注文していたものが届いています。そう告げてジプソが差し出してきたのは、もう随分と前に選んでいた品だった。到着までだいぶ時間が掛かったな、と思いながら、けれども受け取ったときの軽さは想定以上で、成る程これは良い買い物だったとカラスバは思わず微笑む。振り返った先、彼女は二杯目のロズレイティーを一口こくりと飲んだところだった。
「ええもんがある。おいで」
「ええもん?」
カチャンと僅かに音を立ててティーセットをテーブルに置いた彼女は、跳ねるように立ち上がって機嫌よく駆けてきた。カラスバの手元にあるものを見つけて、にわかにぱっと咲かせる。
「可愛い! 品があってお洒落ですね!」
「そらよかった。今日からソファ使うときはこれ被りよし」
「えっ、わざわざ買ってくれたんですか? いつものブランケット、破けちゃったとか?」
「破けてへんよ。セイカにはもっと明るい色の方がええかなと思ただけや」
ダークグレーのブランケットに代わる品。アイボリーとグレーを基調に、赤色の細い線がアクセントとして入ったチェック柄だ。透明な袋に入ったそれを彼女の手に預ける。やや硬めの袋が立てるパリッという音と共に、新しいブランケットは彼女の腕の中に収まった。
彼女の好みは飲み物同様にさっぱり分からなかったので、もうカラスバの独断で選んでしまうしかなかった。ダークグレーよりは明るく柔らかい色で、かつカラスバの事務所に無造作に置いてあってもギリギリ違和感のないもの……を探した結果、あまり面白みのないこのデザインに落ち着いてしまった。ただまあ、彼女の笑顔と、第一声の「可愛い」を踏まえるに、きっと悪いチョイスではなかったはず。そう信じてみよう。
「大判やさかい、ほぼ毛布みたいに使えるで」
「わあ、いいですね! でもそんなに大きいのにすっごい軽いですよこれ」
「そらまあ、ええやつ買うたからな」
「うわっ……ああもう! またアナタにお金使わせちゃった!」
あの靴だってとんでもない値段だったのに、と苦い顔をした彼女は、どうやら以前贈った二足の靴のうち、カラスバと同じ色の方にプレミアが付いていることを既に知っているようであった。
流石にティーンの年代で六桁の値段のする靴は、気軽な気持ちで履けるものではないだろう。そう分かっていたから、カラスバは敢えて値段を伏せて彼女に渡した。もちろんより高い靴を選んだわけではなく、彼女が「カラスバと同じもの」を探していたからその通り調達しただけではあるのだが……今ならそれを、己の悪癖に絡めた冗談とともに開示してやれる気がした。
「すまんなぁ、オレちっこい男やから、金持ってたらひけらかさなおれんのや」
「あのひけらかし癖の話ってこういう文脈じゃなかったですよね!?」
「せやなぁ。まあええから受け取っとき。セイカ専用に買うたんやから」
だが、彼女がいつ知ったのかは分からないが、彼女は自分のお気に入りが「とんでもない値段」であることを知ってもなお、その靴……カラスバと揃いの音を立てる靴を、履き続けることを選んでくれたようだった。
そういう選択をした彼女なら、きっとこのブランケットだって受け取るはず。
「これ、もしワタシが断ったら」
「……オレが、膝掛けにする。オマエに受け取ってもらえんかった悲しみを噛みしめながら、こいつを膝の上に置いて毎日睨み付けてやるさかい」
「っふふ、それも見てみたいけど、アナタがそこまで言ってくれるんだからもう断れないや」
柔らかく笑った彼女は、カラスバの予想通り、そのブランケットをこちらに押し戻してはこなかった。軽くはあるが体積としてはかなり大きめのそれを抱えなおして、やや力を込める。ビニール袋のパリパリと鳴る音が妙に心地よく感じる。
「ありがとうございます。これも……大事にしますね!」
靴を贈ったときと変わらない言葉選びだ。気を遣っているわけではなく、本当に彼女のありのままからまろび出たものだと分かる。分かるから……カラスバの方でもまたありのまま嬉しくなってしまっていけない。
「でもよかった、お花の模様じゃなくて。流石にそこまでやられると恥ずかし……っあ」
「……あぁ」
「いや待ってその、あかん失敗したわ、みたいな声やめてくださいって! ワタシはこれがいいんですからね? 二枚目は受け取りませんから!」
「待て待て、追加が嫌なんやったら、今ならまだ袋から出してへんし、返品して買い直しても」
「うわー! 早く開けなきゃ!」
「ちょ、待たんかい」
カラスバが手を伸ばすより先に、彼女はブランケットをカラスバから守るようにさっと背を向けた。大きな音を立てて袋が開けられていくのが分かる。あっという間にそこから本体を引きずり出した彼女は、見るからにふわふわとした質感のそれをぎゅっと抱き締めて。
「ほら、もうワタシのもの!」
ああ、それも靴の時に聞いた言葉だ。そう思いながらカラスバは苦笑した。模様の選択を誤ったことについては口惜しさが残るが、まあ構わない。花ならもうとびきりのものが咲いているし。
「ではこちらのブランケットは一度洗濯に回して、仕舞っておきます」
「あ、待ってジプソさん。それも今日は必要なんです」
いつも使っていた無地の素朴なダークグレー。手触りだけは極上のそれを片付けようとしたジプソに、彼女から制止の声が掛かった。抱き締めたばかりのブランケットをソファの背もたれに引っ掛けて、ジプソの腕からそのブランケットを受け取って。
カラスバへと向き直った彼女は、にっこり笑ってそのブランケットを勢いよく広げた。
「なんやなんや、二枚使いかいな」
「そんなわけないでしょう。アナタが寝るんです、よ!」
「っ、は!?」
次の瞬間、忍者もかくやという勢いで彼女が飛び掛かってきた。本当に文字通り飛び掛かってきて、ブランケットごとカラスバを羽交い絞めにした。そのまま、半ばタックルするような形で、自身とほぼ同じ背丈の男をソファへと押し倒したのだ。
「っ……!」
絶対に手しか触れてこなかったこれまでの彼女では、まず在り得ない行動だった。前例のない、予想できない挙動であったがゆえに、そしてカラスバ自身、寝不足であったがゆえに、反応が遅れてしまった。やられた。予想できていれば、普段通りのコンディションであれば、ギリギリのところで避けられたはずなのに。頭をソファの手すりに打ち付けないよう、受け身を取れたことだけが幸いだった。
息を詰めて、思い切り眉を寄せて彼女を睨み上げる。ドスの効いた声で文句の一つでも言ってやろうと思った……のに、カラスバは言葉を失ってしまう。なぜならブランケットから両手を離して上半身を起こし、こちらを見下ろす彼女が、あまりにも楽しそうだったからだ。嬉しそうだったからだ。
「異性」を「押し倒した」というのに、性の気配の一切を感じさせないその笑顔は、ただカラスバにじゃれついてきただけ、といった有様で。
しかしキスの夢さえ見たことがないという彼女にとっては無色のじゃれつきであっても、他の者はそういう色を抜きに捉えることが難しい。この姿勢ではどうやったって難しい。現にジプソはさっと二人に背を向けて空気と化してしまった。おいそないなことするな。そっちの方が気まずいやろ。
「今日はアナタの顔色の方が悪いですからね! もう思う存分寝てしまえばいい! 幾度となくワタシをここで寝かせておいて、まさかこんなところで眠れないとかは言いませんよね?」
「いや、それとこれとは話がちゃうやろ!」
彼女を撥ね退けたいのは山々だが、ブランケットで巻き取られ、四肢の自由を奪われた今の状態ではそれも難しい。というか彼女の、こちらの腕をブランケット越しに押さえてくる力がそもそも強すぎる。なんやこいつ、何もかも規格外すぎるやろ。というかこれまで手にしか触れてこんかったのにいきなりあちこち踏み越えすぎや。これはルール違反やないんか。ブランケット越しやったら全部許されるんか? それはちょっとこの布を過信しすぎやろ。
今だけは夢の中にいた柔らかい細腕の人形が恋しかった。伽藍洞の目をしたあの少女が、カラスバを見て「都合のいい時だけ呼ばないで」と、呆れたように笑ったような気さえした。
「第一オレは忙しいんや、寝不足やからって悠長に仮眠なんぞ取れるかいな」
「本日、急ぎの仕事はありません」
「ありがとうございます、ジプソさん!」
「おいジプソ! セイカの肩持つたぁええ度胸やな! 覚えとけよこの」
「はーいおやすみなさーい」
「話聞かんかい!」
起こしかけた肩も、彼女の両手に鷲掴みにされ、全体重をかける形でソファへと押し戻されてしまう。ああもうこれは無理やろな、とカラスバが諦めて全身の力を抜くのと、鉛を流し込まれたような体の怠さを覚えるのとが同時だった。寝不足なのも、疲れているのも本当だ。もう彼女の言う通りにするしかないのかもしれない。
「オマエも仮眠していくなら、まあ今日くらいは付き合うたる」
「ああ、それはもちろんいいですよ! でも眠るのは、アナタが先」
彼女はカラスバの両肩から手を離し、一度立ち上がった。カラスバは右の頬をソファにつける形で横向きになる。軽く身じろぎをして寝る姿勢を整えたのを確認すると、彼女はカラスバに触れないギリギリの位置に、浅く座った。先程までの押さえつけられていた姿勢よりは何倍もマシだが、それでもこの距離は普段の、一戦を踏み越えないギリギリを、少し、ほんの少しだけ踏み越えてしまっている気がした。指摘する気力は、もうなかったが。
「要らんで、寝かしつけは」
「寝かしつけ? いいえ監視です。ワタシが先に眠ると、アナタ仮眠をサボってどこかへ行っちゃいそう」
「仮眠をサボるってなんやねん……」
急速に重たくなっていく目蓋が憎らしい。もうこれはあまりもたない気がする。睡眠時間をこれくらい削ることなど特段珍しくもなかったが、夜中にしつこく繰り返した嘔吐、そして夢による精神的なあれこれは、さしものカラスバとて相当に堪えたようだった。
ああもう情けない。でもいいか。先程もっと情けないところを見せたのだし。いやもうそれだっていい。だって彼女も泣いていたし。泣いてくれていたし。
「セイカ」
横たえた体の上側、左腕をブランケットからそっと出す。彼女はとくに反応しないまま、カラスバも何も言わないまま、十秒以上が過ぎた。ふっと笑ってから手の平を上に向けて、彼女へ視線を移す。信じられないようなものを見るように、彼女の目が大きく見開かれた。丸い。深い。吸い込まれそうだ。
「なんや、気付いてくれへんのか。寂しいことしはる。オレはいつでも応えてやってんのに」
「っ、します! させてください。というかしてほしかったならもっと早くに」
「もっぺん説明したるわ。こういうのはな、酔ってなかったら言えんねん」
「あぁ……っふふ、そうでしたね。もうとっても眠そうだからあれですかね、酩酊、ってヤツ? そっか、ここまでならなきゃアナタ言えないんだ。繋いで、なんてのは」
「やかましなオマエ、ほんま……」
やや緊張した面持ちでこちらに体を向けた彼女は、しかし何かに気付いたのか、あっと声を零して、こちらに伺いを立てるように微笑みながら首を傾げる。
「その前に眼鏡、外してもいいですか?」
「ああ忘れとった」
「……触っても?」
「ん」
目を閉じる。彼女の息が詰まる音が伝わる。たっぷり五秒以上の沈黙を置いてから彼女の両手がカラスバのこめかみに触れた。眼鏡に縁のない彼女は、どうやら扱い方が分からないらしい。少しでも余計な力を加えれば壊れる、そんな繊細なガラス細工に触れるような手つきで、ゆっくり、本当にゆっくりと外された。心臓を、撫でられているかのようだった。
レンズがカラスバの前から消える寸前にぱっと目を開ければ、唇をかたく引き結んだ、やや顔の赤い彼女と、目が合った。
「おもろい顔」
「酷い。ドキドキしてるだけなのに」
「さよか。ほなきっとオレもおもろい顔やろな」
「わぁ」
「っはは」
照れたときの「わぁ」が、彼女の喉から零れる声のうち最も好ましいもののひとつが、カラスバの鼓膜をくすぐる。心地よくて、嬉しくて、思わず笑ってしまう。わぁてなんやねん、といつものようにすぐツッコミを入れてやるべきだったかも、という小さな反省は、ずんと急激に重くなった眠気に圧し潰されてしまった。
首の後ろに流れるグラスコードを彼女は右手で迎えに行く。物珍しそうにしばらく見つめてから、両手で眼鏡をテーブルへ置いた。
「おおきに」
コトン、という眼鏡の僅かな音を聞き届けてから、カラスバは目を閉じて、手を伸ばす。ヒラヒラと宙で振るより先に受け止められてしまった。そっと、けれども力強く握り込まれる彼女の手が心地いい。こんなに安心して眠れる瞬間があるのだと初めて知った。いや待てこれはよくないな、とカラスバはすぐ思った。こんなものを覚えてしまうと、もう手を握られない状態で眠ることなどできなくなるのでは。
「……っふ」
ああ成る程、と思ってカラスバは息だけで笑った。
そういうことか。だから彼女はもう、ホテルZで眠らなくなったのか。もうあの場所では眠れないのか。閉じ込めてしまわずとも、檻の外で咲く花であっても、彼女はきっともう、ここ以外では。
「オレがおらなあかんなあ」