珍しく彼女の方からカラスバの方へ着信があった。要件はもう察していたため、カラスバは小さく笑いながら画面を起動させる。今からそちらへ向かっていいですかという、焦ったような彼女の早口に快諾を示す。
すぐ行きます、と上擦った声で告げた彼女の背後は真っ白だった。おそらく雪の降りしきるあの場所で調査をしていたのだろう。喉が渇いたな、などという取ってつけたような方便とともに、カラスバはゆっくりと立ち上がった。
サビ組の事務所にはかなりの種類の茶葉とコーヒーを揃えているが、彼女は何でも美味しいと言って綺麗に飲み干すので好みがまるで分からない。苦手なものがないのは良いことだが、と思いながら、ハッサムティーの茶葉を手に取る。お湯をポットに注いだところで、エレベーターが控えめな音で開いた。
「っ、お邪魔しますカラスバさん! 厄介なブツを引き取りに来たんですが」
「おう、そのブツなら動かしてへんで。テーブルの上や」
案の定、肩に薄く雪を被った状態で現れた彼女は、カラスバが示した方角に駆け寄り、目当てのブツを見つけたところでがっくりと肩を落とした。
「あぁもうやっちゃった! 絶対バレたくなかったのに!」
「それは字の方か? 中身の方か?」
「両方ですよ!」
彼女には今朝、カラスバが「お仕事」と称して、ここで2時間の仮眠を取らせたばかりだ。寝不足を極めた彼女を、カラスバとのポケモンバトルをエサに呼び出し、ついでとばかりにソファへ転がす。休むことだけが壊滅的に下手な彼女が、ミアレシティで倒れてしまわないように。これからもなるべく長く、カラスバと同じ方向を目指して走る……「戦友」でいてもらうために。
きっかり2時間の仮眠を終えた彼女は「またバトルしましょうね」と、多少よくなった顔色でカラスバに笑いかけてから、元気良く事務所を出て行った。彼女が手書きで記した、調査やバトルの対策についてのノートを、開いた状態でテーブルに置いたまま。
「別に何もおかしなことあらへんやろ」
「おかしなことがないから困ってるんです! こんなまともに対策を練ってる記録なんて見られたくありませんでしたよ」
「安心し。ノートには触ってへん。見たんもその開けてあるページだけや」
「そのページこそ! アナタに勝つための泥臭いあれこれを記した、一番かっこ悪いところなんですって!」
彼女が開いたままにしていたノート。そこにあったのは、カラスバの切り札であるペンドラーに、彼女の相棒、メガニウムで勝つためのあれこれだ。持たせる道具の選択、覚えさせる技、こちらの大技に対する避け方、メガシンカのタイミング等々が、おそらくダメージを計算しているのだろう、いくつかの計算式とともに書き込まれていたのだ。
虫・毒タイプのペンドラーに対して、メガニウムは草タイプ。タイプ一致技の通りはいまひとつだ。ほかに使えるサブウェポンはいくつかあるようだが、いずれもペンドラーへの有効打にはならなさそうだった。メガシンカをすれば技にも相当な火力が出るが、メガメガニウムは草・フェアリーになり、カラスバたちの十八番である毒技が四倍で通ってしまうわけで。
相性最悪のペンドラーに捨て身で突撃してくるメガニウムの、メガシンカ同士の対決。その一騎打ちは今のところ、カラスバの全戦全勝。彼女はこの切り札同士の一騎打ちにおいてだけは、ずっと辛酸をなめ続けているという現状があるわけだ。
「こないに必死になって、いじらしなあ」
「いやもう笑ってるじゃないですか」
「馬鹿にはしてへん。普通に考えて勝てるわけあらへん対面に、オマエもメガニウムも絶対に諦めんと食らいついて来よるんは正直かなりおもろいで」
「……」
「なんべんでも受けて立つさかい、またかかって来よし」
カラスバが毎度、彼女とのバトルでボコボコにされながらも、矜持を保っていられる理由はここにあったのだが……強さに貪欲な彼女は、その最後の砦さえ攻略しようとしているらしい。その熱意はもちろん歓迎されるべきことだ。いつか攻略されてしまったときのカラスバの屈辱……その甚大さに目を瞑るならきっと、素晴らしいこと。それにカラスバとて、そうおいそれと攻略されてやるつもりはないし。
なんべんでも、とカラスバの言葉をなぞった彼女は、ぱっと花を咲かせるようにして笑った。
「うれしい!」
「さよか」
「それはそれとしてこれを見られたことはやっぱり恥ずかしいんですよね!」
裏での努力や苦悩をなるべく知られたくないとする心地はカラスバにもよく分かるので、その気持ちを肯定する意味で小さく笑い、頷いておいた。
ハッサムティーの入ったコップを二つ、テーブルに置く。いいんですか。また寒いとこ行ってきたんやろ。ありがとうございます。今度はもうちょっと着込んだ方がええな。トレンチコートが必要ですかね。等々、淀みなく会話を続けながら双方向かい合って座る。いただきますとの宣言とともに口を付けた彼女は、そっと飲み込んでから、いつものようにぱっと咲かせて「おいしい!」と告げた。数日前、ロズレイティーを出したときと全く同じ反応だ。きっと今日のこれも、同じように綺麗に飲み干してくれるのだろう。
「安心し。オマエの秘策はバレてへんで」
「そりゃそうでしょうね! こんな、ワタシ以外には絶対に読めないような字! 古代文字だってもうちょっと解読の余地がありますよ!」
「そこまで言うてへんやろ。まあ確かに読めはせんかったけどな」
彼女がこのノートを見られたくなかったひとつの理由。それはそのノートに書かれた字の悪筆っぷりにあった。古代文字とまでは言わないし、ポケモンの単語や技の名前など、一部推測できるものは確かにある。しかし結局情報としてはどうなるんだ、というところには、この見開き二ページを数分かけてじっくり眺めたカラスバも辿り着けていなかった。
「こういうガサツなところは見せたくなかったなぁ。ホテルZで見たアナタの字、とても綺麗だったから」
困ったように笑いながら、彼女にしては随分と弱々しい音で告げる。これは彼女のコンプレックスに相当する部分だろうか、と思いながら、その払拭のためにひと肌脱ぐこともやぶさかではないといった気持ちで、カラスバはやや得意気に提案する。
「オレのペンドラーの倒し方は内緒やけど、字の整え方くらいなら教えたるで」
「えっ」
「ミアレシティの子どもらに教えたことかてあるさかい、オマエも」
そこまで口にしてカラスバは気付いた。彼女が、眉をくたりと下げて戸惑っていることに。
カラスバに教わることに対する申し訳なさや照れがあるとか、好敵手に教えを乞うなんて屈辱すぎるとか、そういう類の躊躇ではない。そもそも彼女はカラスバに自らの感情を開くことを厭わない質であるため、そんなことで顔が曇るはずがないのだ。
であればこれは彼女自身を理由とする戸惑いではなく、カラスバへの何らかを理由とした戸惑いであるということに、なるわけで。
「そうですね。機会が……あれば、是非」
「セイカ」
「はい! はい何ですか」
「教えてぇな。今、何考えた?」
そこで分かりやすく視線を右にでも逸らしてくれれば諦めも付いたというのに、彼女は戸惑いを残しながらも真っ直ぐにカラスバを見つめるばかりだ。眩しくて、カラスバの方が目を逸らしてしまいそうになる。本当に、こんな些末なところでさえ、焼き焦がされそうな誠実の権化だ。
「えーっと……」
数秒の時間を取った後で、彼女は意を決したように頷き、先程よりも少しだけ芯のある笑顔を作り直して、ノートを手に取った。
「このノートは基本的に屋外の、草むらとか川辺とか屋根の上とか、そういうところで広げてささっと書くものなんです。まあアイデアのメモ帳みたいなものですね」
「へえ、外で書いてるんか」
「そうなんです。目当てのポケモンが出てくるのを草むらで待ちながら、走り書きすることが多いかな」
そう告げて、彼女はノートをパラパラと捲り、何も書かれていない新しいページを開いた。
彼女が言いたいことを、カラスバも何となく察し始める。ああこれはよくなかったなと、変な配慮をさせてしまったなと、そうした反省会が、まだ彼女の話が終わってもいないうちから脳内で進んでいく。
「まあ正直、ここに書いてあるものは、ワタシ以外読めたものじゃないと思うんですけど」
彼女は腰のポーチからペンを取り出して、ソファに浅く座り直して、ノートの上に構える。すらすらと書きつけたそれを彼女は持ち上げて、困ったような、あるいは申し訳なさそうな微笑みとともにカラスバの方へ向けた。
果たしてそこには、カラスバの予想した通りの、カラスバのものなど遠く及ばない、目を見張るような達筆があった。「丁寧に書こうと思えば、まあこれくらいは」と書かれたそれは、少し縦に長い癖こそあるものの、どこかの書籍や新聞から取ってきたかのような美しさで。
「うっま!!」
「!」
「いや上手すぎやん。こないに書けるんかオマエ、ごっついな」
「……そ、そうなんですよ。一応」
手放しの称賛は彼女を少なからず照れさせたようで、彼女の頬がぽっと、珍しい灯り方をした。
「ええこと知れたわ。なんかサビ組で手書きの看板とか作るときが来たら、お仕事お願いせなあかんなぁ」
「っ、はい! お役に立てるのなら是非!」
背筋を伸ばして笑顔になった彼女は、まだ何の予定も立っていない「お仕事」にも間髪入れず快諾した。いつもの勢いが戻ってきたことに内心ほっとしつつ、カラスバは左手で髪を触った。「なんかあれやな」と零した声が、自身の想定よりも低いトーンになってしまったことに驚き、咳払いをして整えてから再度口を開いた。
「あれしきで達筆やとかぬかしたん、今になって恥ずかしなってきたわ」
「えっ、綺麗だったじゃないですか」
「やめやめ! こんな字書くヤツに言われたって世辞にしかならん」
若干の自虐が混ざってしまったが、軽く笑い飛ばせるくらいの温度感で話すことはできているだろう。そう思いながらカラスバは再度ハッサムティーに口を付けた。彼女も真似るようにカップを持ち上げつつ、小さな一口を喉に流し込んで、まだ半分以上残っているそれを再びテーブルに戻して。
「おおきに」
はっと顔を上げた彼女が、また辛そうな表情になっていることを認めながら、それでもカラスバは言葉を止めてやれなかった。
「こないに書けること、隠そうとしたんは、オレのしょうもないプライドのためやろ」
「もう……もう一思いに殺してください! こんな生温い配慮で、アナタに喜んだままでいてもらおうとしたワタシが恥ずかしい!」
「オマエ……たまにサビ組より過激やな。安心し、全然、気分悪うなってへんさかい」
カラスバなりに言葉を尽くしたつもりだったが、それでも彼女の顔色は良くならない。まあ連日、二、三時間の睡眠でミアレシティを走り回る彼女の顔色は常に最悪ではあるが、そういうのとはまた違う顔色の悪さというのは、カラスバにとっても肝が冷える話で。
そんな彼女の憂いを取る方法……彼女の罪悪感、背中に勝手に背負ってしまった重たい荷物を取り上げるための手段が、カラスバにはもう、自身のあれこれを開示するほかに思いつかない。
「オレな、ちっこい男やねん」
「ちっこい」
「できることとか、手に入れたもんを、ひけらかさんとおれへんのや。字も、金も、強さも、人脈も」
まあ金や人脈の類を表に出すのは、サビ組が舐められないようにするための、必要に迫られた部分でもある。彼女もそれを分かっているのだろう、不思議そうに目をぱちくりと開いて僅かに首を捻りながら「後ろ三つのひけらかしはサビ組の必須タスクのような気が」と呟いた。
「それに、できることや手に入れたものが色々あるアナタを、ちっこいとするのは過小評価じゃないかなあ。そういうの全部、アナタが頑張って手に入れたものなんだから、自慢したっていいような気も」
「っふ……せやで、オレ頑張って手に入れたんや」
「すごいと思います! お金の集め方についてはどうかと思うけど!」
サビ組のやり方を「肌に合わない」として絶対に受け付けない、彼女らしい肯定の仕方だ。今更そこに目くじらを立てるつもりはないので、カラスバは小さく笑いながら続ける。
「せやからたまに忘れてしまうんや。そういうの、もう当たり前に持っとって、ひけらかしもせん、オマエみたいな生粋の持てるモンがおることに」
「えっ」
「手に入れたことにいちいち喜ぶオレとおんなじ方向、しかもずっと前を、そういうのをオレより立派に使いこなすオマエが走っとるんや。悔しいてかなわん」
生粋の持てる者への劣等感は、下層から這い上がってきたカラスバにはきっと永劫払拭できないものだ。カラスバが必死の思いで手に入れたものを、当たり前に持っている人物へのコンプレックス。カラスバの何分の一ほどの苦労しかしていないように見える人物が、カラスバを悠々と追い越していくことへの屈辱。なぜ自分には与えられなかったのだろうという、寂しさ。
若いころからずっと、毒のようにカラスバ自身を蝕んできた、そんな感情たち。
「優しいオマエにこんな配慮までさせてなぁ。情けない話や」
だが彼女に告げた言葉は、今となってはもうほとんどが嘘、と呼んで差し支えないものになっている。悔しい気持ちはもちろんあるが、カラスバはもうそういう毒に飲まれてはいないからだ。
持たざる者であった過去の自分。あいつへの未練なくさよならできる程度には、カラスバがミアレシティで「受け入れてもらった」という実感とともに過ごしてきた時間は、もうすっかり長くなってしまっていたから。
優秀な部下たちに恵まれた。日向には出られないが相当な地位も力も手に入れた。ミアレシティを良くしたいという夢さえ持てた。そこへ向かって共に走る、戦友のような存在にも出会えた。
「恥ずかしいんはオレの方。オマエは何も気にせんと、いつも通り前だけ見て走っとったらええ」
その、かけがえのない戦友の憂いを取るためなら、これくらいの恥ずかしい開示くらいしてしまえるのだ。
さてそんな戦友たる彼女は、カラスバの話に暫し唖然としていたが、やがていつもの芯のある表情になり、右手を顎に添えてからにっと口角を上げ、悪戯っぽく目を細めた。表情から憂いの類が消えたのは良いことだが、その笑い方はもう、こちらをボコボコにすることを楽しむ彼女の悪癖がこれでもかというくらいに押し出されたもので。
「これはあれですね。ご自身の過去や内情を開示してこちらを懐柔しようとする、初期のカラスバ節を効かせた、かなり懐かしい香りのするお話ですね」
「っふ、ははは! オマエほんまおもろいな。こんだけの話を聞いて出てくる第一声がそれかいな」
カラスバがどういった思惑でこんな込み入った話をしたのかさえ、彼女にはもうすっかりお見通し。だがあからさますぎる開示であったとしても構わなかった。いつだってニコニコとしている彼女の、珍しすぎる顔の曇りを、どうしたってそのままにしておけるはずなどなかったのだから。
「でも、ひけらかし癖のあるちっこいカラスバさん?」
「おい言い方」
「アナタ、ジプソさんとの特訓を隠してましたよね」
彼女が言っているのは、MSBCのユカリトーナメントで戦った際のことだろう。ジプソが特訓についてバトル前に言及したせいで、彼女という強者への執心があの場にいる全員にバレてしまった。今でも思い出すと、やや苦い気持ちになってしまうレベルの羞恥であった。あれは正しく、隠していたかったことだ。彼女がこのノートをカラスバに見られたくなかったのと同じように。
「努力する姿はひけらかさないんだ、アナタも」
同じですね、と暗に告げて、彼女はとろけるように微笑む。
走る方向、目指すものが同じだと喜んだ。カラスバが贈った同じ靴の音にも喜んでくれた。そんな彼女は今日、カラスバのひけらかす悪癖の中にそっと潜んだ「隠したがり」を拾い上げて、同じだとしてまた、喜ぶのだ。
「でもまあ流石にそこはひけらかせないか! そんなことしたら、アナタの野心がバレちゃいますもんね」
「なっ」
「でもワタシもう知ってます。悔しいてかなわん、なんてしおらしいことを言っておきながら、アナタがワタシの背中を、ギラついた目でずっと狙ってること」
からかうような言葉で彼女はカラスバに発破をかける。もうそんなコンプレックスに打ちひしがれるアナタではなかろうと、眩しい程の信頼から放たれる軽い挑発が、ただ心地いい。
「多分、アナタの中では大抵が既に解決していることなんでしょう。ひけらかし癖は言葉通り、ただアナタの、長年の癖として残ってしまっているだけ」
「いやもう、っ、なんやねんオマエ! そこ」
そこまで分かるんか、と言いそうになって、カラスバは慌てて言葉を飲み込んだ。これ以上はよくない気がした。そこまで口にしてしまえばもうそれは、彼女の憂いを取るためではなく、自分が救われるため、彼女との距離を詰めるための、ひどく狡い、ドロドロとしたものになる。
まだだ。二人が相容れないことを決して忘れてはいけない。まだ踏み越えるな。まだ溺れるな。まだ沈まずにやっていけ。まだ。
「あとワタシは別に、アナタのひけらかし癖のことなんて気にしない。ちっこい人だとも思ってない」
「いや、それは……あかんなあ。言わせてしもうた」
「言わせてくださいよこれくらい」
「うっとうしいないんか」
「全然! むしろどんどん来てくださいよ。アナタがすごいやろって言ってくれるものに、ワタシもすごいって言いたいし」
などというカラスバの葛藤など露知らず、彼女はストレートな言葉とともに真っ直ぐカラスバを見つめてくるので、結局はもうすっかり救われてしまうしかなかったのだけれど。
「でもまあ、ワタシも大概色々と持ってるみたいなので? 今後はアナタに配慮なんてせず、ひけらかしていきますからそのおつもりで!」
「っはは、ええで! 受けて立つ」
彼女は再度カップを手に取り、温くなったハッサムティーの残りを一気に飲み干した。ご馳走様でしたの言葉とともに立ち上がろうとしたので、それより先に彼女の手からカップを引き取る。お片付け任せていいんですか。当然やろ。ありがとうございます。気ぃつけや。もちろんです、行ってきます。
スルスルと流れる会話の果て、彼女はカラスバに背を向けてエレベーターへと歩き出そうとして……その足を不自然なところで止めてから「あの」と少し小さな声で切り出した。
「もし、アナタが辛くならないのなら」
「ん?」
「こういう話、またしてくれますか?」
カラスバの過去に隠れた諸々の問題は、彼女の指摘通り、もう大半が解決しているものである。そこのコンプレックスやら屈辱やら孤独やらに縛られて身動きが取れなくなるような、情けないボスはやっていないつもりだ。
今回こんなことを話したのだって、九割がた彼女のためだ。カラスバにとって過去の自分の開示は、情に脆い相手を懐柔するためのツールのひとつ。心を許した相手には今回のように、相手の罪悪感を引き取るための策としても使える優れもの。
だが……彼女にただ「話してほしい」と乞われて話すことには、それらとは全く違う意味が宿る気がした。うっかり踏み越えてしまいやしないか、とカラスバは僅かに恐れた。恐れた、のだが。
「アナタがどれくらい強い人か分かっておきたい」
「は……」
「アナタの話を聞けば聞くほど、アナタを倒したいなって思うんです。そうしてアナタを知り尽くした果て、いつかアナタの切り札に勝てたときのワタシの喜びは、きっと言葉にできないくらい素晴らしいものになる」
もう全然ブレていない彼女から、そんなギラついた言葉を贈られてしまえば、もう笑って受け入れるしかないわけで。
「ええで。オマエの最高の一瞬のために協力したる」
さよならのために差し出された手を、カラスバは強く握った。「まあそんな日が来るかどうか怪しいもんやけどな」の売り言葉に、彼女も「絶対その顔歪ませてみせますから」としっかりと、いつもの質の悪い買い言葉で応える。
握手をしていない方の彼女の手の中。あのノートが強く握られすぎて、緩く笑うように弧を描いていた。
2025.11.1