「今日のアナタは相当、迂闊ですね。普段なら誤魔化してくるようなところも、ワタシの言葉に引っ張られて何でも喋っちゃう」
そう告げて彼女は嬉しそうに笑った。湯気の立たなくなったロズレイティーを一口大きめに飲んでから、今度は音を立てることなく静かにソーサーに戻し、テーブルに置く。
真っ直ぐにカラスバを見つめて、そして僅かに眉を下げつつ首を傾げた。
「お話、一度休んでからにしますか? 喋りすぎた、っていう嫌な後悔の残る時間にはしたくないんです。アナタが話してもいいと思ったことだけ話してほしい」
「へえ、そないな配慮までしてくれるんか」
「だって後悔しませんか? 回ってない頭でぽろぽろと本音を出しちゃうと。まあワタシはアナタの話が増えれば増えるほど喜びますけれども!」
後悔。確かにそうかもしれない。正直、今のカラスバ自身がここまで弱っているのも、夢の内容以前に単なる寝不足が原因、という可能性だって十分にある。三時間、いや二時間でいい。今日は急ぎの仕事もないからここで仮眠でも取れば、この憂いも苦悩も、胸の奥に沈んだドロドロとしたもの全部、なかったことになるのかもしれない。
だが……今の、頭の回っていないカラスバは、それを「もったいない」と感じた。
「ええこと教えたるわ。大人はな、腹割って話したいとき、酒の場を使うことがある。あと相手の秘密を聞き出したいときにもな」
「ああ、アルコール! 便利らしいですね」
「まあ要するに、心許せる人の前でしか、迂闊な、浴びるような酒の飲み方はしたらあかんってことや」
「覚えておきます。……っふふ、それじゃあ、アナタはワタシの前で迂闊に酔っ払ってくれるってことでいい?」
腹を割って話すことは、こと大人には難しい。アルコールによる酩酊の力を借りてしか話せないことというのは確実にある。本音で話し合いたいとき、その席にアルコールが置かれることは、大人だけの場であれば珍しくない。逆に言えば、この人になら腹を割れる、と思える場合でなければ、酒など迂闊に飲むべきではない、ということでもあって。
「普段なら押し留められる言葉がこの場で沢山零れ出ても、ありのままを曝け出しても……それは心を許した相手の前だからもう別に構わないってこと?」
だが彼女は未成年で、当然酒など飲めない。彼女の前で本音を曝け出すため、素面の彼女の前でウイスキーやワインを煽ろうとは到底思えない。ならばこれくらい、寝不足で頭が鈍った状態の方がきっといい。寝不足という疑似的な酩酊があれば、カラスバの口は、きっと彼女が求めてくれる「話」をスルスルと吐き出すだろうから。
「そういうことや」
「わぁ」
「わぁてなんやねん」
「ごめんなさい、アナタが苦しんでることを一瞬忘れて喜んじゃった」
苦しんでいるのだろうか、とカラスバは少し悩んでしまった。正直なところ、カラスバ自身、今の自分がどうであるのか十分に把握できていないのだ。
もう目の前の彼女は、夢の中の人形とは重ならない。だから安心していいはずだ。にもかかわらずカラスバの不安や寂寥が完全に取れない理由。売り言葉に買い言葉といった、いつもの温度感でのやり取りに興じられない理由。それが分からない。分からないから、不安も寂寥も取りようがない。それは……まあ確かに、苦しむ、と表現して差し支えないものなのかも。
「それじゃあアナタの許可も得られたことだし、このまま喋りましょう。全部……ワタシに下さいね」
魔法のような言葉を歌ってから、彼女はうーんと楽しそうに口角を上げつつ首を捻る。
「とはいえワタシ、夢に関しては素人なんですよね。夢占いなんてものがあるのは知ってるんですけど、全然勉強してないし」
「監禁する夢なんやから、そら独占欲とか支配欲とかの表れになるやろ」
「やっぱりかあ。でもそういうのって、気に入った人には多かれ少なかれ抱くものでしょう? ワタシだって、アナタとスーパーグラマラスボディなオトナ美女が腕を組んでいるところを見たら流石に絶望すると思いますよ」
「安心し。そないな相手おれへんさかい」
成る程彼女はスーパーグラマラスボディなオトナ美女がカラスバの隣にいると独占欲を拗らせて絶望するのかと、こんな話し合いの場でなければ絶対に聞けなかったであろう新しい情報を得る。
だがスーパーグラマラスはさておき、彼女の言う通りだ。気に入った相手には健全な人間でも多少はそうした独占欲が働くもの。加えて彼女はカラスバをボコボコにしてこの顔を歪ませることが大好きであるからして……当然、軽い支配欲のようなものにだって覚えがあるはず。表面だけなぞれば、カラスバの心地も彼女の心地もさして変わりないように見える。にもかかわらず彼女はそうした夢を見ておらず、カラスバだけがあの人形に相まみえて、そして苦しんでいる。
いや、待て。
「オマエ、そういう夢を見たことは?」
「監禁の夢は見ないですね」
「そっちやのうて」
「え? ……っふ、あっははは!」
暗に「カラスバと一線を踏み越える夢を見たことがあるのか」と尋ねられた彼女は、ロズレイティーに再度伸ばしかけた手を止めて、腹を抱えて笑い始めた。
ああおかしい、と一頻り笑ってからそう零した彼女は、少し言葉に迷うように口を小さくぱくぱくとさせてから、こくりと頷いて。
「タクシードライバーのザックさん!」
「は? タクシードライバー?」
「ワタシ、何度か彼のタクシーを利用したことがあるんですけどね。前に彼、夢の中でも運転することがあるって話していたんです。でもワタシはその夢、見たことないんですよね。だって免許を持っていないし、車を運転したことだってないんだもの!」
それはカラスバも同じだ。タクシーの後部座席にいる夢の経験ならあれど、運転席でハンドルを握りながら後ろの客人に話しかける、といった夢は確かに見たことがなかった。
「……」
彼女がこの発言の前に一瞬、言葉をためらったのは、おそらく男性の人物名を出すことによる、カラスバの心境を案じたものだろう。
スーパーグラマラスボディなオトナ美女とかいう、現実味に欠ける嫉妬の相手しか想像できないような、自身の感情には疎すぎる様子でありながら、相手の嫉妬に対しては驚くほど敏感で、配慮に長けすぎている。カラスバがこれまで、彼女とのあれこれでろくな嫉妬心を表出させてこなかったのも、こうした彼女の配慮の積み重ねにより、嫉妬の火種自体がそもそも取り除かれていたからだろう。そうした配慮に半ば飲まれる形で、カラスバはこの少女をすっかり信頼していた。ゆえに彼女は今日、その信頼の果てに……「今なら他の男性の名前を出しても大丈夫」と、判断したということだ。
踏み越えないギリギリのラインからありったけ注がれてきた彼女のそれ。今、こうしてその果てにぽんと置かれた、ささやかな信頼の形がどうにもくすぐったい。
「ワタシにはキスの経験がありません。男性のように定期的に何らかで発散しなければいけないような身体的事情もないので、そういうコンテンツからの知識もほぼゼロです」
「あけすけに言い過ぎやろ自分……」
「いやでも実際そういうことですよ。そういう夢を見るための下地がないから、見たいと思ったところで見られないんです」
成る程、とカラスバが溜め息を吐きながらも小さく頷いたことを確認した彼女は、けれども次の瞬間、にっと笑って「でも!」とややおどけたように声量を上げた。
「夢を見るか否か以前の問題として、興味はまあ、ありますよね! いつかアナタとできるかもしれないことについては、すべて」
後半はもう「アナタと一緒に飲めるものはすべて好き」という、飲み物の好みについて語ったときと全く変わらぬ温度感だった。ああそうとも、彼女はこうやっていつも、ギリギリのところからありったけ注いでくるから。絶対に踏み越えませんよ、暗黙のルールを守り抜いてみせますよという心持ちでいながら、でもこれくらい伝えるのはセーフですよねとばかりに、面映ゆい言葉だって惜しむことなく尽くすから。
「あと、夢の中の監禁の方ですけど……」
そんな温度感を忘れさせるような真面目な声で、彼女は再びカラスバの苦しんでいるところをそっと撫でてくる。
「お金に関してのやり方はまあ最低の部類ではあるけど、それ以外は概ね、ただ物騒を気取ってるだけなサビ組が、本当に監禁とかやってるなんてワタシは思ってない」
「!」
「ただ、やっぱりサビ組ってそういうのチラつかせて周りをビビらせなきゃいけないでしょ。だから物騒を気取る過程で、そういうものへの造詣は皆さん、絶対ワタシより深くなっているはず。だから監禁する夢だって、アナタの方がワタシよりずっと見やすくなりますよね」
そんな言葉が、サビ組のやり方を「肌に合わない」と避け続ける彼女の口から出てきたことが信じられなくて、カラスバは唖然としてしまった。
カラスバはもちろん、ジプソやほかの連中たちとも、彼女は良好な関係を築いている。だが組織として彼女と対峙したときには、絶対に相容れない、受け入れられないという、半ば嫌悪感に近いものを携えてこちらを見てくるのが常だった。もちろん今だってサビ組のやり方を受け入れているわけではないことは分かる。相容れない、肌に合わないとする姿勢は絶対に変わっていない。そんな彼女が……ここまでサビ組を「読み込んでいる」ことは、カラスバに相当な衝撃を与えていた。
理解できないから否定して拒絶する、というのが、人における至極当然の振る舞いだと思っていたのだが……彼女に掛かれば、理解と拒絶さえ共生できてしまうらしい。きっぱりと線を引きながらも、ここまで「分かられている」ことが、もう、嬉しくなくて何だというのか。
「とまあ、ワタシとアナタじゃこれだけ背景が違うワケです。ワタシが見たことのない監禁とキスの夢をアナタが見たからって、そんなことに罪悪感を覚える必要はまるでない!」
「っ……」
「でも、こういうことでもないみたいですね。ごめんなさい」
「なん、で……オマエが謝るねん」
「だってアナタを気持ちを軽くしたかったのに、全然叶ってないでしょう。ただ、理屈を捏ね回しただけになっちゃった」
くたりと眉を下げて困ったように笑った彼女に、カラスバは慌てて首を横に振った。
「気持ちを軽く、て、そんなんとっくに叶っとる」
嘘ではない。本心だ。こんな、言ってしまえばたかだか夢のアホらしい議題に時間を割いて、心を砕いて、付き合ってくれること以上に何を求めろというのか。
「うーん、でもここは……ワタシが辿り着きたかったゴールじゃないんですよねぇ」
「あかんかぁ」
「あかんのですよ。アナタが……ワタシにもあるようなごく一般的な独占欲を、自分の狂気と混同して、自身を危険視しているうちは、きっと安心して眠れないでしょう。それじゃあワタシの目的は達成できないんです。アナタの顔色をよくするっていう、目的は」
「は……」
あからさまな説明口調で放たれた言葉にカラスバは硬直する。あまりのことに誤魔化しの言葉さえ挟むことができなかった。
信じられへん。もうなんやねんオマエ。いつオレがそないなこと。なんで、言うてへんことまで、そんな。まるでオレの心臓勝手に開いてきたみたいに。