(倫理に悖る描写:夢オチ にご注意ください)
信じられないことだが、彼女の口の中というのは甘いらしい。自身の口内は生まれてこの方、もちろん無味。過去に高熱で味覚をやられた際、唾を飲み込んだ際にいやな苦みを軽く感じた程度だ。しかし目の前の相手と交わしてしまうと、己の口から出てきているはずのものさえ甘く感じる。彼女と交わしたものにはすべて何らかの意味が宿るから不思議だ。言葉も、バトルも、視線も、靴音も、唾液さえ。
溺れるように何度も繰り返した。好きや、と息継ぎする度、唸るように零した。睦言のバリエーションが無さすぎるのはもうそれだけ必死であるということで仕方ない。鼻で息をするとかいう知識としては知っているテクニックも、これだけ頭をめちゃくちゃにしてくる相手の前では何の役にも立たなかった。
二人の背丈はほぼ同じ。ヒールのある女性らしい靴など履いてしまえばきっと彼女の方が追い越すくらい。だが縋るようにこちらの背中に腕を回してくる彼女はとても、とても小さく見えた。かわええな、と思った。大事にしたる、とも思った。一生ここでおったらええのに、とさえ考えた。こんなにも甘い気持ちで誰かに触れてもらえるなら、それはきっと、自分にとっての幸せの終着点に違いないのでは、と。
もう一度、彼女の周囲の空気ごと飲み込んでしまいたくて、彼女の、留守になっている方の、筋肉の気配を一切感じない華奢な腕をそっと捕らえて。
「……?」
筋肉の気配を感じない、華奢な腕。
おかしい、そんなはずがない。昼に夜にとミアレシティを駆け巡り、日中に何十回とボールを投げる彼女の腕が、こんなにも柔らかいはずが。
視線をソファの下へと向ける。彼女のワイドパンツから覗く脚がなんだか妙に細く小さい気がする。かつて贈った紫の靴は、その小さい足から脱げて、靴裏を上に向けた状態で床へと転がっていた。
「セイカ……?」
ボールを投げられそうにない、柔い腕。走ることを忘れた、細い脚、アスファルトを軽快に叩くことのなくなった、揃いの靴音。
これは誰だ。誰が彼女をこんな風にした。
「カラスバさん」
「!」
「どうしたの。わたしはここですよ」
舌足らずの眠そうな発声で彼女は名を呼ぶ。視線を、靴から彼女の顔へと戻した。薄く開かれた瞳が、こちらを見ていた。そう、見ていた。彼女はただ、見ているだけだ!
彼を映すその瞳には、ミアレシティの街を想う心も、出会った仲間への親愛も、相棒のメガニウムへの信頼も見当たらない。彼だけ。真に彼の存在だけ。
彼女を煌めかせていた輝き、その全てを失った伽藍洞の目に、頭を殴られたようなショックを受けたところで……カラスバは目を覚ました。
「……ゆめ」
心臓がカラスバの肋骨を折らんとする勢いでドクドクと暴れていた。額に滲む僅かな汗の気配を感じながら、カラスバは頭を押さえつつゆっくりとベッドから上体を起こす。当然ながら寝室にはカラスバ一人だった。ひどく衰弱した……おそらくはカラスバ自身が手ずから衰弱させた……あの少女を、あの夢の中に置き去りにしてきてしまったらしい。
オレはなんてもんを。なんて夢を見とるんや。
檻の外で飛び回り、誰よりも綺麗に咲いていたはずの花。三日と空けずにカラスバのところへやって来ては、他の誰にも見せない満開を真っ直ぐに向けていてくれた花。草・フェアリーにメガシンカした、カラスバのポケモンたちの毒が四倍で刺さる相棒を連れていながら、彼女自身は草・鋼であるかのように、カラスバ自身が向ける毒にもいつだってケロリとしていて。それでいて言葉とか視線とか、ギラついた無形の刃でいつも容赦なくこちらを刺してくるものだから、ああもうずっと敵わないのかもしれないと思ったりもして。
同じ志へ向けて走る戦友である。容赦なく勝利を奪い合える関係はただ無性に楽しくてワクワクする。こちらを焼き焦がすような輝きから目を逸らせない有様は崇敬にも似ている。相容れないと互いに弁え合いながらも、一線を超えないギリギリのところから注がれる彼女のありったけに、この上なく救われている。
これらにすべて嘘はない。そういう風に彼女へと信頼を置き、彼女を想える自身のことが、カラスバは嫌いではない。嫌いではなくなった。事あるごとに彼女へ開示してきたカラスバの過去ごと、嫌いではなくなってきた、はずだった。
「……」
それでも長年の育ちの悪さと、それに由来する根っこの悪癖というのは、薄れはしても完全に消えてなくなるものではないらしい。またそれは、気に入った相手に対する、健全な人物でも抱くであろう独占欲と、多少重なる性質のあるものであるからより厄介で。
何が引き金になったのかは分からないが、とにかく夢の中のカラスバは、彼女を強引に自分のものにしようとしたらしい。サビ組の事務所に閉じ込めて、外に出られないようにして、彼女の生き方を、生き甲斐を、すべて奪って。昼夜を問わずミアレシティを駆け回る必要のなくなった彼女の体からは、筋肉が少しずつ落ち、そして痩せていったのだろう。カラスバがかつて贈った靴が、自然に脱げ落ちてしまう程に。
そしておそらく、あの恐ろしい有様は彼女自身の同意のもとに造られている。だって最強無敵の彼女がカラスバにおいそれと捕まるはずがない。彼女が逃走の手を緩めてわざと捕まるか、あるいは自ら檻の中へ飛び込むかしなければ、あのようなことになるはずもないのだから。
「折ってしもた」
それでもあれは間違いなく、カラスバが手折った花に違いなかった。
オレのもんにしたいなあ、という気持ちをこれまで一度も抱かなかったと言えば嘘になる。オレだけ見てほしいなあ、とか、他のヤツんとこ行かんといてほしいなあ、とかを考えた経験だってもちろんある。だが、それが良識の柵を突き破って出てきたことは一度もなかった。気に入ったものが逃げ出さないよう、囲って、自由を奪って、閉じ込めておかなければ……などと、数年前ならあるいは考えたかもしれないが、今の、仲間にも金にも立場にも、戦友にさえ恵まれた今においてはそんな歪な思考も不要なもので。
何より、彼女の手により普段から並々と注がれるありったけのせいで、カラスバはそんな独占欲を抱くことさえ忘れていた。忘れていたはずなのだ。
「オレが、折った」
ただ夢の中とはいえ、もしそうした独占欲に由来する占有が叶ったなら、正しく「オレのもん」になったことへの高揚に沸き立つのかと思っていた。「やっと手に入れた」という心地に満たされるのかもと考えていた。だがいざ夢の中でそのすべてが叶ってしまったとき、カラスバの胸には、いっそ腹を切りたくなるような重い、重い罪悪感と後悔が満ちるばかりで。
「っ……!」
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!
自身の心で抱えきれなくなった分、溢れ出た分が、震えと嘔気に変換される。慌てて洗面所に飛び込んで喉元にガクガク震える指を突っ込むも、夕食からもう随分経っている今となっては、出てくるものはほとんどなく、冷たく薄暗い空間にカラスバのえずく声が転がるばかりだった。
「っぐ、ぁ……、うぇ……っ、はぁっ、な、なんやねんもう……!」
ほぼ透明な液体、おそらく胃液がシンクを流れていく。出すものなどもう胃の中には残っていないにも関わらず、カラスバは何度も何度も、強引にえずきを繰り返した。ある程度嘔気がマシになったところで顔を上げ、息を整えつつ、傍のタオルを引っ掴み口元を拭う。口をゆすごうと蛇口に伸ばした手の甲に、ポタポタと胃液とは異なる何らかが二回、降った。
「は?」
これだけ息が乱れるほどにえずいたのだ。生理的な涙が出てきたって何らおかしくはない。だがカラスバはそのたった二滴にどうしようもなく動揺した。辛いから、悲しいから泣いているわけではない。そのはずだ。そのはずなのに半ばパニックに陥ったカラスバの頭は、涙という単純な情報から、よくない思考をぐるぐると回し始めてしまって。
これは何だ。檻の外の花を捕まえて手折ったことへの罪悪感か。未成年である彼女に噛みつくようなキスを繰り返したことへの後悔か。彼女の目が曇っていたことへの恐怖か。この独占欲が現実で満たされることは決してないと分かってしまったことへの寂寥か。いやあんなものは満たされてはいけない。彼女を閉じ込めてその目の輝きを奪うくらいならもうこちらが腹を切る。
そこまで考えて、カラスバの心がすっと冷えた。嘔気も、手の震えも、ピタッと止んだ。頭に吹き荒れていた混乱の嵐が、すっと凪いでいった。後に残ったのはひどく涼しく……寂しい心地だけだった。
「っ、ふ……酷い夢やなあ」
サビ組への所属を頑として断り続ける彼女が永劫自分のものにならないことよりも、観光客である彼女がいついなくなってしまうとも知れないことよりも、彼女が「咲かなくなる」ことが恐ろしかった。彼女を強引な手段で自分のものにしたとて、絶対にいなくならないという確信を手に入れたとて、絶対にカラスバは満たされず、彼女も幸せになれないのだと分かってしまった。あの夢に、教え込まれてしまった。
だからといって彼女を占有できないことや、唐突に訪れるかもしれない彼女の喪失を、怖くないなどという断言はもう虚勢にしかならない。ここまで膨れ上がってしまった彼女の存在を、もうカラスバはどうすることもできやしない。
苦しい……苦しい。
想いに、身動きが取れなくなる。
『カラスバさん』
伽藍洞の瞳でカラスバをただ見ていた、あの少女を思った。あんな風にしてしまう可能性がこの身に宿っていることが気持ち悪くて仕方なかった。
蛇口から勢いよく水を出し、口をゆすぎ、ついでに顔も笑って何もかも洗い流そうとした。タオルに濡れた顔を押し当てて、水と、ついでに嗚咽も吸い込ませた。
『カラスバさん!』
あの子。セイカ。カラスバの戦友であり好敵手。相容れない存在。守られるべき未成年。ミアレシティの外から来た人間。愛されることに慣れている人間。
そんな彼女の満開を、カラスバだけが知っている。
でも驕っちゃ駄目ですよと、先程の夢に置いてきたあの彼女が囁いてきたような気がして、カラスバは震える息で細く長く溜め息を付いた。
タオルを片付けて寝室に戻る。時刻は深夜2時前。どうせ眠れやしないだろうと考えながらも、カラスバは鉛のように重くなった体をベッドへ沈め、目を閉じた。ワタシがアナタをボコボコにする、と威勢よく告げて笑う、あの芯のある力強い声を、頭の中で何度も何度も再生した。あの人形の口が紡いだ、彼女らしくない「わたし」の音を、本物の彼女の「ワタシ」の声が攫っていくまで、ずっと。