日がいつか来ることだって心得ている。そんないつかを思うだけで気が狂いそうになる。でもいや、それは馬鹿げているなと思い直す。だってこれだけ凭れ合っておきながら、祈り合っておきながら、二人はまだ、互いのものになってさえいないのだから。
 ああでもスタートラインにさえ立っていないのなら、それはもう、無敵と言って差し支えないのでは。

「さて、何も持ってない空っぽのぐずぐずなカラスバさん」
「オマエほんま覚えとけよ」
「ワタシはアナタを空っぽだと思ったことなんかないし、そんなことちっとも気にしないけど……アナタがそこまでこの部屋を不安に思うのなら、これから増やしましょうよ」
「増やすって、何をや。オレは気に入ったもんは全部外に出してきてる。置けるもんなんて、何も」
「ワタシとの思い出はまだ外に出せませんよね?」

 思い出?

「誰にも見せたくないもの、アナタの中でだけ大事にしたいものを、ここに置く、っていうのは?」
「……」
「きっとそのうち増える。ずっと一緒にいるんだから」

 写真が一番分かりやすいけど、万が一誰かが入って来たときに困りますかね。もし今後どこかへ出かける機会があれば、現地のパンフレットとかでもいい気がしますね。それかワタシが何らかをプレゼントで押し付けたっていい。サビ組のオフィスには絶対に飾れないような、センスが壊滅的な置物とか。アナタだけに愛でてもらえるようなデザインのヤツ、探さないと。
 すらすらと歌うように言葉が降ってくる。写真、パンフレット、珍妙な置物。どれでもいい。そんな思い出がこの部屋に、何もないこの場所に置かれる未来、カラスバの空っぽを埋める未来を想像してしまえば、もう思うがままに零れるしかない。

「うれしい、楽しみや」
「……っ、わぁ」

 マスク越しではない、彼女の照れを示す「わぁ」がくすぐったくて声を上げて笑った。笑いすぎて激しく咳き込んだ。暗いため分からないがおそらく顔が赤くなっているのだろう。繋いでいない方の手で顔を隠しながら「はいもう、もう寝てください!」と告げて、片手で器用に布団を持ち上げ、カラスバの肩の少し下までかけた。

「アナタが苦しんでいることを除けば、今日……いやもう昨日かな。とっても素敵な日でした。また風邪を引いたときには是非、呼んでくださいね」

 その言葉に肯定も否定も示さず、カラスバは僅かに笑ってから目を閉じた。
 確かにまあ、カラスバ自身の苦痛にさえ目を瞑れば、ここに残るのはただ二人が丸一日一緒にいたという事実だけ。それなら……確かに「とっても素敵な日」に、なるのかもしれなかった。
 目蓋の裏で、夕方以前の様子を思い出してみる。確か昼前に、喋りすぎだと軽く窘められながら睡眠を促されたのだ。ただいくら体調不良であるとはいえ、日中にそう何時間も眠れるような質ではないし、そもそも咳が絶え間なく出ているので熟睡できるはずもなく。1時間後に様子を見に来た彼女の気配ですぐに起きた。
 起こしてしまったことへの罪悪感からぱっと土下座の姿勢を取った彼女を「待たんかい」と咎めようと勢いよく体を起こして、そこで……おそらく寝る前に飲んだ「万能薬」の効果だろう、熱も頭痛も喉の痛みも、随分とマシになっていることに気付いたのだ。
 そこからはまあ楽なものだった。彼女がカラスバのペンドラーたちにポケモンフーズをあげている様子を見ながら、彼女曰く「素材を混ぜただけ」というリオレを、午前中のアイスクリームと同じようにちまちまと口に運んだ。「ビタミンも食らえ!」とさらに押し付けられたゼリー飲料はするすると喉を通った。
 熱を測れば七度三分まで下がっていて、もうここまでくれば平熱やないんかと口にすればゴミを見るような目で「ふざけないで」と珍しい声の低さで叱られた。多少驚きはしたが、おそらくその、腰に手を当ててこちらを見下ろしつつ低い声でそう告げるやり方だって、きっと彼女がかつてされてきた看病のワンシーンの再現なのだろうと、何となく察してしまったから、やっぱり面白くて。

 そこから調子に乗って、リビングで彼女と一緒に悠々とくつろいでしまった結果、夕方からの悪化に繋がった、という有様ではあるのだが……そんな展開にだって、彼女は「あぁやっぱりこうなっちゃった!」と、二度目の薬をカラスバの手の中に落としながら、どこか楽しそうに笑って許したのだ。
 カラスバが昔に得られなかったもの。体調不良を誰かに看てもらうという発想がそもそもなかったカラスバでは、どのようなものか想像さえできなかったもの。それらが彼女の手により丁寧に差し出されているのが、もう彼女の言動の一つひとつからありありと分かった。カラスバの何らかを、埋めようとしてくれているのが分かってしまった。

『折角やし教えてぇな。セイカはこれまで、風邪引いたとき、どんな風に看病ってヤツをされたんや』
 カラスバが尋ねたそれに、彼女は丸一日使って、これ以上ないくらい丁寧に回答した。風邪を引いた小さい頃の彼女がどんな風に愛されていたのかを、丸一日かけて教え込まれてしまった。
 もう、知らなかった頃には戻れそうにない。

『その日だけは、大好きな人を独り占めできたから』
『ワタシ、風邪を引くのってそんなに嫌じゃなかった』
 だからカラスバにはもう分かる。至福を教え込まれた今なら、彼女の言っていたことが痛い程に分かる。これだけ大事にしてもらっては、これだけありったけ、何もかも貰ってしまっては、確かにもう、風邪など御免だとはなかなか言い難い。

「ほな、また来てもらおか」
「えっ」
「特別な日に、してくれるんやろ」

 彼女がどんな顔をしたのか、その後に何か言ったのか。確認できなかったことだけが悔やまれる。

< Prev Next >

© 2025 雨袱紗