「カラスバさまに泣かされましたか」
弾かれたようにぴょんと振り返った彼女は、ジプソを真っ直ぐに見つめた。自身の目がやや赤くなっていることに自覚があるのだろう。彼女は照れたように笑いながらその微かな赤をすっと細めて、ゆっくりと首を振った。
「いいえ。最後まで、調子に乗った生意気な奴でいたかったんですけど、失敗しちゃったんです。ワタシが不甲斐なかっただけ」
「そんなことは絶対にないでしょうな」
「ほんとなんですって。もう今日のワタシ、ずっとみっともなくて……いやごめんなさい。アナタに聞かせる話じゃなかった」
そうは言うが、おそらく今、寝息を立て始めたばかりのカラスバにも聞かせられない話だろう。そう思ったジプソは、頭の中で、ていのいいストーリーを即興で組み上げていく。
「今日のわたくしは先程まで暴れん坊のポケモンと戦っておりましてね。爆音の中、長時間戦ったものですから、今、耳がやられてしまっていて」
「えっ! そ、それは……大丈夫なんですか? 病院とか」
ていのいいストーリーに本気で乗っかってこられたことへの罪悪感と、相手を翻弄できることへの愉悦。後者が僅かに勝ってしまうのは、もうジプソの悪ガキ時代からの性分であるため仕方がない。
「ええ大丈夫なんですよ。ですが本当に今、今だけ耳がやられていましてね。さっきから貴方が何を言っているのか、まるで分からないのです」
「あ……あぁ! っふふ、そういうこと」
だからもうすべて吐き出していけ、貴方の弱音や懺悔を聞く人など誰もいないのだから。
暗にそう促せば、彼女は戸惑ったような表情の後で、少しだけ眉を下げながらもひどく楽しそうに笑った。ありがとうございますとは言わなかった。言ったところでジプソにはどうせ聞こえていないのだから不要なものだ。それを彼女は心得ている。今からの彼女の言葉は、すべて独り言に過ぎない。
「カラスバさんと、悪癖の話をしました。あの人が見た夢の中で、ワタシに酷いことをしたことが、どうしても許せなかったみたいで」
「……」
「あの人は、それが自分のよくない気質に由来するものかもって怯えていました。いつかワタシに同じことをするんじゃないかって、考えていたのかも」
本当に苦しそうだった、と眉を下げて彼女は呟く。彼女の細い眉はいつもよく動いて、彼女の感情を雄弁に伝えてくる。
「でもワタシは別に怖くない。あの人がワタシに何をしたいと思っていたって構いやしない。そんなことどうでもいい。だって……っふふ、変なの。たかだかあれだけの夢であんなに苦しんでいる人が、実際に酷いことなんて、できるはずがないのに」
ただこんなにも分かりやすいのに、彼女はどこまでも容易くないのだ。時折このように、誰も予想しないような言葉を紡いでは、皆の度肝を抜いていくのだ。容易くない、あまりにも容易くない。
もちろんこれは、カラスバさまが惚れ込んだ彼女の、ほんの一要素に過ぎない。
「でもあの人、そんなどうでもいいことに苦しんでいた。苦しんで、苦しみすぎたあの人は、もうワタシを諦めてしまうんじゃないかって思った」
「!」
「ワタシ、あの人に諦められてしまうところだった。たかだか夢のせいで。たかだか、かわいい悪癖なんかのせいで」
かわいい、のところで彼女は、ソファに掛けられた新しいブランケットに手を添えて、ありったけ強く握り締めた。極上の肌触り、要するにもふもふであるブランケットは、彼女の激情を受け止めても、ただ柔らかく、平然としているだけであったのだけれど。
「怖かった」
彼等は。ジプソの目に映る、彼等は。
いつも、お互いに相容れないことを分かっていて。
お互いに、この名前のない何らかが切れることを恐れていて。
身を削るような想いとともに双方睨み合っていて。
祈り合っていて。
「でも、カラスバさんがワタシよりずっと怖がってたから、しっかりしなきゃって思って。あの人に……勝手に、勇気を貰った」
「……」
「諦めて堪るかって思った。諦めさせて堪るかって思った。どんなことをしてでも、一緒にいてやるって思った!」
ああそれでこそ、それでこそカラスバさまの花だ。彼の執心と崇敬に足る花。どんな毒にも決して錆びない花。
「でもワタシじゃ力不足だったかも。だって何も、解決できたわけじゃないんですよ。本当に、みっともないやり方しかできなかった。ただ、お互いに覚悟を決め直しただけだった」
「それで十分では?」
「そう……なのかな」
聞こえない、の前提を忘れて思わずジプソは話し掛けていた。彼女もとくに動揺することなく、ジプソの言葉にさらに重ねてきた。
「ジプソさんは嫌じゃありませんか? ワタシ、アナタの大事な人を苦しませたままにしてるのに」
ジプソは息だけで小さく笑って首を振った。ブランケットを腕に抱き、やや不安そうにこちらを見上げる丸い目に、諭すようなゆっくりとした声で告げた。
「お言葉ですが、カラスバさまは、貴方が与える苦しみごときに屈するような方ではないかと」
「おっと……それは、そうですね。ごめんなさい、侮辱するつもりは」
「ですから貴方はこれからも思う存分、ありったけ苦しめてしまえばいい」
だって苦しんでいるということは、すなわちそういうことだろう。もうそれだけの何らかでいらっしゃるのだろう、貴方は、貴方がたは。
「ありがとうございます」
「えっと、もしかして、カラスバさんを苦しめていることに対するお礼?」
「ええ。共に苦痛を負う覚悟を決めてくださったことへの感謝、という認識で差し支えありません」
相容れないもの同士、想いを向けあうだけ苦しむことになる。この最強無敵の彼女を泣かせる程度にそれが育ったのなら、その苦しみを抱えてもなお、彼女がここで眠ることを選び続けるのなら。
もうそれが、それだけが二人の答えに違いない。
「いいですねその考え方。確かに、一緒に苦しめること、お揃いの覚悟があることって幸せなのかも」
「もちろんご自身の心は十分に守ってください。貴方が潰れてしまってはいけない」
「潰れませんよワタシは。あの人を置いて、一人で潰れてなんかいられない。苦しまなくていいようになるまで、ずっと、ずっと、一緒に苦しみたい」
歌うように告げて、彼女はブランケットをぎゅっと抱き締めた。
「いいなあ。これ、ワタシたちにしか価値を量れないものだ。ワタシたちにしか愛せないものだ」
「ええ、おっしゃるとおりです」
「こんな悍ましい絆なら、もしかして、ちょっとくらい外に出しても構わない?」
「それはもう、貴方の思うように」
目を細めて、少しばかり考える素振りをした彼女は、けれども悪戯っぽく笑って首を振った。
「やっぱりいいや。当分、ここだけで」
ええ、きっとカラスバさまもそうおっしゃるでしょう。
そう言葉に出すことなくジプソはただ頷いた。肯定してもらえたことへの喜びからだろう、彼女はぱっとさらに嬉しそうに笑う。とびきりの笑顔であるように見えるが、やはりカラスバに向けるものとは少しだけ違っている。その差にジプソはどうしようもなく安心する。やはりカラスバさまだけなのだと、思い知って、嬉しくなる。
「貴方も休んだ方がいい。昨日も寝ていないのでしょう」
「そうですね。でも……」
彼女は右手を口に当ててしばらく考え込んでから、意を決したように顔を上げて再度、ジプソを見る。
「アラーム、今日はかけずにいてくれませんか?」
「ほう」
「カラスバさんとワタシ、どっちが先に起きるのか競ってみたい」
それは随分と面白い提案だ。ジプソに断る理由などあるはずもなかった。もちろんですと快諾すれば、彼女はお礼を告げて、もうほぼスキップに近い軽やかな足取りで、カラスバが横になっているところから少し離れたソファに向かう。
どちらが先に目覚めるか。カラスバさまには申し訳ないが、今回は彼女に賭けることにしよう。だってあんなに安心したように眠られているのだ。そうおいそれと起きるはずがあるまい。
2025.11.4
Thank you for reading their story !