「ちょっと傲慢な言い方になるかもしれないけど、アナタどうしたって不安なんでしょう。この街の住人であるアナタの前から、ただの観光客であるワタシが去る可能性。大人なアナタに、子供のワタシが飽きてしまう可能性。そういうの全部怖いんだ」
開かれた心臓に、容赦なく彼女の手が突っ込んでくる。無遠慮に内臓をぐちゃぐちゃにされるような感覚は、吐き気を覚えるような気持ち悪さを孕んでいる。でもそんな、言ってしまえば不快な暴かれ方さえ、彼女が為すのなら大丈夫だろうと、きっと悪いようにはならないだろうと信じられてしまう。もう何だっていいから余すところなく暴いていけという気分にさせられてしまう。
だってもうその通りなんだ。どうしたって不安で怖いんだ。「去られる側」にしかなれない自身のことが、不安で不安で仕方ないんだ。
「いくら言葉を尽くしたところで、信頼を積み上げたところで、それが確信に変わるわけじゃない。ワタシたちに名前を付けていない以上、ワタシたちを保証してくれるものだってないわけで」
二人の間に根強く残る別離の可能性。しかし彼女の方にはそうした恐れがカラスバほどないように見える。それは、彼女が観光客かつ子供という「去る側」の人間であることに由来するものだろう。加えて彼女の生来の気質……警戒心こそ強いものの、あらゆる人と信頼関係を容易く結んでしまえる、その柔らかい心が、恐れることを許していない、というのもありそうだ。
だがカラスバは違う。お世辞にもよい育ちとは言えないカラスバには、そうした信頼関係を容易く結べるだけの下地が薄い。金という目に見えるものをチラつかせ、脅しという強制力を働かせて、ようやく相手との結びつきを確信できるのだ。
もちろん、そういうもの抜きの信頼に覚えがないわけでは決してない。ペンドラーをはじめ、手持ちのポケモンとの関係は、金と脅しの入らない、切れることの決してないと信じられる信頼関係……その最たる例だった。
信頼を知らないわけではない。彼女のことはもうすっかり信頼しているつもりでいる。ただ信頼の下地の分厚い彼女から寄せられるそれと比べると、カラスバのありったけは、やはり少しだけ薄い。その「少しだけ薄い」という差が、この場においては致命的な影を落としている。この差が埋まらなければきっとカラスバの不安も恐れもなくならないのに、そこを埋めるための方法が、カラスバには全く分からない。
「じゃあもう! ワタシが体を張るしかないですよねぇ!」
「……は?」
「不安になりやすいアナタのため、ワタシの在り処を確信できないアナタのために、できること、なんでもしてやりますよ! アナタをそこまで苦しませた責任を取ってやる。任せてください!」
そう、カラスバには分からない。だが彼女には分かるらしい。責任を取ってやる、などと男前な宣言をした彼女に、何をするっちゅうんや、とカラスバは訝しげに目を細めてしまう。そんな彼の反応を見つつ得意気に笑った彼女は、しかし次の瞬間、とんでもないことを言い出した。
「さて、何がいいですか? 監視ですか? 拘束ですか? マーキングですか?」
「は!?」
「カメラでの監視は引き続き黙認するので好きにしていいですよ! ただワタシは足がそれなりに速いので、見失わないためにカメラの数を増やした方がいいかもですね。いっそ発信機でもこの靴に仕込みます? 盗聴器は流石に御免ですけど」
「いや待て」
「なんなら戻る場所をホテルZじゃなくてサビ組のここに指定したっていいんですよ。あぁでもそれはもう今だって同じ感じかな。ホテルZには荷物整理とシャワーのために帰っているだけで、眠る場所はもうほとんど此処かベンチだし」
「オマエまたベンチで寝てんのか! いやそうやない、違うんや、ちがう」
「それとも見た目からしてアナタの手が掛かっていると分かった方がいい? 靴だけのお揃いじゃ不安なら、ジャケットやポーチもアナタが選んじゃいますか? ピアス穴もアナタが開けたっていいんですよ。アナタが開けてくれたらワタシもちょっとはお洒落になれますかね? この前見かけた紫のお花のピアス、ちょっと気になってて」
「待て言うとるやろ!」
何だ、何を言い出すんだいきなり。このカラスバが、そんなみっともないことをしなければ安心できないような人間に見えたとでも?
もちろんそうした独占欲や支配欲に覚えがないわけではない。けれどもそれらが要らなくなるほどにありったけを注いできたのは彼女の方だ。そんなものが要らないこと、そんなものを今のカラスバが求めているわけではないことなど、彼女が一番分かっているだろうに。
「なあ、もうええから」
「アナタに言ってるんじゃない」
「なんやて?」
「ワタシは夢の中のアナタに言ってる。ワタシを監禁して衰弱させて、二度と咲かへんように、だっけ? そういうことをした夢のアナタに、話してるんです」
頭を殴られたような衝撃が走った。それは夢の中、伽藍洞の目をした彼女に見上げられたときのショックにひどく似ている気もした。
「現実のアナタの問題は、前にも話した通りきっともう大半が既に解決していることのはず。ワタシが強引に分け入らなくたって、きっとアナタは大丈夫。ここにいるアナタは、大丈夫」
「っ、なら」
「でも夢のアナタはまだ、大丈夫じゃないみたい。そっちのカラスバさんも安心できないと、きっとアナタ、眠れないままだ」
おかしい。どうかしている。どうかしている!
彼女はこれまでだって散々こちらを救ってきたのに。ギリギリのところからありったけ注がれ続けて、もうカラスバとしてはこれ以上など望むべくもないのに。
それなのに彼女はまだ、手を伸ばして……夢の中で彼女自身を手折った、どうしようもない男のことさえ救おうとしている。
「あ! もしかしてワタシからアナタのところへ飛び込んでいくと喜びが半減します? 嫌がったり逃げたりするのを囲ってご自分のモノにするのが好きだったり?」
「待て! そんなわけ」
「それならこれが一番手っ取り早いですよね」
そう告げて彼女はソファから立ち上がり、一際大きな壺へと駆け寄って、手を添えるフリをする。もうその仕草だけで言わんとしていることが分かってしまう。普通の働き方ではおいそれと弁償できないような高価な壺、それを敢えて割りに行く理由など、もうひとつしか思い至らない。
サビ組のやり方だ。返せない巨額と膨大な利子をチラつかせて、サビ組の支配下に置いて、働かせる。標的をサビ組の好きにするためのやり方、彼女が「肌に合わない」としてずっと肯定を避けてきたやり方だ。それを彼女は、カラスバの……夢の中のカラスバの不安を取り払うため、受け入れようとしている。
「やめろ!!」
カラスバの怒声に、彼女は肩さえ跳ねさせなかった。ただ緩やかに瞬きをして、薄く柔らかい微笑みでこちらを見るばかりだった。
弾かれたように立ち上がり、彼女の元へ向かおうとしたのだが。
「ストップ! それ以上近付いたら、ワタシびっくりしてこの壺を割っちゃうかも」
そんな優しい脅しに、カラスバの両足はその場へと縫い留められてしまう。
「分かった、分かったから手ぇ引っ込めろセイカ」
縋るような声が出たことに驚きながら、けれども咳払いして言い直すことさえもうできそうになかった。
駄目だ。それだけは絶対に駄目だ。だって彼女が想ってくれているのは「そこ」にいるカラスバではない。あのハロウィンの日に尋ねた「待てるんか」に「もちろん!」と笑顔で返した彼女が見ていたのは、ただの一人の男であるカラスバであって「サビ組ボスのやり方をするカラスバ」ではない。サビ組のやり方で彼女を手元に置いたところで満たされるはずがないことなど、双方分かっているはずなのに!
そんなやり方で彼女を迎えたとて、いつかきっとあの人形になるだけなのに。
「カラスバさん、ワタシに割ってほしい?」
ああでも、ここで頷いてしまえば、きっとこの花は自ら檻の中へ入ってくれる。彼女が真に、カラスバだけのものになる。
事実だけ見ればあまりにも甘美な未来だ。きっと幸せになれるのかも、と夢見ることさえできた。
いいんじゃないか? とカラスバの悪癖が悪魔の形を取り、囁く。欲しいなら手に入れてしまえばいい。他の奴に取られる前に、彼女がミアレシティを去る前に。だってほら、彼女を見ろ。自らの在り処を委ねて笑う彼女はいつも通り、あんなに幸せそうなのに。
「……」
だが、もうカラスバは知っている。そうしてこの花を手折った果てに彼女がどうなってしまうのかを、分かっている。
夢の中の彼女は「わたしはここですよ」と、ミアレシティに染まった綺麗なイントネーションで紡いだ。伽藍洞の目も恐ろしかったが、あの細い喉から発された「わたし」もカラスバを相当に戦慄させていた。
カロスの外から来た彼女は、しかしいつだって淀みなく流暢に喋った。観光客であることを忘れるくらい、彼女の喋り方は完璧だった。ただ「ワタシ」や「アナタ」という人称にだけ特有の訛り、イントネーションのズレのようなものがあった。あれは、彼女にしか出せない響きだ。ミアレシティの喋り方に馴染みつつも、出身地での発声を捨てきれていない、彼女の……故郷への愛が優しく滲む響きだ。
ミアレシティをこよなく愛しながらも、彼女の起源はカロスの外にある。彼女には他に帰る場所がある。カラスバは彼女が「ワタシ」と笑う度、そして「アナタ」とこちらを呼ぶ度に、そのことを思い知らされた。
彼女は外の人間だ。相容れない人間だ。いつかいなくなるかもしれない人間だ。分かっていた。分かっていながら愛した。
だが夢の中の彼女は「ワタシ」ではなく「わたし」と言った。彼女の起源たる故郷への愛さえ捨て、すべてをカラスバのところへ帰す決意を孕んだ、あまりにも美しく、あまりにも恐ろしい響きだった。
もう、あんな音は聞きたくない。
「ワタシに、ずっとここにいてほしい?」
もしかしたら、夢の中の彼女もこうして壺に手を伸ばして、カラスバに尋ねたのかもしれない。
監視されること、帰る場所として事務所を指定されること、こちらが選んだ服を着ること。先程の彼女が提案したすべて、楽しみながら受け入れて。そうした歪んだ献身の果て、アナタが望むならここに飛び込んだって良いんだと、その最後の一線を踏み越えるかどうかの判断をカラスバに委ねたのだ。
そして夢の中のカラスバは、きっと頷いた。悪魔の形を取った悪癖の囁きに屈したのだ。そして一線を踏み越えた彼女は壺を落とし、外の世界をすべて忘れて、言葉通り「ずっとここに」いることを選んで、そして。
今、現実のカラスバが同じように問われている。
「ね、カラスバさん」
ふざけるな。この子の目を伽藍洞にするくらいなら、もう一生手に入らない方がマシだ。
「っ……」
夢の再演を断ち切るように、カラスバは首を横に振った。否定の言葉さえ紡げず、小さな子供のように俯きながら振った。ああもうこれで二度と手に入らなくなった、という涼しい絶望が、一瞬、カラスバの肩を震わせていった。でもこれでいい。もう手折りたくはない。手に入らなくていいから、咲いていてほしい。
もしかしたらあの、伽藍洞の目をした人形は、この場でカラスバに首を振らせるために……ああなってしまわないように……カラスバの夢へと現れたのかもしれない、などと考えたりもして。
「!」
ひゅ、っと息を引きつらせたような音が聞こえて、カラスバは弾かれたように顔を上げた。
最早見慣れてしまった彼女の笑顔の、満開。その目の中にあるブラウンの瞳がやたら大きい気がする。ゆらゆらと揺れるそれは、次に瞬きをしたら溢れてしまいそうだ。泣きそうになっている顔だ、とカラスバはすぐには思い至れなかった。それくらい、涙というものはこれまでの彼女に縁のないものだったからである。
彼女がすぐ乱暴にジャケットの袖口で拭ったため、零れることさえしなかった目の中の水。涙だったかどうかも怪しいそれ。だがそれは確かに、これまでカラスバが一度も目にしてこなかった、彼女の新しい姿に違いなかった。カラスバの悪夢と悪癖の果て、少々みっともない開示を繰り返すことで得られた報酬。
ああもう十分だ。そんな顔が見られたなら、もう十分すぎるほどだ。
「っ、最高!!」
大声で高らかに告げた彼女からは、もう涙の気配など微塵もしなかった。壺の傍からさっと手を離し、いつもの弾けるような満開の笑顔で、カラスバの方へ一歩、二歩と駆け寄る。紫の靴が機嫌よく音を立てる。
「アナタってほんと最高! 頷くだけでアナタ、楽になれたのに! ワタシが手に入ったのに!」
「なっ、お、オマエなぁ……!」
「いやー嬉しいな! 是非今後もずっとそうしていてください! 目の前のチャンスをみすみす逃しちゃう、甘くて迂闊なアナタのままでいて!」
褒めたいのか貶したいのかどっちやねん、とツッコミを入れそうになったのだが、続けられた言葉にカラスバはまたしても息を止められてしまう。
「ワタシがアナタを貰いに行くまで、ずっとずっと、苦しみながら待っていて!」
ギラついた目だ。カラスバを手に入れることをちっとも諦めていない目だ。いつかアナタを貰いに行きますと宣言したあの夜と同じ目だ。きっと今のカラスバも、同じ目をしている。
同意を乞うように伸ばされた手。握手を求める手だ。カラスバは迷いなく握った。祈るように強く力を込めた。
「任せとき!」
そうとも、苦しんでやる。彼女程の人がカラスバを、この苦痛に耐えうる存在だと評価したのなら、どうか耐え抜いてと乞うのなら。もう別離の恐怖とか狂った独占欲とかそういうものすべて飲み込んで、受け入れて、いつまでだって待ってやる。