そんな夢を見てすぐに、彼女と連絡を取るなど正気の沙汰ではない……とは思うのだが、最後に彼女を呼び出してからもうすぐ丸三日が経とうとしていることが、カラスバを大いに悩ませていた。連絡を三日取っていない。それはすなわち、彼女がろくに眠っていない日が、もう三日続いていることを意味していて。
あんな夢の後でまともに顔など見られるものかという尤もな気持ちと、それはそれとして彼女をこのままミアレシティに野放しにしていたら、寝不足を極めてそこら辺で倒れてしまうだろうなという気持ち。二つが天秤にかけられ、先程からグラグラと揺れている。あれ以降一睡もできなかったこともあって、カラスバの集中力はもう地の底に落ちていた。今日中に片付けるべき急ぎの仕事がなかったことだけが救いだ。
カタンと脳内の天秤が大きく傾いたのを認め、カラスバは意を決したようにスマホを操作した。自身の気持ち悪い葛藤や後悔など知ったことか。彼女は休まなければならないのだ。休むことが壊滅的に下手な彼女に仮眠を強要できるのがカラスバしかいない以上、こんな馬鹿げたことを理由に、引っ込んではいられない。
「すぐ行きます」
「は?」
スマホロトムの画面の向こう、泥の付いた顔で弾けるようにこちらへと笑いかけてくれた彼女は、けれどもすぐにその笑顔を消して、カラスバを真っ直ぐに見ながらそう告げた。もちろん彼女を呼び出すつもりで電話を掛けたのだが、こちらに一言も語らせないままに通話を切られてしまったことに、カラスバは少なからず動揺した。何だと言うんだ、一体。
ジプソは朝から別件で、サビ組の数名とともに席を外している。戻るのは昼過ぎになるとのことだった。途中で戻ってくる可能性はあるが、まあ一先ず二人分でいいだろうと思い、カラスバは慣れた手つきでロズレイティーの用意をする。
そのロズレイティーのためのお湯が沸いたタイミングでエレベーターの扉が開き、彼女が飛び込んできた。わき見をせず真っ直ぐにこちらへ歩いてきた彼女は、ポットを構えたカラスバに、いつもよりもずっと強い距離の詰め方をして、口を開く。
「大丈夫ですか」
「は? 何がや」
「ワタシのことを言えないくらい悪いですよ、顔色。アナタの方が倒れそう」
そんな指摘にカラスバは息を飲む。どうやら心配をさせたらしい。スマホロトムでの通話のとき、彼女の笑顔が一瞬にして消えたのはそういうことだったのだ。だが顔色が悪いとは心外だ。確かに昨日の睡眠状況は決してよいものではないが、それでも三時間以上は眠っているし、それ以前には十分な睡眠を取れている。連日の寝不足でフラフラになっている彼女の方が余程致命的だろうに。
「ちょっと夜更かししただけや。いや、早起きかな」
「あぁ、夜中に目が覚めて眠れなくなっちゃったんだ」
「……オマエもそないなことあるんか」
「たまに、疲れすぎていると逆に目が冴えてしまうときがあって。あとは嫌な夢を見たときとか」
カラスバの状況をまさに突いてきたその言葉に内心で驚きながらも、へえと軽い相槌を打つのみに留めておいた。ポケットからハンカチを取り出して彼女へ差し出す。不思議そうに首を捻る彼女に「泥」と告げればその顔が僅かに赤く染まった。
「あー! バレた! 川辺でマッギョと格闘してたのがバレた!」
「またオマエ、ポケモン出さんと身一つで逃げ回っとったんかいな」
「いや、賑やかにバトルをするとギャラドスとか出て来ちゃいそうで。ワタシだけで穏便に、と思ったんですけどね」
ありがとうございます、とお礼を告げて、彼女はカラスバの手からハンカチを受け取った。カラスバは右手で自身の頬をつついて、彼女の顔に付いた泥の位置を示す。照れたようにふわっと笑いながら、彼女は左の頬へハンカチを押し当てて軽く擦った。
「取れた?」
「取れた」
「よかった!」
ぱっと花を咲かせるように笑う彼女。洗って返しますね、と告げてきたが、ええからと少し強引に取り上げて、代わりにその手にロズレイティーの入ったカップとソーサーを持たせた。少しだけ悔しそうに、申し訳なさそうに眉を下げつつ、彼女はお礼とともにティーセットを両手で抱えて、いつもの位置……ソファへと歩き出した。
カラスバと同じ靴が軽快にカツカツと鳴る。エムゼット団のロゴ入りのジャケットから除く腕は、細めではあるが、適度に筋肉の付いた健康的な引き締まり方だ。ワイドパンツから覗く脚も、三日前の彼女と違わない。そうしてソファに座る直前、カップにそっと鼻先を寄せた彼女は。
「これ、ロズレイティーですね!」
という歓喜の声と共に、その顔にぱっと咲かせてみせた。
「……せやで」
あの夢の中に置いてきた、人形のような伽藍洞の彼女ではない。そう確信できて、カラスバはようやく安心できたような気がした。
「オマエ、ロズレイティーが好きなんか」
「いやそれは違うかも? ここでアナタと飲めるものはすべて好きです」
「そらお手軽でええなあ」
「むしろアナタが好きなのかと思ってました! アナタのロズレイドが喜びそうだし」
「まあ、せやな。よく飲む方ではある」
一線を踏み越えないギリギリのところから、彼女が投げてくるありったけ。そこに何の打算も含まれていないことが分かる。ただ、許された範囲で思いっきり楽しんでいるだけだということが痛い程に伝わる。
こんなにも彼女が言葉や表情のすべてで満たされていると伝えてくるのに、ありったけでカラスバを同じように満たそうとしていると分かるのに。どうして夢の中のカラスバは、これ以上など望めたのだろう。どうして夢の中の彼女はそれを受け入れたのだろう。
「夢見が悪かったんや」
「!」
「せやから夜中に起きてからそのまま、寝てへん」
「それは……大変だったでしょう。でも病気とかじゃないみたいでよかった」
ああそこを心配されてしまうのか、とカラスバは虚を突かれたような感覚になりながら、彼女の向かいのソファに座り、自身のティーセットをテーブルに置く。
そっと細められた彼女の目には、カラスバが映っている。でも彼女はカラスバだけを見ているわけではない。先程までマッギョと戯れていたという土の色も、おそらく快晴であっただろう空の青色も、先程鼻先に寄せたロズレイティーの柔らかな赤色だって、すべて消えてしまわず少しずつ残っていて、彼女の目の輝きを構成しているのだ。カラスバはあくまで、そのうちの一色に過ぎない。そして、それでいい。
夢の中に置いてきた、人形のような彼女の面影など、もうどこにもなかった。今目の前で花を咲かせるように笑う彼女に、やはりあの伽藍洞は似合わない。
「アナタの顔色をそこまで悪くするなんて、相当な悪夢だったんですね。どうにかして逆夢にできればスッキリするかもしれないけど」
「それは別にええ。逆夢ならもうなった。今なった」
「今なった!?」
「オマエが」
しまった、と思った。これでは彼女が自分の夢に出てきたこと、しかも彼女が出てきた夢のせいでここまで顔色を悪くしているということが丸分かりだ。
「ワタシが来たことで、逆夢になった……?」
逆夢。夢とは反対のことが起こることだ。
カラスバの夢に彼女が出てきたこと。今の彼女が「逆夢」そのものであること。これらカラスバの発言二つで、もう見た夢の推測などある程度出来てしまうというもの。もちろん察した上で上品な沈黙を貫くことだってできたかもしれないが、生憎この少女は好奇心旺盛であるが故に、自身が登場人物になったというカラスバの夢のことを知りたくて仕方がないようで。
「ははぁ、さてはワタシがいなくなる夢でも見ましたね?」
「逆や、閉じ込めてどこにも行かれへんようにする夢やった」
さらに言えばカラスバの方でも、誤解されたままというのがいけ好かないという気質が故に、あと寝不足で頭が回っていないために……正解をストレートに告げてしまう程度には迂闊であったからして。
「オマエをめちゃくちゃにした」
「おおっ……と、淫行ってことですか! ワタシは未成年だから立派な犯罪ですね!」
「いっ!?」
「ルールギリギリのところを走るサビ組のボスが一番やっちゃいけないヤツです。いやぁ、夢でよかったですねカラスバさん!」
「待て待て誤解や! そこまではしてへん!」
しかし彼女の口から出てきたとんでもない言葉に、カラスバの目は一気に覚めてしまった。カラスバの落ち込みようというか、顔色の悪さを見てわざと大きな、ふざけた言葉を使っているのかもしれないが、それにしたってもう少しマシな例示があったのではと思う。
まあ繰り返しにはなるが、カラスバもカラスバとて頭が回っていないので……「めちゃくちゃにした」との表現であればそういうことを連想する人の方が多いだろう……ということには残念ながら思い至っていなかったのだけれど。
「えっ違った? じゃあめちゃくちゃって何? 暴力沙汰ですか? ヤク漬けですか? 人身売買ですか?」
「オマエの中のサビ組像どないなってんねん!」
「違うんだ……。じゃあキスでもしましたか?」
まさか彼女の方でも、ここでカラスバが硬直するとは思わなかったのだろう。ガシャンと派手に置かれたティーセット、その勢いが強すぎて中身がカップから零れ、ソーサーを赤く染める。手を不自然なところで止め、唖然とした表情でこちらを見た彼女は……けれどもすぐにいつもの笑顔に、なって。
「そんな顔しなくていいのに」
どんな顔してんねんオレは……とは、恐ろしすぎて尋ねられない。
「いいなあ。そっちのワタシ、キスでめちゃくちゃにしてもらったんだ」
「そないなかわええもんやない。殺した。オマエを殺した」
「大袈裟ですね、鼻と口を一気に塞いで息の根止めたりしたんですか?」
「オレがオマエの全部を取り上げて、お人形さんみたいにして、オマエの人生全部、台無しにした。二度と咲かへんようにさせた」
「……」
「オレのせいや」
大きく見開かれた目が、瞬きを忘れている。「咲かへんように」と小さくカラスバの言葉を繰り返してから、彼女はしばらく沈黙した。次に彼女が口を開いたときがカラスバの、あらゆる意味で「終わる」ときかと、そのようなことさえ考えた。
罪状を言い渡されることを待つ、木槌の音に怯える被告人というのは、このような心地なのかもしれなかった。サビ組は警察の世話になったことがないため、裁判所での心情というのは完全に、カラスバの想像でしかないところではあるのだが。
けれども目の前の裁判官は、忘れていた瞬きを取り戻すように勢いよくぱちぱちとやってから、こちらの顔を歪ませるときによくやる口角の上げ方をした。木槌の振るい方など知らないとでも言うように、悪戯っぽくにっと笑ってみせるのだ。
「だからワタシを見て安心したんだ」
「せやで」
「いつも通り外で走り回る元気なワタシが、顔に泥を付けて、へらへら笑ってやって来て。夢の中のお人形さんみたいなワタシと正反対で、アナタはこれ以上なく安心した」
「その通りや」
もう言葉を濁すことさえ忘れていた。項垂れかけたカラスバの頭は、でも次の彼女の声で勢いよく上がる。
「うれしい」
「は!? なん、で」
「だってたかだか監禁とキスの夢に、現実のアナタがこんなに苦しんでる」
たかだか、と言えるような生温い夢ではなかったはずなのだが、彼女は夢の致命性の低さに反して、カラスバの苦しみが大きすぎるとして喜んでいるようだった。そこに、カラスバの、彼女の想いがこれ以上ないくらいに透けてしまっているから。そこを見逃すような愚鈍な少女ではないから。
「ありがとうございます。夢の中でもワタシのこと、大事にしてくれて」
大事だ。大事に決まっている。でも、でもカラスバは既に彼女へあらゆる不自由を強いているのに。
相容れない立場である以上、この関係に名前の一切を付けてやれない。互いを大事に想うための言葉は尽くせても、決定的な一言だけはずっと避けなければいけない。握手以外のすべてが許されない関係だ。踏み越えることの許されない関係だ。
ただ未成年だからという理由だけで、互いにのんびり待つことができたなら、どんなによかったか。
「もう少し、アナタの時間をくれませんか。ワタシ、アナタのこともっと知らなくちゃいけない」
「そんなん、オマエに何の利もあらへんで」
「そんなことない。言ったでしょう。アナタが強い人だって知れば知るほど、ワタシはアナタを倒したくて堪らなくなるんです」
「……」
「ワタシの最高の一瞬のために協力するって、アナタは言った。ね、約束を果たして」
穏やかな声だった。夢の中で自分を人形のようにした相手を前にしているとは思えないほど、彼女は堂々としていて一切の怯えを見せなかった。
虚勢を張っているわけでは絶対にない。彼女は本当に、怖がっていない。カラスバ自身が嫌悪し、怯え、打ちのめされた、自身に残っているかもしれない狂気でさえ、彼女にはもう何の脅威にもならないのだ。
末恐ろしい。敵わない。目を穿つような眩しさだ。敵わない。なんやねん。なんやねんオマエほんま。
「あっ、その前に!」
「!」
「これ今日、アナタの口から初めて聞いた言葉で、ワタシもかなりびっくりしてるんですけど」
ああでもそんな彼女は、こうしてひどく嬉しそうに笑っていると、本当にただの子供みたいで。
「カラスバさん、ワタシのことお花だと思ってるんですか?」
(続)