かわいい悪癖Ex

 スマホロトムの画面越しであるにもかかわらず、ジプソは律儀に頭を下げた。部下には任せられない仕事があるからと申し訳なさそうに告げる彼に、カラスバは眉をひそめつつヒラヒラと手を振る。

「やめやめ! オレがこないになったんがそもそもあかんねん。文句のひとつでも言うたらええわ」
「いつも休まず働いておられるのですから無理がたたったのでしょう。今日はそちらで休んでください」
「まあ、はいと言うまでこの通話終わらへんやろうしなぁ。取り敢えず頷いといたる」

 取り敢えず、としたのは、この電話が切れた後にでもカラスバは自室を出て、階下にあるサビ組のオフィスで事務作業に取り掛かるつもりだったからだ。今日、必ず片付けなければいけない仕事があるわけではない。見事に体調を崩したのだって本当だ。ただずっとベッドに伏せっていなければいけないほどかと言われると、そこまででもないような気もした。オフィスで書類を睨むことくらいはできるだろうと考えていた。それを咎めるジプソがこの通り、丸一日事務所を空けているのだから、カラスバの独行を止める者などいるはずがない、と。
 だが、甘かった。

「監視を付けます」
「は?」
「病身を酷使する愚行を働かないよう、臨時で、信頼できる監視員を雇いました。もうすぐそちらに着く頃かと」

 信頼できる監視員、の言葉に、カラスバの頭がとある人物を弾き出す。このジプソに、カラスバの監視員として「信頼できる」とまで言わせる人物など、もうたった一人しか思い付かない。

「わたくしの目を欺こうとしても無駄です。大人しくしていてください、カラスバさま」
「おいジプソ、待て」

 カラスバの制止も空しく、通話画面の切れたスマホはそのまま沈黙してしまう。自室に降りた静寂に、細く耳鳴りのキーンという音が混じった気がした。なんてことを。なんてことをしてくれたんやあのアホ!

「っ……!」

 高熱と頭痛で鈍った頭を、書類仕事ではなくまさかこんなところで酷使する羽目になるとは思わなかった。サビ組事務所のオフィスの、さらに上階にあるカラスバの私室。カラスバ以外の第三者が入ることなど全く想定していない空間だ。
 ここに今から来る? ジプソの言う「信頼できる監視員」が? 冗談やあらへん。
 散らかってはいない。見られて困るものがあるわけでもない。逆だ。なさすぎるのだ。最低限の家電と、遊び心のなさすぎる家具。大抵のモノがグレーや黒や茶色のよくある色で、カラスバが周囲に印象付けてきた紫をこの空間で探す方が難しい。今着ているのだって当然だがいつものスーツではなく、寝起きのままのルームウェアだ。ダークグレーの、あのブランケットと同じ、何の変哲もない。見事なまでに何もない場所だ。「カラスバ」を演出できるものが、この空間には何もないのだ。
 どうしたらいい、と思考を巡らせるも、鈍った頭ではろくな解決策など出てこない。呆然とリビングに立ち尽くすカラスバの、その耳が、ジプソの言う「もうすぐ」の気配を拾い上げた。

「こっちですぜ姐さん!」

 玄関の方角から、サビ組の連中の声が聞こえてくる。カラスバは慌ててスマホを仕舞い、玄関の方へと向かう。足跡の数からして二人は確実にいるだろうか。そしてそのサビ組の音に混ざって、カツンと予想通りの音が鳴る。カラスバと同じ靴音。ジプソの信頼に足る音だ。そしてもちろん、カラスバが信頼を寄せる音でもある。

「姐さん! カラスバさまをよろしくお願いします!」
「その呼び方ほんとやめてください! 次にそう呼んだらもう二度と来ませんからね!」
「へい! 気を付けます!」

 冷や水を浴びせられたような心地がした。
 扉の向こうの「監視員」が、まるで自分がサビ組の所属であるかのような言われ方を、ずっと拒んでいることは知っている。だがそういう強めの言葉の応酬が、挨拶レベルの、冗談めかしたやり取りでしかないことだって心得ている。「次に呼んだら二度と来ない」が、サビ組の連中たちと彼女との間で、もう何十回と繰り返されていることだって分かっている。その言葉に、不安になったことなどこれまで一度もなかった。そのはずだ。

「案内、ありがとうございました!」
「うっす! それじゃあオレたちはこれで失礼します!」

 おかしい。なんで今日に限ってこないに不安なんやろ。そんな疑問からズルズルと伸びようとしていた嫌な思考は、しかしインターホンの音に遮られた。
 まさか帰れと言うわけにもいくまい。しかし覚悟を決めるための時間が必要だった。この何もない空間に彼女を招く覚悟……「カラスバには何もない」ことを彼女に気付かせてしまうことへの覚悟だ。
 たっぷり十秒、目を閉じてカラスバは頷く。ドアに伸ばした手が震えていないことに安堵しながら、鍵を開けて、引いた。

「お、開いた!」
「……」
「お迎えありがとうございます。本日ジプソさんより臨時で派遣されました監視員、兼、アナタの看病人です」

 ぱちっとカラスバに目を合わせた彼女は……咲かなかった。いやいつものように咲いたのかもしれないが分からなかった、と言った方が正しい。何故なら丁寧にこちらへお辞儀をした彼女の顔の大半を……一般的な店ではそう売っていないような、ごつい装甲のマスクが覆っていたからである。

「なんやそれ」
「おやご存知ない? 看病において最も避けなければいけないのは共倒れですよ。予防はいくらしてもしすぎるということはないんです」

 かっこいいでしょ、と彼女はマスクの紐を指で摘まんで目を細めた。声の上擦り方からしておそらく笑ったのだろう。その指先の光沢と不自然なしわで、彼女がビニール製の透明な手袋を嵌めていることが分かった。口元だけでなく手まで防護する徹底ぶりである。
 足元には大きな紙袋が二つ。ビニール袋が少し見えているところからして、おそらく道中で何らかを購入してきたところなのだろう。絶対に不足がないようにと、彼女の思う万全の準備をしてきたことが伺えた。絶対に共倒れするまいという決意、病人……カラスバの手を煩わせてなるものかという執念、そんなものも同時に感じた。あのジプソ直々の依頼ということで、張り切っているというのもあるのかもしれない。
 しかしジプソからの連絡はどれだけ前に見積もっても一時間前とかその辺りであるはず。たった一時間弱でこれだけの準備をしてきたというのか。こんなところまで本当に恐れ入る。

「いや、そもそも共倒れになりたくないんやったら」
「ストップ! それはもう言うの止めません? お互いのために」

 手袋を嵌めた右手をこちらにかざして、口を塞ぐフリをして、再度目を細める。ごついマスクのインパクトですぐには気付けなかったが、髪もいつものハーフアップシニョンではない。おそらく後ろで一つにまとめられているのだろう。首元に栗色の髪が見えないことを少し新鮮に感じる。

「もし高熱で寝込んだワタシが、ホテルZに絶対来るなって言ったところで、アナタ、来るでしょう」
「せやろなぁ」
「それと同じことですよ。今回は偶々、アナタの番だっただけ」

 歌うようにそう告げる彼女の声は、おそらくマスク越しだからだろう、いつもより少し曇って、やわらかく聞こえた。

「食べるものとか衛生用品とか、色々と買ってきたんです。とくに一番おいしいものは、すぐに冷凍庫に入れないと、それはもう大変なことになる」
「大変な……」
「溶けます」
「溶ける」
「っふふ……ね、お邪魔してもいいですか?」

 ここまで言わせた彼女を、それでもと追い返すことなどできるはずもなかった。それにこの段階で彼女にできるありったけを尽くしてきたのだとありありと分かるそれを、無下にするという選択肢はもうカラスバにはない。そもそもこちらは高熱で、買い出しにも安全に行けない状態だ。そこへ、紙袋いっぱいに入れられた何らかの支給があるのは、もう疑いようもなく有難いことで。

「ええよ、入りよし」
「ありがとうございます!」
「それはオレの台詞やな。おおきに」

 彼女は小さくお辞儀をしてから玄関に入った。紙袋を二つ置いて、靴を脱ぐ。他者を招くことを前提にしていないため、スリッパなどという丁寧なものの用意はない。けれども彼女はスリッパを探す素振りなど微塵も見せることなく、紙袋を持ち直して短い廊下を進んだ。揃いの靴が並ぶ様が、目に痛いくらい眩しい。
 冷蔵庫を開けてもいいですか。好きにしてくれてええよ。ありがとうございます。それ全部食品か。いやこっちの袋だけですね、残りはティッシュとか手袋の替えとか消毒液とか。えらい買い込んできたんやな。そりゃあもう任せてくださいよ。重かったやろ、玄関で引き取ったらよかったなぁ。いや病人を荷物持ちになんてさせませんからね。病人て大袈裟やな。熱は測りましたか。さっきは八度五分。それを病人って言うんですよ。
 いつもと変わらないテンポでの会話だ。高熱で頭がぼーっとすることと、針でキリキリと引っかかれるような喉の痛みが付きまとっていることを除けば、本当にいつもの会話。彼女は、何も着飾っていないカラスバを見ても、何もない部屋に入っても、眉ひとつ動かさなかった。そんなものに全く興味がないといった様子であった。驚かれなかったこと、眉をひそめられなかったこと、言及されなかったことに、どうしようもなく安心してしまった。

「すごい掠れてる。かなり痛いですよね、喉」
「せやな、喉と頭と、熱か」
「もう立っていられないってレベルの辛さを十、いつもを一にすると、今はどれくらい?」
「どうやろなあ、八くらいとちゃうかな」
「あぁだいぶ無理してますねそれ。ほら座って。ワタシは勝手に動いておきますから」

 少し慌てた様子になって、彼女はカラスバの手を引きソファへ誘導した。促されるままに腰掛ければ、彼女は傍に置いてある、ダークグレーのブランケットに手を伸ばす。ああそれを被っていろということか、と考えたのだが、彼女はもう一度カラスバの方を見て、その手をすっと引っ込めてしまった。どうやら不要だ、と判断したらしい。

「今、カラスバさんちょっと熱いでしょ」
「そうかもなぁ」
「手袋越しでも、手が汗ばんでるのって分かるものですね。多分それ熱が少し下がってるんだと思いますよ。このまま良くなるかなぁ」
「……いや、すまんけど多分」
「あぁ大丈夫です大丈夫です。なんか日中は比較的マシだなって思ってても体調って夕方から急速に悪くなるものです。風邪っ引きさんにはよくあることです。今のはワタシの希望的観測を口にしただけでね? そうならなかったとして、アナタに非は全くないんです。だから謝らないで」

 一気に早口になった彼女に苦笑しながら、カラスバは小さく頷き、ソファに凭れ掛かった。
 カラスバ自身、このように体調を崩した際にはどうなるかということはもう経験として分かっている。朝一番の気怠さから、昼にかけて少し回復し、午後の体の軽さに調子に乗ったところで、そのツケを払えとばかりに夕方から急速に悪くなるのだ。そのような経過を辿るのはカラスバだけかと思っていたのだが、どうやら体調を崩した人間において、こういうのはよくあることらしい。
 そして風邪や体調不良のあれこれについてはおそらく、彼女の方がカラスバの何倍も詳しいのだろう。でなければ必要なものとしてこれだけの量の物資を、僅か一時間で揃え切れるはずがない。
 彼女は冷蔵庫の前に立ち、扉を開いた。紙袋から食品や飲料らしきカラフルな諸々を取り出して、手際よく入れていく。冷蔵庫の中にろくなものが入っていないことについても、彼女は一切言及しなかった。
 あっという間に大量の諸々を冷蔵庫に収め終えた彼女は、空になった紙袋を畳みつつ、くるりと振り返ってカラスバを認め、目を柔らかく細めた。マスクがあるため表情の詳細は分からないが、とりあえずそれを「咲いた」と認識することにしようと、カラスバはぼんやりとした頭でそう思った。

「カラスバさん、ご飯まだですよね」
「せやな、食べてへん」
「何なら食べられそ……」
「……ん?」

 何なら食べられそうか、と尋ねたかったのだろう。さてどうだろうかと首を小さく捻ったカラスバに対し、彼女は何故か眉を下げて口をつぐんだ。申し訳ない、と顔いっぱいに書いてある。カラスバの予想通り「ごめんなさい」までくぐもった声で転がり出る始末だ。

「なんで謝るねん」
「いや、ワタシも小さい頃によくそう訊かれたんですけど、体が辛いときに食べることってあまり考えられないし、訊かれても困っちゃいますよね」
「訊かれたって誰にや」
「誰にって……」

 そこでまた言葉を詰まらせた彼女は、一瞬、ほんの一瞬だけ傷付いたような表情になった。よくないことを尋ねただろうかとカラスバもつられて不安になる。普段なら気にせずいられたはずのことでも、もうこれだけ体が打ちのめされている状態では何もかもがままならない。ポケモンバトルで言うなら四倍弱点を飛ばしてくる相手と対峙しているような感じだ。
 何らかを言うのをためらっている、と感じる。けれども彼女が下手な誤魔化しを選ばないことくらい、もう十分に分かっている。だからカラスバは彼女を真っ直ぐに見て、その逡巡の奥から何らかが転がり出てくるのを静かに待った。

「ワタシが風邪を引いたときは、その、母が」

 ああ成る程、とカラスバはすぐに合点がいった。どうやら彼女は、身寄りのないカラスバの前で家族の話をすることをためらったらしい。

「そらええなあ」

 そういえば世間一般には、看病というものは親とか祖父母とかそういう人にしてもらうものだった。
 もちろん常識としてはそうであると知ってはいる。しかし我が事としての経験に乏しいカラスバは、彼女の言外に滲んだ「当然」を汲み取るのが随分と遅れてしまった。
 ただカラスバの方ではそんなこと、ああやってしまったな、という小さな、本当に小さな反省が残るだけ、程度の話だったのだが。そんな反省の種となった彼女の方が、なんだかもう、いっそ殺してくれとでも言わんばかりの顔つきで。

「いっそ殺してください」
「っはは、ほんまに言うんかいな。全然気にしてへんのに」
「ほんまに、って?」
「いや……いやそれこそ気にせんでええ。オマエがそう言いそうな気がしただけやさかい」

 普段からお喋りで、とにかくありったけ言葉を尽くしたがる彼女は、けれどもその言葉で「失敗」することを殊更に恐れているようなところがあった。アナタの顔が歪むところを見るのが好きだとか、ボコボコにしてやりますとか、そうした煽り文句は平気で放つのに、自身の意図しないところが刃に変わってしまうことは、もうどうしたって許せないらしい。
 またその潔癖に近い質は、カラスバとの……まあ要するに「言葉しか交わすことが許されない」間柄では、特に強く出てくるようだった。
 もちろん、そんな配慮は今のカラスバには不要なもので、こんな些末なことで勝手に傷付き、勝手に自分を責める彼女をいじらしく感じるばかりで。ただ「気にしてへんのに」とは言えても「ええ加減その腫れ物扱いをやめろ」とは言えなかった。おそらくカラスバが後者の強い言葉で咎めれば、彼女は本当にやめる。だからこそ、言わなかった。
 だって言葉だけなのだ。二人の間で制限なく交わせるのは、言葉だけ。ならばそこに配慮とか想いとか祈りとかを、ありったけ詰め込みたいと考えたとして……それはもう仕方ないことだ。そこでのいじらしい空回りくらい、笑って受け入れてやろうと思えた。

「折角やし教えてぇな。セイカはこれまで、風邪引いたとき、どんな風に看病ってヤツをされたんや」

 大きく見開かれた目がぱちぱちとゆっくり瞬きをする。数秒の沈黙を置いて、彼女は畳んだ紙袋を片手にカラスバの方へと戻ってきた。

「あの、アナタやっぱりそんな喉で喋るべきじゃ」
「喋った方が気が紛れてええんやけどな。監視員さんはお喋りに付き合うてくれへんのか。寂しいなぁ」
「あっ、わ、分かりました話します! 話します!」

 彼女は焦ったように承諾してから「これでちょっとマシになるかな」と、ソファの傍に置いていた、もう一つの紙袋を広げて、中から出てきたのど飴の袋をカラスバに手渡した。お礼を言って受け取ったカラスバに頷いてから、彼女は紙袋の中身をさらに取り出し、無機質な黒いテーブルの上へと並べ始めた。

「無理は、させてもらえなくて」
「うん」
「出掛ける予定も全部中止して、お薬と、あったかいものを飲んで、休むんです」
「そらそうやろな」

 のど飴の袋があと三つ。マスクと手袋の替え。ポンプ式のアルコール消毒液。アルコールタイプの除菌シート。これは私物だろうか、少しほつれの見える無地のタオルが数枚出てくる。柔らかく、肌を痛めないことをウリにしているらしいティッシュが、一箱、二箱、三箱、四箱。いや多すぎるやろそれは。

「お母さんの作ってくれる、甘いジンジャーティーが好きでした。あと粉のコーンスープも」

 お母さん、という柔らかい音が彼女の口から零れ出たことに、カラスバは自然と笑ってしまった。からかう意図ではなく、ただ本当に、その響きに笑って、頷きたくなっただけだ。

「普通の咳とか鼻水とか軽い発熱とかなら、お母さんは普通に仕事に行って、日中はお母さんのポケモンと一緒にお留守番ですね。布団の中に本と漫画とパズルゲームを持ち込んで遊ぶんです。楽しかったな」
「へえ」
「ワタシ、咳じゃなくて鼻水が出るタイプの風邪が小さい頃、とくに多くて。でも普通のティッシュだと、鼻の下がすぐ荒れて真っ赤になるんです」
「あぁ、ほんでこのティッシュのこの量か」
「いやこれは失敗です、ごめんなさい買いすぎました。アナタは鼻風邪じゃなかったみたい」
「いやまあここからそうなるかもしれへんしなぁ」

 今のところ、カラスバの症状として最も強いのは喉の痛みと頭痛だ。だからおそらくこのティッシュを開封したところで、使うのは数枚程度のものだろう。ただこれだけの数を持ってきたところを見るに、昔の彼女の鼻風邪は、このティッシュを数箱単位で消費する程のものだったのかもしれない。

「あまりに酷いとお母さんが、鼻の下にクリームを塗ってくれるんです。すっごいヒリヒリして、痛い」
「手遅れやないんかそれは」
「いやでもそのヒリヒリを耐えればちゃんと良くなるので!」

 最後に紙袋の奥から、市販薬と思しきいくつかが出てくる。テーブルの上にそれらを並べてから、彼女はふうと小さく息を吐いて笑った。

「ただあまりに高熱でふらふらな状態だと、お母さん、仕事を休んでくれたんですよ。もうこっちは熱で魘されて体を起こすのも辛いような状態だから、当然、お母さんが家にいたところで一緒に遊ぶとかできないんですけど、でも……」
「でも?」
「あまりに体が辛いときって、一人じゃ駄目なんですよね。なんていうかもう心理的に駄目で」
「心理的に駄目」
「そう。だから一番安心できる人が、声の届くところにいてくれるってだけで、もう、ただ嬉しかった」

 ただ近くにいるだけで最高の看病人足り得る「母」という存在。カラスバ自身の経験としてほとんど根付いていないそのぼやけた像が、彼女の話によりいくらかはっきりとした輪郭を持ち始めた気がした。なんだか、嬉しい気がした。

「その日だけは、大好きな人を独り占めできたから……ワタシ、風邪を引くのってそんなに嫌じゃなかった」

 彼女の口から語られる「独り占め」の温度感は、カラスバがかつて恐れた自身の独占欲のそれとはまるで違っていた。こんなにもいじらしい「独り占め」があるのかと、半ば感心してしまいそうになった。

「ね、だからアナタもこれからは嬉々として風邪を引いて、今日みたいに弱ってしまえばいい」
「は?」
「素敵な日にしましょうよ。正当な理由でワタシを独り占めできる、特別な日に」

 そのいじらしい「独り占め」を、彼女は呆気なくカラスバに明け渡して笑った。
 正当な理由で? この子を? 都合が良すぎやしないかそれは。いつから風邪というのはそんなボーナスを付与されるべき代物になったんだ?
 いや、まあ、くれるというのなら。

「あっいやごめんなさい今のはちょっと、いやかなり傲慢だったかも! 違うごめんなさい忘れて」
「ほなもろとこ」
「ほなもろとこ!?」

 カラスバの頭に、声が響いて頭痛が悪化することへの配慮からだろう。彼女はこれまでずっと、いつもより小さめの声量で話していたのだが、流石に動揺すると声を絞ることを忘れてしまうらしい。
 驚愕したときの彼女の癖であるオウム返しがいつもの声量でまろび出て、カラスバは思わず笑ってしまう。成る程これは確かに頭に響いて痛いな、と思いながら、そんなこともうどうでもよくなるくらい、愉快で仕方ない。

「あと、アナタが喜んでくれるかどうかはさておき、少なくともワタシは今、とっても喜んでる」
「オマエが? なんでや」
「アナタが独りにならずに済んでいるから」

 カラスバが独りになることの何がいけないのだろう。そう思いつつ眉間にしわを寄せたカラスバに、彼女はにっと目を細めて笑った。

「ははぁ。ピンと来ていないってことは、アナタまだ元気ですね?」
「どういうことやそれは」
「いよいよ体がボロボロになるともう一人じゃやっていかれなくなりますよ。体もそうですけど、心が。体調悪いときってすっごい寂しくなるんですから。きっとアナタだって、ぐずぐずになる」
「ぐずぐずに」
「ぐずぐずに」

 本当にそうだろうか。カラスバがこのように手酷く体調を崩したことはこれまでにもあったが、そのような「ぐずぐず」に覚えはなかった。
 ただ彼女はなぜか、カラスバの体調が悪化した場合の想定として、もう「ぐずぐず」を確信しているかのような表情だった。からかいと労わりと心配が、それぞれ同じくらいの割合でその目に溶けている。彼女のそういう勘が外れたことは、少なくともカラスバの知る限りでは、一度もない。ならばやはり、そうなってしまうのだろうか。

「もちろん、そんな風にならずにこのまま元気になってくれるのが一番いいけど」
「……」
「えっと、まあ要するに、アナタの体調が悪化したとてワタシはその様子も独り占めして楽しむから、全然、申し訳ないとか思わなくていいですよってこと! 高熱でアナタの顔が歪むところまで見られるなんて私は本当に幸せ者ですねぇ!」
「オマエ言い方ほんま……っ、まあええわ」

 流石にこれは、彼女自身の愉悦のための煽りではなく、カラスバへの配慮から来るものだ。もうそれくらいは分かる。形だけの憤りを表出させて、カラスバは緩く笑った。これはもう、どちらかというと感謝に足るものだ。言葉選びはいつも通りよろしくないが。

「オマエ、今日の分の調査とか依頼とかは?」
「アナタのために全て中止にしました、って言ったら怒っちゃいますか?」
「っ、いやそれは」
「ジプソさんからの直々の依頼なんていう、とんでもないものが来たんですから、全部リスケしてこっちを優先するに決まってるんですよね。いやぁ嬉しかったなー!」
「あいつほんま覚えとけよ……」

 彼女は、体調の悪化は夕方からが本番であることを分かっている。分かっていて此処に来た。つまりもう夜遅くまで居座る覚悟で来たということだ。それはつまり、もしカラスバの体調が悪化したときには、彼女にその「ぐずぐず」を見られてしまうということでもあり。
 まあいいか。もし体調が夕方から悪化したら、そんな風になってやってもいい。どんなものかは知らないが、まあ彼女がいるのならそう絶望的なことにはならないだろう。今日一日をカラスバのために潰してここに来た彼女のため、それくらいなら呑める。

「その買い物のレシート、ちゃんとジプソに渡しときや。報酬に上乗せして出すさかい」
「え、いいのに別に。報酬はもう貰ってるんだから」
「なんや前払いか。あいつどんだけ奮発したんや」
「前払いっていうか、アナタのお部屋に入る権利と、アナタを独り占めする権利のことなんですけど」

 あぁ、成る程。どうやらジプソは彼女に正式な依頼をしておきながら、報酬の話をしないまま契約の場を終わらせてしまったらしい。

「そんなん一円にもならへん」
「ええ、でも何億叩いたって買えない」

 報酬の話をなあなあにしての契約。サビ組としてそんな迂闊なことが許されていいはずがない。もちろんそれはジプソも重々承知だろう。きっとわざとだ。あいつは彼女が欲しいと言ったものを、きっと二つ返事で差し出すつもりでいる。なぜなら自分には何の負担もかからないことが分かっているからだ。
 彼女が報酬として何かを欲しがることがあるとすれば、それはもう、カラスバに関連する何かに決まっている。そんな確信がジプソにはあったに違いない。報酬の支払い手が絶対にカラスバになることを確信していたのだ。だからこんな、迂闊 なことを。
 やってくれたなと思いながら、カラスバは目を細めて笑う彼女を改めて見る。さて、この子は何を欲しがるのだろう。

「ね、いいものを出しましょうか。きっと食べやすいと思う」
「いいもの」
「ビタミンとかミネラルとか難しいものは二の次、まずはエネルギーです。甘いものは好きですか?」
「まあ、それなりに食べる方やな」
「よかった! それじゃあ」

 彼女は駆け足で冷蔵庫へ向かう。下の冷凍室を開いて手を突っ込み、ここに来てすぐに話していた「一番おいしいもの」を取り出して掲げた。

「アイスクリーム、どうですか? ワタシも食べたくて二人分買っちゃったんです」

 少しワクワクしている自分がいる。まだ一口も食べていないのに、既に甘い。大好きな人を独り占めできたことを喜んだというかつての彼女も、こんな気持ちだったのだろうか。

2025.11.6

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