「っ……」
「えっ」
カラスバの宣誓を受け、彼女はきっと満足そうに笑ってくれるはず。そう思っていただけに、その瞬間、彼女の顔がくしゃっと歪んだことはカラスバを相当に驚かせた。先程の目に張られた膜など比べ物にならないくらいに、わっと一気に盛り上がった水が、もう誤魔化しようもない勢いで白い頬を滑っていく。膝を折って頽れて、深く項垂れた彼女は、握手をした手にもう片方を添えて、縋るように強く、強く握り締めて。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめ、っな、さ」
「おい待て待て! なんや急に、何を謝ってるねん」
膝を折った彼女に合わせる形でカラスバも蹲り、床に膝をつけた。彼女の顔を覗き込みたいが、流石にここまで深く項垂れていてはどうしようもない。ぽたぽたと涙が床へと染みを作る。最強無敵の彼女が作るにはあまりに似つかわしくない光景に、カラスバの頭が混乱するのはもう無理からぬことだろう。
いや、けれどもしかしたら彼女はもう、ずっと。
「違うんです。ごめんなさい、信じて。もう取り返しが付かないけど、それでも」
「なに、が」
「ワタシ、アナタに苦しんでほしかったわけじゃない」
「知っとる、そないなこと」
「アナタを苦しめるために、アナタを好きになったんじゃない」
決定的な言葉を出すのはルール違反だ、などと指摘できる空気では最早なかった。ああそういうことかと合点がいったカラスバは、なんだかひどく優しい気持ちになって、笑ってしまった。
この、子供のように泣きじゃくり始めた彼女は、きっと原初の話をしようとしている。そもそも互いにこういう感情が芽生えなければ、双方苦しむことなどなかったのだと、そういうことが言いたいのだ。
「アナタが、っ、ワタシに、心を許せる人だって言ってくれたこと、本当に嬉しかった。アナタの拠り所で在れたならどんなにか素敵だろうって、ずっと思ってた。こんな、形で、アナタを苦しめるつもりじゃなかった。ワタシ間違えた。間違えたんだ」
「セイカ」
「アナタを好きになりすぎた」
もう何と言ってやればいいか分からなくなって、カラスバはただ手に力を込めることしかできなかった。
彼女の、後悔の……なんていじらしいことだろう。好きになりすぎた、なんて、そんなもの、器用に調整できる人間などいるはずがないのに。そういう感情というのはもう、往々にして「落ちる」ものだ。道端の花を愛でるような感覚での、ささやかな好きのままでずっといられると考えていたのなら、それはもう、恋を舐めすぎている。
「まあそれはオレもやな。オマエのこと好きになりすぎた」
「っ、どうすればいい? どうすれば、ワタシたち」
「なんやオマエ、オレにあんな覚悟決めさせといて、随分な訊き方やんか」
こんなボロボロの心で、よくつい先ほどまであれだけ凛としていられたものだ。カラスバを苦しめまいとする一心だったのかもしれない。けれどもどうしたって苦しむしかない未来が見えてしまったから、覚悟を決める方向に切り替えたのかもしれない。苦しみ抜く決意をしたカラスバを、いつもの大きな言葉と満開の笑顔で賞賛して。そうしてどうにか、笑い合える方向に持っていこうとしたのかもしれない。まあ、それより先に彼女が笑顔を保ち切れずに決壊したようだが。
無理をさせた。最強無敵の彼女の肩書きに甘えすぎた。そういう言葉と笑顔が欲しかったのは、彼女の方であったかもしれないのに。彼女もずっと、不安で仕方なかったのかもしれないのに。
「覚悟決めろ、セイカ。オマエもずっと、ずっと、苦しみながら待っとったらええ」
酷いことを言っている。最低だと我ながら思う。実らない、実らせることの許されない想いから得られるものがこれなんて随分な仕打ちである。もう茨の道だ。傷を作って、血を流して、それでも進み続ける理由があるのかさえ怪しい。でもきっと二人の足は止まらない。喜んで苦しみ続けるだろう。
その証拠に、ほら、深く俯いていた彼女から、ふふっという小さな笑い声さえ零れてくる。
「そうですね。アナタだけ苦しむなんてフェアじゃない」
彼女は手の力を緩めた。こちらも同じように緩めれば、カラスバを包んでいた両手がするりと解けるように離れていった。自由になった右手でハンカチを取り出して渡す。彼女は涙でぐしょぐしょになった顔のまま照れたように笑って、震える声でお礼を言いつつ受け取って、やや乱暴に目元や頬を拭った。
「アナタやっぱりすごい。アナタの話を聞けば聞くほど、ワタシ、アナタが強い人だってことを思い知る」
「せやろか」
「せやで? ……っふふ、ワタシ、アナタの強さに甘えてばかりだ」
「そないなことあらへんやろ」
自分の強さを否定するつもりはないが、いつも気丈で快活で、悩みなど何一つないといった風の彼女が、甘えられるほどの度量かと問われると、流石に自信がない。けれど彼女が嘘を言っているようには見えなかったから……カラスバは信じてみたくなった。自分が彼女の拠り所になれていること。彼女が甘えられる程度には、強く在れているということ。
「だってワタシ、結局、話をして、アナタを煽っただけで、なんにもできてない」
「当たり前や、何もしたらあかん。オレに何かしようとせんでええ。オレにオマエを、手折らせたらあかん」
この少女が、カラスバのために「何もしない」ことこそが最適解だ。それこそがカラスバの目指した最善の形だ。彼女はカラスバとはまた違った苦しみを抱えながらも、檻の外で咲き続ける。カラスバが望んだ光景だ。それ以上などあるはずもなかった。
「アナタの……不安を取ることを諦めきれていないワタシから、もうひとつだけ言いたいことが」
なんや、とも、聞いたるわ、とも言わず、カラスバは真っ直ぐに彼女を見つめた。泣き腫らしたことで少しだけ赤くなった彼女の目。それでもやはり平静と変わらぬ、意思の強い輝きでカラスバを貫き返してくる。
「信じてください。ワタシ、ミアレシティを出ていかない。他の誰のところにも行かない」
「……」
「アナタに代わる人なんていない」
まだ大人になりきれていない、粗削りの宝石に見合う、ギラついた輝きを孕んだ言葉だ。人の想いも、大事なものも、優先順位も、簡単に切り替わることをまだ経験として知らない、若さを極めた言葉だ。あまりにも眩しい。あまりにも頼りない。こんなにも危うい言葉なのに、手放しで喜んで信じるなんてハイリスクが過ぎるのに。それでも彼女にそう乞われてしまったら、もうカラスバには信じ抜くしか、選択肢などあるはずもなくて。
「ええよ、信じたる。でもオマエもうちょっと自由になったってええな」
「自由、に……なんてしていいんですか。また夢の中のカラスバさんが暴れちゃったりしません?」
「お、調子戻って来たな?」
夢の中のカラスバも、伽藍洞の目をした人形も、先程カラスバが首を振った瞬間に、もうすっかり沈黙して、煙のように消えてしまった。
だから問題ない。もう怖くない。今のカラスバにはもう、檻の外で咲く花を愛でる余裕があるし、必要とあらばこの街の外へ送り出すことだってできる。ただし……それが永遠の別れにならないなら、という条件付きではあるが。
「どこへ遊びに行ったってええから、必ずここへ戻っておいで」
「っ、はい! 必ず、アナタのところへ戻ります!」
元気の良すぎる宣誓に、二人顔を見合わせて笑った。ここがきっと、今の二人が到達できる最高点。これより先の景色が見られる日も来るだろうけれど、それまではもう、互いに苦しみながら待ってみせよう。
どちらからともなく立ち上がる。カラスバはテーブルを一瞥した。二つ並んだロズレイティーは、どちらもすっかり冷えてしまっていることだろう。
「あーあ! かっこ悪すぎでしょ今回! もう全然うまくいかなかった!」
「オレは満足やけどな。オマエを手折らずに済んだだけで百点満点や」
「ねえ、それやっぱりちょっと恥ずかしいですって! 口にしなかっただけで、今までずっとワタシ、お花だったってこと?」
「オマエの笑い方が悪い。いちいち咲かせて来よるから、もうそれにしか見えんようになったわ」
「えぇ……?」
顔を僅かに赤くして彼女は首を捻る。釈然としない、という表情をしばらくしていたが、やがてふわっとほどけるようにその顔が綻んだ。そんな有様だって、もうやはりカラスバには咲いているように見えるのだ。
「どんな花なんだろう。毒タイプに強い花がいいな」
「ほな草・フェアリーではないやろな、弱すぎる」
「メガメガニウムを侮るのはやめてください! 油断してるとアナタの切り札ボコボコにしますよ!」
「おう、いつでも待っとるからかかって来よし」
彼女の方から拳が突き出される。握手にすっかり慣れてしまった二人の間で、グータッチを交わすのは随分と久しぶりだ。カラスバも拳でそれに応える。なんだかひどく懐かしい気がする。でも心持ちとしてはあの頃と今とでは大差ない気もした。
初めて顔を歪まされたあの日から、グータッチを交わして笑い合ったあの日から、きっともう既に芽生えていた。ならばもう花になるのだって時間の問題だったということ。
「新しく淹れ直しました。こちらの温かい方をどうぞ」
「!?」
瞬間、突如として聞こえてきた第三者の声にカラスバは勢いよく振り返る。二人分のティーセットが、ジプソの手によりテーブルへと置かれているところだった。
「ジプソ、オマエ帰っとったんやったら早う言わんかい!」
「気付いていらっしゃるのかと」
涼しい顔で、冷え切った方のロズレイティーを片付けていく。いや絶対確信犯やろ、と思わないでもなかったが、カラスバも寝不足で集中力や判断力をやや欠いているという自覚があるために指摘しづらい。
「ちなみにワタシは気付いてました」
「なんやて、オマエら共犯とはええ度胸やな! いつからおった!?」
「セイカさまが必ずここに戻ると宣言されたあたりです」
「あぁ、まあ……」
そこくらいからならもう別にいいか、と思ってしまった。どうせジプソと彼女が顔を合わせる機会だって、今後幾度となくある。名前のないこの関係の何らかが、今日を境に少しだけ変わってしまったことを、この男に隠し通すのも無理のある話だろう。
「セイカさま、いつでもお戻りください。サビ組一同、心より歓迎いたします」
「えっ、ごめんなさい、そんな組織ぐるみでの歓迎は……! サビ組に属するつもりはないんです」
「これは手厳しい」
冗談めかした言い方だが、早速ジプソは二人の間で「何が」変わったのかを見定めようとしているようだ。いやもう探りが早すぎる。優秀すぎるのも考えものだ。
「ああそういえば、花の話をされていましたが」
「え、その話を掘り返すんですか? ちょっと恥ずかしいですって流石に」
「セイカさまが花だというのは、わたくしも、ずっと前から思っていたことですな」
「えっ!?」
「えっ!?」
彼女とカラスバ、二人の声がぴたりと重なる。待て本当に初耳だ。聞いていない。ずっと前からっていつからだ。というかジプソ、オマエやってくれたな。セイカのこと何にも思てませんみたいな涼しげな顔しよってからに!
「貴方の花はきっとチタン製だ。銀白色の美しい、錆びることを知らない花。カラスバさまが気に入るのも分かります」
「わ、っ……わぁ」
「おいジプソ! どさくさに紛れて口説いてんとちゃうぞ!!」
彼女が本当に照れたときの「わぁ」が出てしまい、流石のカラスバも耐えられず今日一番の怒声を飛ばした。肩を竦めてにっと笑うジプソ。一緒に飲みませんかと誘う彼女。もういいか。賑やかになってしまおう。
二人愚直に苦しみ抜いた果て、この二杯目のロズレイティーだって、きっといい思い出に変わる。信頼できる部下がぬっと現れ、彼女をチタン製の花と呼んで称えたことだって、いつか最高の笑い話に化けてくれるに違いないのだ。
2025.11.3