かわいい悪癖Ex

 体調が夕方から急激に悪くなるのはもう風邪っ引きの宿命、と話していた彼女は、カラスバがソファでバニラ味のアイスクリームを少しずつ口に運んでいる間、キッチンやリビングを歩き回り、手際よくあれこれと何らかをしていた。本当に忙しなく歩き回り、色々としていたため、見ているこちらの目が回ってしまいそうだった。
 カラスバが意図を汲み取れた行動は、換気のために一分ほど窓を開けたことと、氷嚢に用いる氷作りのため、製氷皿に水を満たしたところだけ。他にも色々としていたが、どういう目的があったのかは分からない。ただそれらの多くが、カラスバの体調の悪化に備えるものであることは分かった。午前中の段階で八度五分の高熱が出ているカラスバ、その体調が、夕方から悪化するとほぼ確信しているらしい。
 アイスクリームを食べる一口を小さくしているのは、甘いものが苦手だからではなく、冷たいものが喉を通る感覚が心地いいからだ。小さな針でキリキリと引っ掛かれるような痛みが一瞬消える。その一瞬が欲しくてまた食べる。一気に平らげると鎮痛の恩恵を長く得られないから、ちまちまと子供のような食べ方をしているというだけの話。彼女もそれを分かっているのか、カラスバがゆっくりと食べている様子についてとくに言及はしてこなかった。

「オレだけ先にもろてるけど、ええんか」
「っふふ、そりゃあ一緒に食べたいですよ? でも流石に今は危険すぎます」
「危険?」
「向かい合ってモノを食べるのって、感染においてはハイリスクみたいで。ワタシはジプソさんが戻る明日の朝まで、絶対に体調、崩せませんからね。そこはもう徹底しますよもちろん」

 確かに、同じタイミングでこれを食べるとなると、彼女はカラスバの前でそのマスクを外すことになる。防護壁のない状態で共にモノを食べたりなどしたらカラスバの風邪を貰うかも、と言いたいのだろう。
 分厚い厚紙のようにも見える不思議な生地で作られた、ご立派なそれ。おそらく通常のマスクよりも防護能力が高いことをウリにしているのだろう。絶対に感染するまい、共倒れだけは許すまいという強い意思を感じる。カラスバの視線に気付いた彼女は、苦笑してマスクをトントンと指差した。

「これ、どんなウイルスや細菌も遮断できる一番いいヤツを下さいって、薬局のスタッフさんに頼んで、わざわざ店の奥から出してもらったものなんです」
「っはは、成る程な。どおりで店先で見たことあらへんわけや」

 少しずつ口に運んでいたアイスのカップが空になる。惜しむようにスプーンで縁をくるくるとなぞり、僅かな量をスプーンの先に集めて食べ切った。立ち上がるより先に彼女がスタスタと歩み寄ってきて、空のカップとスプーンをカラスバの手から当然のように回収していった。彼女にとっては当然のこと、きっとかつての彼女がしてもらってきたこと。しかしカラスバは慣れていない。慣れていないから驚いてしまうし、慌てて告げたお礼の言葉だって、少しぎこちない。

「でもこれ、普通の風邪には過剰防衛みたい。このレベルのマスクが必要なのは空気感染するヤツらしくて」
「空気感染?」
「そう。飛沫感染の風邪なら、普通の不織布マスクでいいみたい。きっと粒子の直径の差でしょうね。このマスクだと、風邪のウイルスよりもっと小さなものを弾けるのかも」

 空気感染と飛沫感染の違いがカラスバにはよく分からない。どちらも宙に在るのだから同じでは? と思うのだが、彼女はその違いと、空気感染の予防のためにそのごついマスクが必要である理由をちゃんと理解しているようだった。
 そういう知識を、彼女はどこで身に付けてくるのだろう。カラスバが「掻き集めた」知識は自身の必要に迫られてそうしたものばかりで、その必要な知識の中に、当然ながら……空気感染と飛沫感染の違いを問う内容は存在しなかった。

「まあかっこいいからそのまま付けてるんですけどね! いいでしょう、これ」
「せやな、かっこええで」

 そんなん知ってどうすんねん、というようなことが、普段博識を全く気取っていない彼女の口からこうして、たまに出てくる。専門的な、あるいはマニアックな知識。カラスバにはもうすべて「雑学」で括ってしまうしかないものたちだ。普段の、ポケモンの調査やバトルに走り回っている生活ではもうほとんど不要なもの。けれども時折その小さな口から出てきては、カラスバを驚かせ、楽しませるもの。
 彼女に見出せる「豊かさ」というのは、こういうところにも起因している気がした。カラスバには今更、どうやったって手に入らないものだ。だから眩しい。飽きない。面白い。
 そして、そういうものを持たないカラスバは……高熱と頭痛と喉の痛みとで些かナーバスになっているカラスバは、ふと思う。
 オマエ、オレと話してて退屈やないんか。
 オレに、飽きてへんのか。

「カラスバさんの経験則だと、やっぱり体調、夕方から崩れます?」
「多分そうやな。今は全然やけど多分煩いことになると思うわ、咳で。あとひゅーひゅー言いよるし」
「……喘鳴発作ですか」
「さあ、よう知らんのや。ただこうやって崩すと、たまに出てくるさかい」

 咳も騒々しい呼吸音も、聞いていて気持ちのいいものかどうかと問われれば間違いなく「否」だろうからと事前に告げておいたのだが、こちらの想定以上に彼女の目が動揺の色を映したため、カラスバは少々焦ってしまった。

「ガキの頃は多かれ少なかれあるやろ、そういうの」
「まあ……そう、かも。子供の食物アレルギーとか喘息は、個人差はあるみたいですけど、成長とともに寛解するケースも少なくないって聞きます」
「へえ。まあ昔は、こんな綺麗なとこで住んでへんかったからなあ。衛生、はまあ最悪やったし、厄介な病気の一つや二つ貰うこともあるやろ」

 残念ながらカラスバは子供の頃にそういう診断を受けたことはない。だから自分のそれが何であったのかを知らない。だが隠れ博識である彼女がすぐさま喘鳴発作という単語を口にしたのなら、もしかしたらそういうものだったのかもしれないとも思ってしまう。
 まあどうだっていい。すべては過ぎたことだ。今夜出てくるかもしれないその聞き苦しい呼吸音だって、過酷なガキの頃を生き抜いた、まあ勲章のようなものと言って差し支えない。カラスバのかつての悪癖のように、たまにふっと顔を出してはカラスバ自身に悪戯をする、そうした、ほんのちょっとだけ厄介なもの。今のカラスバとの共生が可能な程度には、許し易いものだ。
 ただこのポジティブなニュアンスを誤解なく彼女に伝えるのは……少々、難しい気がした。

「かっこええやろ。こんな綺麗なとこに来れるようになるまで、オレめっちゃ頑張ったんや」
「……かっこいいです。悔しいくらいかっこいい」
「っはは、そらおおきに。ただここだけの話やで。誰にも言うたらあかん」

 不安そうにこちらを見る彼女へと手を伸ばしたのは、単なる戯れか。それともこうすれば彼女は安心してくれるはずという傲慢がそうさせたのか。あるいはカラスバ自身が安心したかっただけなのか。
 彼女は大きく頷いて、こちらに近付いて、膝を折った。跪くような姿勢に、いやそこまでせんでええと言いたくなったが、それより先に彼女がカラスバの手を握ったため、告げたかった言葉は喉の奥に落ちてしまった。何かを確認するように力を込めた彼女へ「安心し」と告げるようにありったけ強く握り返した。目を細めて苦笑して「いや痛いそれはちょっと痛い」と柔らかい声で抗議しつつ、彼女の手はしばらく離れなかった。相変わらずの握手だった。たったこれだけしか許されない二人による、祈り合うような握手だった。

「なんかもう、っ、すごいなあ。アナタが話してくれる度に、アナタの強さを思い知る」
「っはは……この部屋でそれ言えるなら本物やなオマエ」
「この部屋? 何かマズいものでもあるんですか?」
「なんもあらへんよ」

 熱と頭痛にやられた脳でのカウントが正しいなら、彼女がこのように告げるのはこれで三度目。こういう話をまたしてほしいと、以前告げた彼女に請われるままに、カラスバはこうして呆気なく晒してきた。そしてカラスバが為していく自分の開示に、彼女はいつだって感謝よりも先に賞賛で応えた。自身の柔い部分、堂々と周囲に曝け出すわけにはいかない部分を、彼女は丁寧に肯定してくる。どんなに脆い部分を開示したとて、絶対に踏み躙られないと分かっているから、カラスバも彼女への開示のハードルを、少しずつ下げてきたのだ。
 大抵のことは話しても大丈夫だろうと、そうした信頼を寄せられる程度には、互いに言葉も時間も、この名前のない火の中に惜しみなく焚べてきた。絶対に、とはもちろん言わないが、この火は……まあおいそれと消えゆくことはないだろう。

「……」

 ただそうした言葉と時間をもってしても、この自室……「カラスバには何もない」ことを雄弁に語る空虚でつまらない空間へと彼女を招くことは、相当に恐ろしいことだった。
 必要に迫られて何もかもを身に着け、表向きほぼ完璧と言っていい状態であったカラスバの、それ以外はもうこんな有様だ。カラスバにとっては、外にひけらかしてきたものがすべてで、そこを出し尽くしてしまえばもう何も残らない。
 だが彼女は違う。彼女が表に出そうとしていない、ひけらかさない部分には、面白く、素晴らしい、魅力的な部分が沢山ある。達筆すぎる字も、予防や感染やアレルギーの知識も、家族に愛された子供時代の風邪の思い出さえ。
 ただそういう「何もない」とか「沢山ある」とか、そうした持たざる者と持てる者とでこの二者の間に隔たりを見てしまうことこそ……おそらくはカラスバの中に最後まで残ることになる、厄介な悪癖に違いないのだろうとも、思ってしまって。

「堪忍なぁ。面白味のない、つまらん部屋で」
「部屋……って、重要ですか? アナタに会いに来たのに」

 だってほら、そんな線を引いていない彼女にとっては、カラスバが持っていようが持っていなかろうが、全く気にしないといった心地なのに。

「オマエほんまおもろいな」
「あれっ、なんか褒められちゃった」
「いやほんまやで。こん、な、っ、けほっごほっ」

 急にやって来た、肺を叩かれるような感覚にカラスバは慌てて顔を背けた。体調不良で弱り切ったときにだけ顔を出す、あの日を思い出させる咳だ。身寄りのないガキの頃、あの過酷な時代を生き抜いた勲章でもある。悔いてはいない。嫌ってもいない。いっそ誇りでさえある。ただ……少し、厄介なだけで。
 離れたばかりの手、引っ込めようとしたそれが再度強く掴まれる。不安にさせた、とすぐ分かったので否定しようと口を開いたのに、言葉ではなく咳が気道を埋め尽くしていけない。代わりに手を強く握って首を振った。これで多分、伝わるはずだ。

「……急に来ましたね」
「っなあ、こ、れ、オレもマスクした方が」
「いやそんなのしたら余計に息しづらくなりますって。予防はワタシが徹底しておきます。アナタはもう存分にばら撒いてくれていいんです」
「そら……頼もしい話やな」

 一旦収まったところで彼女へと向き直る。おそらく咳込んだ瞬間はそのマスクの下、焦った顔をしていただろうに、今は凛とした眉と丸い目で、あくまで穏やかに、平然と、見定めるように、カラスバを真っ直ぐ見つめるばかりだ。
 強い子だ。強さでしか構成されていないのではとさえ錯覚させる程だ。だがその振る舞いにまんまと騙され、彼女の強さのひけらかしに甘えすぎた結果、泣かせてしまったことがある身としては……彼女の「強く見せるのが得意」という性質こそ、まさに悪癖、と呼んで差し支えないものでは、とも考えてしまう。
 泣かんで済むように、してやりたいんやけどな。

「ねえ、やっぱり喋りすぎですって。そろそろ静かにしていましょう」
「ごほ、っ……その方がええ、やろな。あかんなぁ、調子乗ったわ」
「えっ」
「浮かれよった」

 何に、とは言わずに、口を左手で抑えながら目を細めて彼女を見る。楽しむように、からかうように睨み上げる。ごついマスクのせいで、いつもよりくぐもった「わぁ」が零れ出てきて、カラスバは思わず咳の合間に笑ってしまう。よっしゃ、一番ええのをもろた。

「お喋りくらい、いつでもしましょうよ」
「いや分かってへんなぁ、ここ、っで、げほっ、は、っひゅ」
「わわ、はいストップ! 寝ましょうすぐ横になりましょう。ああ待って薬がまだだった。えーっと、解熱……色々痛いみたいだしこれかな」

 彼女はカラスバから手を離して、テーブルの上に並べた薬のうちのひとつを取り上げ開封した。当然ながらカラスバにはその箱の商品名が何を意味するのか分からない。だが複数の箱の中から迷いなくそれを取った彼女には、きっと分かっているのだろう。博識をひけらかさない彼女の底は、未だ知れない。

「これ万能薬です」
「っはは、おもろい冗談」
「いや多分アナタの、咳以外の辛いところに全部効くんじゃないかな。頭痛も、喉の痛みも、発熱も」
「……ごっついな、それ」
「ごっついんですよ。実はもう一段階強いのもあるんですけど、そっちはまあ、切り札ってことで夜に」

 彼女はパタパタとキッチンに向かい、ペットボトルの水をコップに注いですぐ戻ってきた。コトンとテーブルの上にコップが置かれ、彼女はそのまま錠剤のシートを取り上げる。それを受け取ろうと手を伸ばしたのだが、彼女が「あ、待って!」と鋭い声を落とした。

「な、んや」
「……カラスバさん、いつも欠かさず飲んでいる薬とかあります?」
「げほっ、っい、や……全然」
「よかった! じゃあ飲んで大丈夫」

 再度錠剤を受け取ろうと手の甲を上にして伸ばしたカラスバに、彼女は首を振って小さく笑った。錠剤のシートを割った状態で、反対の手でカラスバの手をそっと取る。手の平を上向きにさせ、そこへ割ったシートをかざし、くにっと捻って白い錠剤を一粒、手の中に落とした。

「どうぞ」

 お礼さえ言うことを忘れてカラスバは沈黙した。こんなことをされた経験はない。どういう意図があったのかも、よく分からない。高熱をはじめとするあれこれで思考が鈍っているからというわけではなく、平時でされたとしてもきっと分からなかっただろう。錠剤のシートも割れないほどカラスバが衰弱しているように見えたのか、それとも彼女はただ……自分が過去に、一番安心できる相手にされたことを、そのままカラスバにしているだけなのか。

「はい、じゃあもうおやすみです。ソファじゃ落ち着かないだろうし、寝室で」
「いやベッドで横になったらそのまま寝てまうやろ」
「寝てくださいよ」

 尤もな指摘にカラスバも苦笑する。流石に言うことを聞いておいた方がいいだろうなと思い、足をそちらへ向けた。

「カラスバさん」

 寝室のドアを開ける直前に呼び止められ、振り返れば、彼女がペットボトル飲料とストローを持ってカラスバに駆け寄って来るところだった。そのまま受け取ろうとしたカラスバに、彼女は錠剤のときと同じように笑って首を振る。ペットボトルのフタをパキっと開けて、すぐに閉め直してから、ストローとともにこちらへ渡した。
 最初の一捻り、一番力を要するところをやってから渡すというのは、まあ気遣いだ。フタを開けかねるほど非力な人間への配慮としては百点満点だろう。ただ。

「いや……まだそこまでやない」
「?」
「ペットボトルのフタも開けれんほどやないって言うとるんや」
「今は開けられるでしょうね。でもワタシは優秀な看病人ですから、アナタの風邪が急に悪化したときのことまで事前に想定して動けるんです」
「……」
「飲めそうなときに、ちょっとずつでいいから飲みましょう。脱水になるといけないから」

 受け取ったペットボトルとストローを見ながら、おおきに、と呟くように零した。ふふっとマスクの中で咲かせた彼女は、目を嬉しそうに細めたまま、こんなことを。

「ワタシ、ちゃんといますからね」
「……は」
「いつでも呼んでください。まあアナタから呼ばなくても、看病人として様子は定期的に見させてもらいますけどね」

 ああ、おってくれるんや。来てくれるんや。
 などと思ってしまったのだから仕方ない。もう仕方ない。カラスバの思考がふやける理由など、それこそもう大量にあるのだ。熱は高いし、喉も頭も痛いし、咳さえ出始めたし。弁明はもう無数にできる。ならば受け入れてしまおう。

「っはぁ……」
「えっ」
「ぐずぐず、が分かった。今分かった。そらなるやろなあ、オマエみたいなんが、おったら」
「そんな、人をぐずぐず生産マシンみたいに」
「しかも自覚があらへんと。質悪いでほんま」

 からかうように告げてから、カラスバはドアノブに手を掛ける。リビング以上に何もない、ベッドがあれば寝室としての要件を満たすだろうと言わんばかりの、本当にベッドとチェストしかない空間だ。ここに彼女が、様子を見に入ってくる。見られて困るものはない。何もない。何も。

「もしかして、今、一緒にいた方がいい?」
「アホ言うなや。一人で寝れる」
「これは失礼しました! っふふ、おやすみなさい」

 ドアの隙間から見えた彼女が、微笑みながら告げた挨拶。小さく頷いてから、そっと閉めた。にわかに下りた静寂に、ぞっとさせられてしまった。
 おかしい、カラスバの私室はいつだって静かだったのに。静かでなかったことなど今日までなかったはずなのに。人の気配などしないことが当たり前で、そのことに対して今更、どうこう思う必要など。

「っ……」

 ドアに背中を預けて蹲る。何でもいい、何か音が欲しくて、呼吸を止めて耳を澄ませる。ドアの向こうでパタパタと動く足音が聞こえて、ようやく息を吐けた。
 早く薬が効いてほしい。万能薬と彼女が言うのならきっと本当だ。熱も、痛みも、ついでに不安も寂しさも、全部全部取り去ってくれるはず。それまで眠って、待っていればいい。

『もしかして、今、一緒にいた方がいい?』

 そうだと言えずに痛い目を見ているこの状況を踏まえるとやはり、このつまらない虚勢も……自身の悪癖にカウントすべきかもしれない。

2025.11.7

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