(本編、サビ組に初めて呼ばれたときのアレ)
こちらに向けて深々とお辞儀をする、礼儀正しい子だった。だが無口な子だった。怯えているのか、脱いだ帽子を胸元で強く締めたまま、浅く俯いて、決してこちらを見ようとはしなかった。その態度はサビ組に握られては困る弱み……要するに後ろめたいことがあるからなのか、あるいは本当にただ恐れているだけなのか。まあそのあたりは、あのソファに座らせて「お話」をすれば、そのうち分かるだろう。
しかしソファに座らせて話を進めても、口を開くのは隣の青いジャケットの少女ばかりで。白い帽子を膝に置き、つばの部分を大事そうに両指で掴んだ状態のまま、彼女は微動だにしなかった。何度か話を振っても沈黙が下りるばかり。こちらの機嫌を損ねないようにだろう、青いジャケットの少女……デウロが、沈黙が長くなりすぎない絶妙なタイミングで代わりに答えてきた。あまりに健気なその姿勢に胸を打たれ、少々言葉が柔らかくなってしまったのは仕方ない。
オマエ恥ずかしないんか、とカラスバは俯いたままの少女に問いたくなった。同時に、このソファに座らせておきながら、まったくもってその無口な少女を暴けていないことに少しばかり苛立ちを覚えた。
ええわ。この場に、守られてばかりのお姫さんは要らんことを教えたる。
「ほな、契約成立やな。……ところで」
十万の利子が数日で百万になるなんておかしい、と声高に抗議してきた少女、デウロの度胸はよく分かった。彼女は大体、見定めた。
次はオマエの番やで、とばかりにカラスバは顔をわざとらしくそちらに向けて、小さく笑う。
「そちらさんは、オレらに何も言わんのか?」
「……」
「ん? 言いたいことあるなら声に出したらどないや」
わざと柔らかい声にしてカラスバは問う。こちらの声を受けてもなお、少女はピクリとも動かなかった。脱いだ帽子を膝の上に置き、目を伏せるその姿は、怯えているようにも、呆然としているようにも見える。こちらへの言葉を選んでいる、という雰囲気ではない。微動だにしないそれは、もう端から発言を諦めているかのようだ。
甘いなぁ、とカラスバはほくそ笑んだ。このまま沈黙を貫いていれば、こちらが自身への興味を無くし、解放してもらえると……そう思っているのならこの子供、サビ組を舐めすぎている。
「そのソファがごっつ気に入ったんやなあ。ずっとおったってええんやで」
「っ……ね、セイカ」
サッと顔を青ざめさせたデウロが右腕を伸ばして、彼女……セイカと呼ばれた少女のジャケットをつまみ、軽く引っ張った。お願いだから何か言って、とデウロの横顔が雄弁に訴えていた。ジャケットを引かれた彼女の肩が、大きく息を吸うときの動き方を、して。
「つまりアナタ方は」
おや、とカラスバは軽く目を見張った。ここに来てからずっと沈黙を貫いていた彼女が、ついに口を開いたことに対して驚いたのではない。その華奢な体躯に見合った少女らしい声に、ミアレシティの者では在り得ない、若干の癖があったことに驚いたのだ。
ミアレシティの人間ではまず出せない、特殊な「アナタ」の響きだった。この子はもしかしたらミアレシティの、いやカロスの外から来た人間なのかもしれない、などということを考えた。もしかしたら彼女は、喋り慣れていない言葉での会話で、サビ組に余計なことを口走ることを避けたかったのかもしれない。自分が口を開いても、お友達……デウロのお荷物になるだけだからと。
「ワタシの友達をカモにしたんですね」
続いて放たれた「ワタシ」のイントネーションも、ミアレシティではついぞ聞くことの叶わないもので。
どこから来たんやろなこの子は、と悠長に考えていたカラスバは、彼女の言葉に宿った灼熱に気付くのが、やや遅れた。
待て。今オマエ、何て言うたんや。
「仲間を助けてもらっておきながら、その恩を仇で返したんだ」
「セイカ、ちょっと」
「ガイって、そんな悪いことしたかなぁ。アナタ方に、利用されなきゃいけないようなこと……」
可哀想なほど真っ青になったデウロの手にジャケットを握られたまま、彼女は帽子をさらに強く握り締めた。その手が、震えていた。だがもうカラスバには分かる。恐怖に震えているわけではない。怒りだ。この少女は憤っている。サビ組の、カラスバたちのやり方に憤っている。
「悔しい」
そこで初めて彼女は顔を上げて、カラスバを見た。
「……」
顔色は悪い。だがデウロよりはマシだった。青ざめているというよりも生来の顔色の悪さであるようにも見えた。誰も彼もがお洒落にこだわるミアレシティにおいて、彼女の髪や顔はいっそ場違いなほどに純朴だった。細い眉と、小さな鼻。かたく引き結ばれた口にリップを塗ることもなく、耳元に煌めく何らかが揺れているわけでもなく。柔らかい栗色の髪を束ねるハーフアップシニョンは、帽子を被っていたからだろう、いくつかの束が後れ毛として耳の辺りにふわふわと揺れていた。
そんな、化粧っ気も飾り気もない純朴な有様の中に二つ、強烈なものが埋め込まれていた。胡桃色の、丸い瞳だ。大きく、燦々と、静かに輝くそれは、灼熱の金属のようにも、冷たい刃のようにも見えた。
「アナタには」
「……」
「ガイが、こういう仕打ちを受けても仕方ない人に見えたんだ」
よくない目だ、とカラスバは思った。なぜ迂闊に視線を合わせたんだ、と後悔さえしそうになった。もうおしまいだ。手遅れだ。だってもう、もう「そこ」から逸らせない。こちらが視線で刺してやろうと思っていたのに、カラスバの目で凄んでやろうと思ってさえいたのに。
それがどうだ。刺す覚悟があったはずのカラスバの方が、逆にそんなものを首元に突き付けられて、息を止められようとしているではないか。
「見る目がない」
「セイカ……っ」
「騙す相手はもっとよく見て選んだ方がいい。その眼鏡、度が入ってないんですか?」
「セイカ!」
けれどもそんな、ぞっとするような瞳の持ち主が、デウロの制止も聞かず放ってきたのは、なんともまあ分かりやすい煽り文句で。
そないなこと言える度胸あったんかいな、と、カラスバは目を逸らせないままに思わず笑ってしまいそうになった。だってもう、そんな言葉の抑揚だって、違和感があったのは「アナタ」と「ワタシ」くらいのもので、他は本当に、生粋のミアレ育ちと言われても頷いてしまうくらいに流暢で綺麗なのだ。喋り慣れていない言葉でサビ組に失礼を働いてはいけないから、などという理由で黙っていたわけではないことは明白だった。
先程までのおどおどしたアレは全部演技か? なんや。オマエ何がしたいんや。
「もうやめよう、セイカが無事じゃ済まなくなる……!」
「別にいい。ワタシがこの人たちに何をされたって、ガイがこけにされた事実はもう覆らない」
ジャケットの裾を強く引くデウロの方を、もう一瞥たりともせず彼女はカラスバに視線を合わせ続けていた。丸く見開かれただけの目は狂気じみているというわけでも、こちらを睨んでいるというわけでもない。本当にただ真っ直ぐ見ているだけ。なのにこんなに、こんなに。
「それにこの人たち、どうせルールを大きくはみ出すことはできないよ」
こちらに目を合わせたまま、彼女はそんなことさえ言ってみせた。おそらくサビ組が警察の世話になっていないことをどこかで聞き知ったのだろう。ルールギリギリを走るサビ組が、お金を借りた人の知人に、物理的に手を出すことなどできるはずがない。まったくもってその通りではあるのだが、それを真正面から指摘され、恐るるに足らずという態度を取られるのは、やはり面白くないわけで。
ああでも、その命知らずな言動だけは面白いかもしれない。だって、せいぜい暴利をチラつかせてタダ働きさせるのがアナタ方にできる関の山だろうと、そういうことまで暗に言えてしまうのだから、この子は。
「オレらのことよう分かってるんやなあ、そちらさんは」
皮肉を混ぜても、最後の語気を強めても、彼女の顔色は変わらなかった。デウロがもう倒れてしまいそうな顔色であるだけに、いっそ不気味に感じるほどの、能面のような変化のなさだった。
ええで、覚悟しとき。オマエの考える「関の山」で、オマエに仰山きばってもらおうやないか。
その顔、歪ませたる。
「お仕事は、します」
「そらよかった。ほなオマエに真っ先に連絡させてもらうわ」
オマエだけを呼び出すさかい、覚悟しとき。そう暗に告げてカラスバは口角を上げた。
彼女はその言葉を受けてもなお、微動だにしなかった。
「そ、それではわたくしたちはこれで失礼します! ほらもう行くよセイカ」
さっと席を立ったデウロに急かされるようにして、彼女はようやくこちらから視線を逸らし、立ち上がった。そして強く握りすぎて形の崩れた帽子のつばをぐいと掴み直して、強めに引っ張って形を直そうとしていた。もう一刻も早くこの場から去りたいと考えているデウロの横顔に、僅かな焦りと苛立ちが見えるほどの悠長な動きだった。
彼女はデウロの動きに合わせる形で、カラスバに深々とお辞儀をした。ジプソに案内されるがまま、一度も振り返ることなくオフィスを出て行った。
「……なんやねんアイツ」
頭を後ろに倒してソファに凭れ掛かり、深く、長く息を吐いた。目を閉じて先程までの「お話」を思い出そうとしたが、厄介なことにあの子のギラついた目が目蓋の裏にまで焼き付いていて、なかなか、取れてくれそうになかった。
彼女たちを階下まで送ってきたのだろう、こちらへ歩み寄ってきたジプソは、眉間に深くしわを作ったカラスバを妙な目つきで見た。
「なんやその温い目」
「いや、貴方がやんちゃしていた頃を思い出していただけです」
「はぁ!?」
とんでもないことを言い出した部下に驚いてしまう。なぜあの子供を見てカラスバを思い出すというのか。
「やめやめ! オレに重ねんな、身の毛がよだつわ。そもそも全然似てへんし」
どこも似ていない。少なくともカラスバにはそう見える。だがジプソは「失礼しました」と言いながらもその温い目をやめない。
彼の中で一体、カラスバと彼女の何が重なったというのか。気にはなるが、問いただしてもろくなものが出てこないような気がして、カラスバは追究を諦めた。
「せや、あちらさんにお見送りしてやって」
「ええ、既にそれぞれに付けています」
「それやったらええねん」
「お見送り」とは、お仕事をお願いする相手を監視するためのカメラのことだ。街の至るところに付けている分とは別に、対象者を追尾する用のカメラを、新規の働き手を得た際には必ず用意している。対象者の動きを追い、逃げられると思うなよと圧をかけるため、また不穏な動きをしていたらすぐに動けるようにするため、この監視を外すわけにはいかなかった。
カラスバはデスクに移動して、ノートパソコンを開く。おや、と意外そうな顔をしたジプソに、カラスバはにっと笑いかけた。
「なんか生意気やったし、今日はオレが直々に見てやろか」
「ではその生意気な方を映しましょう」
慣れた手つきでパソコンを操作し、ジプソはそっと離れた。画面に映し出されたのはサビ組の事務所の前。あの「生意気な方」は、ちょうどデウロと分かれて反対方向へ歩き出したところだった。
「カラスバさま、しばらく席を外します」
「ああ、そういやお話の予定やったな。頼むで」
タダ働きをさせている連中との「お話」のため、ジプソは早足でエレベーターに乗り込んでいった。扉が閉まるのをのんびりと眺めてから、監視の画面に視線を戻す。ブルー広場をポケモンセンターの方角へ普通に、本当に普通に歩いていた彼女は。
「は?」
次の瞬間、膝をかくんと折ってアスファルトに座り込んでしまった。
「おい何や、気分悪なったんか」
彼女に聞こえるはずもないのに、カラスバはそんなことを言いながら、思わずパソコンのディスプレイの縁を握り締めてしまった。
彼女は唖然とした表情のまま、両手をアスファルトにつけて、ぐっと力を込める。立ち上がろうとしている。だが、立ち上がれていない。紺色のワイドパンツから覗く、カメラ越しでも分かるほどにガクガクと震えている脚が、それを許さない。
彼女が首を捻って視線を脚へと移す。震えていることを認めた彼女の顔が、くしゃっと歪んで、目の胡桃色が盛り上がって、泣きそうになって。
「っ……」
そうしてカラスバが息を飲むのと、彼女のポケットからボールが転がり落ち、中からポケモンが飛び出してくるのとが同時だった。草タイプの、メガニウムだ。
メガニウムは長い首をぐいと曲げて、彼女の様子を案じるように顔を覗き込む。そっと目線を上げて相棒を認めた彼女は、自分が「独りではない」ことを思い出したらしい。蝋のように白い顔が、そのまま弾けた。
「!」
もうずっと子供の頃に見た、路上でマジシャンが金稼ぎのためにやっていた手品。彼の持っていたステッキの先に白い花がポンと咲く様子を、何故かカラスバは思い出した。十年以上前の光景、あの鮮やかな一瞬を、魔法のような咲き方を、何故だか今、思い出した。だって、まさにあんな感じだったのだ。彼女の、弾けるような笑い方は。
「っふふ、どうしよう、腰抜けちゃった! ごめんね、今ちょっと立てないや」
ご飯が美味しかったからおかわりしちゃった、くらいの言い方で彼女はそう口にした。ああ怖かった、と歌うように続けて、笑顔のまま、ジャケットの裾で目元を拭ってみせる。よく見ると手まで震えていた。この部屋ではそんな素振り、全く見せなかったのに。
能面のようだった彼女の、この部屋での表情と一ミリも重ならない、弾けるような眩しい咲き方が、カラスバの頭を掻き回す。パソコンのマウスに置いていた手が震えていた。視界の隅でそれを捉えてしまい、情けない光景にもう頭が真っ白になった。今度はカラスバの顔から表情が消える番だった。あの胡桃色の瞳はもうこちらを刺していないにもかかわらず、カラスバは画面から一度も目が離せていない。
「……」
近くを通った老夫婦が、彼女に大丈夫かと問い掛けている。笑いながらヒラヒラと手を振り、大丈夫と返して笑っている。
しかし老夫婦はすぐには立ち去らず、彼女の顔色の悪さを指摘し、鞄から飲み物を取り出して渡してきた。他者からの飲食物などおいそれと受け取るべきではない、とカラスバは眉をひそめたが、彼女も同じ認識だったのか、それともただ遠慮を貫いただけなのかは分からないが、大きく首を振ってそれを拒み、頑として受け取ろうとはしなかった。
老夫婦を見送ってから、彼女は大きく伸びをして、ゆっくりと立ち上がった。まだ僅かに震えている手をメガニウムに伸ばす。頭を撫でられて心地よさそうに目を細めるメガニウムに、彼女は笑いながらそっと、尋ねた。
「ねえ、あの部屋でのワタシ、ちゃんとやれてた? かっこよかった?」
かっこよかったで。
喉まで出かかった言葉を押し留め、カラスバは小さく咳払いをした。
ここでの……不気味で生意気だと思っていた彼女のすべては、こちらへの恐れを見せないための、彼女の精一杯の虚勢だったらしい。それはまあ、見事なものだと思った。これまで脅しの恐怖とは無縁の世界で生きてきたであろう、ティーンの少女が張る虚勢としては、あれ以上に立派なものはないだろうと思ってしまった。だってあの子は顔を上げた瞬間からオフィスを去るまで、一度も目を逸らさなかったのだ。
ただ、それだけならあそこまで煽る必要はなかったと思うのだが、それはもしかしてこの少女の生来の気質によるものだろうか。
かっこよかった、の問いに大きく頷いたメガニウムが、賞賛の意味合いだろうか、彼女にぐいと顔を近付ける。彼女は蝋のように白い頬をメガニウムの額にぴたっと引っ付けて、肩を震わせながら楽しそうに笑う。
「まあ、自分としても及第点かなとは思ってるよ。きっと上手にできたよね」
頬を離して、メガニウムを見上げた彼女は、くいっと眉を上げて、悪戯っぽい笑顔に変えて。
「だってあの二人絶対、デウロじゃなくてワタシを嫌った!」
「あ、っ」
カラスバは思わず立ち上がった。にっと笑った彼女はメガニウムの頭を、もうすっかり震えの止まった両手で撫でながら、ふっと首をこちらに向けた。
合うはずのない視線がぶつかったことへの驚愕に、カラスバは思わずノートパソコンを乱暴に閉じてしまった。ブルー広場のざわめきと彼女の笑い声とが聞こえなくなったことを確認して、再度椅子に座り、背中を深く預けて、細く、長く、息を吐いた。
『見る目がない』
『その眼鏡、度が入ってないんですか?』
恐怖などという感情の一切を知らないかのように、とんでもない言葉ばかりを歌っていった彼女に、カラスバは狂気を見かけた。自ら危険域に足を突っ込んでゆく彼女を、ひどく危うい存在だとも思いかけていた。恐れを知らなさすぎる彼女は、その命をいらずらに燃やして、そう遠くないうちに、下らないところで散ってしまうのではないかと。
「やられた……」
でも違った。彼女は狂人でも命知らずでもなかった。カラスバたちのことを相応に恐れ、自分の発言の危険性を分かったうえで、それでも敢えてあんな言葉たちを選んだのだ。同行者のデウロよりも自分に標的を移すため。自身の友達を守るために。
あれは彼女の計画的狂気だった。その戦略にカラスバはまんまとハマり、次の仕事の呼び出しには、オマエに真っ先に連絡するとまで宣言した。あの時彼女は表情一つ変えていなかったが、内心では先程の笑顔でガッツポーズをしていたのかもしれない。友人であるデウロを、サビ組の手から遠ざけられたことに、それはもう大満足していたのかも。
「おもろいな、オマエ」
おもろい、の音の、笑ってしまう程に情けないぐらつきは、誰にも指摘されることなく、オフィスの奥の白砂に吸い込まれて、消えた。
再度、ゆっくりとノートパソコンを開く。もうメガニウムをボールに戻したらしく、彼女はポケモンセンターへの道を軽やかに歩いていた。影になった目元、そこに埋め込まれた二つのギラつく胡桃色をもう一度見たいと思った。画面越しに盗み見る形ではなく、正面から。もう一度チャンスが欲しい。今度こそ臆することなく食らいついてやる。そうとも、こんな子に刺されたままでサビ組のボスがやっていけるものか。
2025.11.5