「ほな行こか。ホテルZまで送ったる」
「え!? どうして! そんな護衛みたいなことしてもらわ……あっ」
「いくらオヤブン個体がおるとはいえ、育ってないバケッチャ六体ではなぁ。勝負挑まれたら流石のトップランカー様もお手上げやろ」
「うわぁ……ごめんなさい。こんな形でアナタの手を煩わせるつもりじゃなかったのにな」
「気にせんでええ」
彼女はがっくりと肩を落としたものの、すぐ笑顔になって「じゃあ今夜だけお願いします」とカラスバの隣に並んだ。少し手を伸ばせば繋げてしまう距離ではあったが、当然ながら双方触れ合う意思のないまま、自然に合う歩幅で、同じ靴音で、静かになった夜の通りを歩いた。
「グリさんとグリーズさんがね」
「ん?」
「今日、すごく嬉しそうだったんです。本当に、何にも恐れてない顔で……ワタシまで嬉しくなっちゃった」
「みんなに受け入れてもらえて、ほっとしたんやないかな」
「そうだといいな。もう最後とかワタシ、感極まってちょっと危なかったんですよね。泣きそうだった」
あの眩しそうな笑顔は、込み上げてくるものを堪えていた表情だったのか。そう合点してカラスバはこの上なく安堵した。だがその安堵は、滅多に見ない表情があの場でまろび出たことに対する、己の動揺の証左にもなる。ああもう、今夜は情けないことばかりだ。カラスバに付けられる加点など、もう彼女の白羽取りを一発で成功させたこと以外にはないような気がする。
「大人になったって、居場所がないんは辛いもんやからな」
「オレも昔はそうやったで、ってヤツ?」
「そうそう、よう覚えとるやん」
カラスバの口調を真似る形で口にした彼女は、軽く伸びをしながら「よかった」と呟く。
「本当によかった。今のグリさんたちやアナタにちゃんと居場所があって」
グリやグリーズが向かうべき日向。カラスバが留まる日陰。それをひとまとめに「よかった」としてくれる彼女に、心から嬉しそうに笑ってくれる彼女に……カラスバは今一度、さらに心を許してしまいそうになるのだから、本当に今宵はもう、どうしようもない。
「ええんか?」
「えっ?」
「……」
「……ごめんなさい、とぼけているとかじゃなくて本当に分かんない。何の話ですか?」
「オレらサビ組はまだあっちには行かへんで。日陰の側でやるべきことが、こっちでしかできんことが、仰山あるさかい」
「ああ! そういうこと」
ぽん、と手を叩いた彼女の笑顔、その眉が少しだけ下がっているのは、自身の察しの悪さを恥じるものだろうか。察しの悪さといっても、カラスバが出した言葉が少なすぎることが原因で、彼女に非は全くないのだけれど。
「えっ、もしかしてこれ、サビ組の進路相談をしてくれてる?」
「サビ組の進路に関しては相談やない、報告や。この報告を踏まえてオマエはどうするねんってところが、相談」
「っふふ、別にどうもしない!」
彼女は小さく肩を揺らしながら、歌うような抑揚でサラリと告げる。通りを抜けて、角を曲がって、月明かりの照らす裏路地に入って。
「だってワタシ、アナタに多くは望んでない」
「……っ」
「楽しいバトル、お喋りの時間、お揃いの靴音、握手。ワタシが欲しいもの、もう全部アナタに貰ってる。それだけでもう、こんなに幸せ。それ以上はきっと今のワタシじゃ抱えきれない」
だから、と続けて彼女は足を止めた。同じ靴音が同じところで止まった。あと数歩進めばホテルZが見えてくるというギリギリのところ。彼女はカラスバの方を真っ直ぐに見て、柔らかく釘を刺す。
「アナタの中の……仮想のワタシに沿うように生きたりしなくていいんですよ、カラスバさん」
日向に立つ人物と一緒でなければ楽しく在れないのではと、そんなカラスバの想定を彼女は「仮想」と一刀両断した。それがカラスバを安心させるための方便ではないことは、先程の、カラスバにだけ向けられたあの咲き方がもうはっきりと証明している。
彼女の本気を疑うことなど、できるはずもない。
「まあそれとは別に、ミアレシティがいつか……サビ組のようなやり方を必要としなくなるような、もっと素敵な街になればいいなとは、もう、ずっと思ってるんですよ」
「!」
「もしかしたらワタシ、そういう未来のためにこの街を走ってるのかもしれない」
お互い、ミアレシティのために走っている。この街を良くするために駆けている。その方向性が同じであることを共に喜んだ。半ば戦友のような心地でさえいた。けれどもカラスバの方では「どこまで」というゴールや、明確なビジョンなどを設けてはいなかった。ただ、良くなればいいと。恩人である、かの人が願ったような美しい街に、少しでも近付けばいいと。
「汚れを落とす汚れ役のお仕事がなくなる日が、待ち遠しい」
「……セイカ」
「だからカラスバさん。せいぜいワタシに仕事を奪われる未来に怯えていてくださいね!」
「なっ!? お、オマエなぁ……!」
けれども彼女は違った。彼女には明確なビジョンと、目指すところがあった。そのビジョンは、カラスバの顔を歪ませることを好む彼女らしいもので。でもそれだってカラスバを……カラスバさえ救ってみせようとする、彼女の眩しすぎる覚悟の現れに違いなかった。
「早くそんな日が来ないかな。そうしたらワタシ、正義の味方よろしくサビ組に乗り込んで、ボスのアナタをボコボコにして解散に追い込むのに」
「いやもう情けない話やけどな、本気のオマエにそれされたら誰も敵わんて」
「そうでしょうとも! ね、そうしたらワタシ」
もう十分なのに、自分の内情をあまり開示しない彼女が語った心からの夢、その中にカラスバがいることが分かっただけでも十分すぎるほどなのに。
「やっとカラスバさんに好きって言えるね」
ぱっと今一度咲かせた彼女は、こんな言葉でカラスバの息を止めに来る。
「オマエ」
「はい」
「それまで待てるんか」
相容れない者同士がうっかり踏み越えてしまわないように、カラスバと彼女との間にいつの間にか生まれていた暗黙のルール。言葉を尽くすことは互いにしてきたけれど、決定的な一言だけはずっと避けたまま。手以外の接触もないまま、関係に名前も付けないままで、ここまで来たのだ。我が身可愛さのため、エムゼット団やサビ組に影響が及ばないようにするため、そして何より、ミアレシティのために。
二人が「何らか」になるわけにはいかなかった。まだそういうときではないと二人共が同じように心得ていたからだ。弁え合っていたからだ。
だが。
「もちろん!」
ああもうなんやねん。なんやねんこいつは!
たかだかその一言のために、下手をすれば貴重な青春時代、すべて棒に振るかもしれないのに。そんな些末な言葉さえ口にできないまま、人生の最も豊かであるべき時期が過ぎ去る可能性だってあるのに!
そんな絶望的な可能性すべて飲み込んで、彼女はいつか訪れるその日を夢見ている。その夢のために走り続けるのだと宣言している。
「ああでもカラスバさんにだって選ぶ権利ありますよね! そりゃそうですカラスバさん程の方なら引く手数多でしょうし、アナタの趣味に合う方を愛したいと思うのは当然のことで、そのあれこれにワタシが合致していない可能性だって十分に」
「ありえへん」
もう引けない。もう仮想の彼女に遠慮できない。もう彼女の本気を疑えない。彼女にそんな一言さえ飲み込ませる男のままで終わったりするものか。棒に振らせるかもしれない時間は、一生をかけて償ってみせる。
「オマエがうんざりするほど愛したる」
「えっ、ちょ、いやそれ駄目ですって」
「もうずっと、ずっと欲しかったんや。離すわけあらへん」
「ストップ! 待ってカラスバさ」
この花の未来のすべて、貰い受けてみせる。
「好きや」
一気に線を踏み越えたカラスバを、彼女は真っ赤な顔で見上げた。あまりにも濃く染め上げられた顔色の原因、おそらく七割は照れ。そして三割は、憤り。
「ねえっ……ねえ! ルール違反ですって!」
「すまんなぁ」
「ルールギリギリを攻めるのがサビ組でしょう! こんな堂々と踏み越えてくるなんて! サビ組の頭は筋も通せないんですかぁ!」
「いやそれ今言うんは反則やろ……」
カシラ、とかいう言葉が彼女の口から出てきたことに多少驚きつつ、こちらを責める彼女の言葉も尤もだ、と思い、どうしても語気が弱まってしまう。
けれども、彼女も彼女で長く怒り続けることは難しかったらしい。夜の涼しい風が何度か強めに彼女の頬を撫でて、そこである程度平静を取り戻していった。
「今の、宝物にします」
「宝物」
「そう、絶対忘れてなんかやらない」
顔の赤みがかなり引き、多少血色が良い、くらいに落ち着いたところで、彼女は再びぱっと咲かせてから、カラスバの方へと手を伸ばした。グータッチを基本とするミアレシティにおいて、もう一歩踏み込んだ触れ合い。ここが今の二人に許されたギリギリであり、彼女がこれ以上は抱えきれないとした、ただの握手。
お互いに祈り合うように強く握って、視線を合わせて、頷いて、離す。おやすみなさいと小さく呟いてから、彼女はホテルZへの道を、カラスバと揃いの靴で軽快に駆けた。
カラスバも追いかけるようにして数歩だけ進む。彼女の後ろ姿はちょうど、月明かりに照らされたホテルZの扉へと手を伸ばそうとしていた。
「おやすみ、セイカ」
かなり小さな声だったはずだが、それでも彼女は振り向いた。いや、元々そこで振り向くつもりだったのかもしれない。カラスバと目が合ったことを喜ぶように、ぱっと咲かせて、大声で宣誓する。
「アナタにだけルール違反をさせるのはフェアじゃないから!」
「えっ」
「ワタシも今夜だけ悪い人になりますね! いいですよね! 今日は……悪戯をする日だもの」
彼女は右手をこちらへすっと伸ばした。月光がその手の平を白く照らしていた。
「ワタシの方がアナタのこと、ずっと好き」
柔らかく、手の平を月光へ向ける形で伸ばされていたその手を、彼女は裏返して再度こちらへ伸ばした。カラスバを掴むように、ぎゅっと力強く握り締めた。
「待ってて、必ずアナタを貰いに行きます」
「っ……そらこっちの台詞やさかい、覚悟しとき」
ああもう、なんてひどい悪戯の応酬だろう! でももう仕方ない、仕方ないんだ。
弾けるように笑い合った二人、そのポケットにはお菓子ではなく、温かいクロワッサンが眠っているだけだったのだから。
2025/10/31