アスファルトを軽快に叩く靴音。覚えのありすぎるそれにカラスバはぐるりと勢いよく振り返り、一歩、二歩と来た道を戻った。曲がり角にひょいと顔を出せば、予想通りの人物と至近距離で視線がぶつかる。大きく見開かれた目にふっと笑いかければ「えっ!」という驚愕の声が彼女の小さな口から零れ出た。
「どうして分かったんですか!?」
「セイカの音がしたからなぁ」
「ねえそれワタシの台詞ですって! カラスバさん、いつの間に靴音ソムリエになったんですか」
「別にソムリエにはなってへんで。オレとおんなじ音が分かるんは当然のことやろ」
視線を下に落とせば、サイズだけが異なる、全く同じ見た目の靴が向かい合っている。彼女ほどの靴音の聞き分けに長けていないカラスバとて、聞き慣れた自身の靴音くらいはピンとくるものだ。それと同じ音が、しかもカラスバの方へ駆けてくるのだから……もう、その主は彼女をおいて他に在り得ない。
「ずっと履いとるんか」
こちらが恥ずかしくなるほどにカラスバからのプレゼントを喜びまくったあの日のアレが、演技や社交辞令の類であるとは思えなかったが、それでもこうして実際に履いている姿を見ると、多少ほっとさせられるのは致し方ないことだろう。
彼女の方でも、その姿をカラスバに見られたことに何らかの意味を得たらしく、右足の爪先をその場でトントンとさせてから「もちろん、ずっと一緒です」と告げて得意気に笑った。
「でもこんなにあっさり気付かれるなら、カラスバさんに奇襲は仕掛けられませんね。残念だな」
「奇襲の予定があったんかいな、初耳やでそれは」
「いや、まあまあ! 不意打ちなんて不要でしたね! ワタシたちは正面からでもアナタをボコボコにできるので」
「まあ……今のうちにでかい口叩いとき」
カラスバはおそらく、ミアレシティのトレーナーの中で最もこの少女とのバトル回数が多いトレーナーだ。それはつまり、最も彼女にボコボコにされた回数の多いトレーナー、ということでもある。非常に屈辱的なことではあるのだが、その屈辱が大口を開けて待ち構えていると分かっていてもなお、この生意気なトップランカーと戦いたいのだから仕方ない。彼女とのポケモンバトル以上のヒリつきを、雷に打たれるような高揚を、アホみたいな勢いで脳髄に沸き立つ「たのしい」を……ほかの誰とも得られやしないのだから、カラスバはもう、玉砕覚悟で食らいついていくしかない。
いい。構わない。何度ボコボコにされたって構いやしない。今はせいぜいそこで胡坐をかいていろ。その顔を歪ませられる日がいつか必ず来る。楽しみだ。本当に、楽しみでならない。
「それで? なんでオレを追いかけてきたんや。なんか用があったんやろ」
「あ、ごめんなさい何もないんです」
「えぇ?」
「アナタがいるなあ、と思って、足が動いていただけなので」
肩を竦め、くたっと眉を下げて笑った彼女の顔に嘘の色は見えない。本当にただカラスバを認めて追い掛けてきた、というだけなのだろう。さて何と言ったものか、とカラスバは言葉を詰まらせた。
自身の喋りに自信を欠いたことは滅多になかったのだが、この、ポケモンバトルだけでなく言動でも容赦なく……そしてポケモンバトルとは違い、言動の方では彼女にその自覚がないのがさらに質が悪い……こちらをボコボコにしてくる相手を前にすると、その滅多にないはずのことがやたら高頻度で起こってしまっていけない。
「その、もしかして冷やかしはお断りな感じですか?」
「そうやない。理由が意外すぎて声出し忘れただけや」
「ドン引きしてるじゃないですか!」
失敗した、と両手で顔を覆った彼女にはからかいを入れられるだけの隙が多分にあったが、ここで不躾に揶揄すると、今後彼女が街でカラスバを見かけても声を掛けなくなる可能性がある。同じ靴音を鳴らす者、しかも望んで同じになったはずの者同士が、近付くことも立ち止まることもなく、ただすれ違うだけ。そんな未来の想定が妙に腹立たしく思われたので、そんなことは決してあってはならないと思ってしまったので……カラスバは小さく笑いながら彼女の「失敗」を許し、そんな未来の可能性を潰しておくことにしたのだった。
「まあまあ、これに懲りずにまた声掛けてくれたらええ。今日みたいにオレの機嫌がよかったら、ええもん付いてくるかもしれんしなぁ」
「ええもん?」
「ミアレガレットでもええし、そこのカフェで好きなもん頼んでもええし」
「いいんですかそんなことして! 一度そうなったらワタシは味を占めて、街中でアナタを見かける度に、おやつ欲しさにすっ飛んでいくことになりますけど!?」
「オレの機嫌がよかったらって言うてるやろ。いつもなら要件ありません言われたら、はいほなさいなら、でしまいや」
「いやそりゃそうですよね! 調子に乗りましたごめんなさい!」
嘘を吐いたつもりのない言葉が嘘になってしまったことに、カラスバは内心で少々、狼狽えた。もちろん、そんなこと彼女の前ではおくびにも出さないが。
近付いてきておきながら、要件などないと口にする者に付き合うことなど、機嫌がよくなければ当然、在り得ない。
ただ、これはもう本当に情けない話ではあるのだが……そんなことが未だかつてあったか? この圧倒的強者の輝きを前にして、カラスバの機嫌が、よくならなかったことが。
「それで、今日はどっちがええんや。カフェでもガレットの屋台でも、付き合うたる」
カラスバの問いかけに、しかし彼女は押し黙ってしまった。スマホロトムを出して何かを確認してから、にっと笑って静かに首を振る。
「ワタシ、おやつよりもっと欲しいものがある」
「!」
「とっても機嫌がいいカラスバさん、ワタシと一緒に来てくれますか?」
このギラついた目で笑うときの彼女が、何を考えているかなんてもう手に取るように分かる。獲物を狩るときの目、相手をボコボコにすることしか考えていないときの目だ。
カラスバが小さく頷いて快諾を示せば、彼女は来た道を指差して、そちらへと歩き出した。カラスバも歩を進めて、隣に並ぶ。ミアレシティが夜になるまで、きっとあと数分もないのだろう。
「それ履いてワイルドゾーンでも上手いことやれてるんか?」
「意外にいい感じですよ! 草むらだとこの靴、あまり音を立てないので助かります」
「そらよかった」
カツカツ、カツカツと同じ音が足元から二つ、聞こえてくる。背丈が似ているためか、双方とくに意識せず歩いても、歩く速度に差が出ることはなかった。
「むしろ問題はZAロワイヤルですね。この靴音、アスファルトの上だとやっぱり目立つみたいで。忍び足の成功率がかなり下がっちゃって」
「っはは、それ結構なハンデになりそうやな。夜だけ履き替えたらどないや」
「えっ、そんなこと言わないでくださいよ! どこまでも追い掛け回してくれるんじゃなかったんですか?」
「いや、オマエがそれでええなら、まあ……オレからはとやかく言わへんで」
カラスバと彼女の歩き方の違いか、それとも履いた時間の差による靴底の劣化が関係しているのか。おそらくはどちらもだとは思うが……二人同時に歩くと、その靴音にはやはり若干の違いがあることが分かった。「アナタの音がする」とあの日の彼女は喜んだが、カラスバよりずっと耳が良い彼女が、この違いに気付いていないはずがない。それでも彼女は、自らの靴音にカラスバの面影を重ね続けることを選んだようだった。
「っふふ、じゃあアナタの許可も得られたことだし、これからも」
ふわっと笑った彼女は立ち止まって、軽く俯いて、コンコンと紫の靴の踵を鳴らして。
「ずっと一緒にいましょうね」
などと、カラスバに向けては口が裂けても言わなさそうなことを、さも当然のように告げるのだ。
こちらを見ることなく、再び歩き始めた彼女に、カラスバは音もなく溜め息を吐きながら再度歩みを揃える。歩きながら、カラスバは彼女の足元を睨み付けた。自分が贈っておいて何だが……おい靴、オマエちょっと狡すぎんか。
「でもやっぱり、同じものを履いても完全に同じにはなりませんね、靴音」
「そら体重も歩き方も靴の擦り減りも違うからなあ」
「だからやっぱりワタシが鳴らす音だけじゃ足りないや。本当に元気になりたいときは、アナタに会いに行かなきゃダメみたい」
「贅沢なやっちゃなオマエは」
「えっ……ああ! もちろん来てほしくないときには断ってもらえたら! ワタシには良識がちゃんとあるので、聞き分けよく」
「オレには良識がないみたいな言い方するなや」
カラスバの良識の無さを仄めかす発言だって、彼女の遠慮と僅かな不安の表れであることが分かってしまう。分かってしまうからもう、カラスバは、彼女の不安を拭いとる言葉を惜しめない。
「来てほしくないときなんかあらへんよ。いつでもおいで」
「わぁ」
「わぁてなんやねん」
「ごめんなさい嬉しすぎて言葉なくなっちゃった」
カツカツ、カツカツ。
彼女が「微妙に違う」と口にしたその差異がなんとなくカラスバにも分かる。刻み込むような音と、跳ねるような音。採譜するならきっとアクセントとスタッカート。そんな二つの音は、路地裏へと向かう通りの曲がり角でぴたりと止む。少女が路地の側に、カラスバが通りの側に立つ。もしここに今夜のバトルゾーンが現れたなら、きっと赤い幕で二人が綺麗に分かたれる、そんな位置だ。
「もし、赤い幕がここに上がれば、ワタシとアナタは最高に楽しいバトルをする」
「上がらんかったら?」
「さっきの通りに戻って、最高に美味しいおやつを一緒に食べに行く!」
「ええで、乗ったる!」
日が沈む。夜が来る。果たして彼女が望んだとおりに、赤いホロゲートが瞬時に現れ、少女とカラスバを眩しく隔てる。赤い幕越しに見える彼女の笑顔は、もうどうしようもない程にギラついている。やった、と大きく書いてあるその顔がとにかく愉快で仕方ない。
そして彼女はホロゲートの赤い壁に触れるギリギリのところまで手を差し出して、自らの「獲物」を、呼ぶ。
「カラスバさん、こっち」
脚の曲げ方や手の出し方は、まるでダンスに誘うが如き優雅なそれだ。だが緩く上がった口元は子供が遊びに誘うような無邪気なそれだし、こちらを見る目はもう焼き焦がされそうなくらいに熱くギラついている。
ほんまにおもろいな、と息だけで笑ってカラスバは一歩を踏み出し、自らの手をそこへ添える。祈るようにそっと握り締めれば、手をゆっくりと引っ張る彼女によって、バトルゾーンの内側へと招かれてしまった。
手を離し、どちらからともなく駆け出して、気兼ねなくポケモンを出せる場所を目指す。同じ靴がアスファルトを軽快に蹴る。
夜を跳ねる音が、ぴたりと重なる。
「さあ! ボコボコにしておいで!」
そんな宣誓と共に、彼女の投げたボールから飛び出してきたのは、カラスバが恐る恐る予想してしまっていたポケモンだ。すらりとしたピンクの体躯に、こちらを射る紫の瞳。靴音ソムリエを自称したあの時にはまだ小さなイーブイだったのに、揃いの靴を履かせたときだってエーフィに進化したばかりであったはずなのに。もうカラスバのポケモンを相手にしても差し支えないところまで育ったというのか、こいつは。
「っ……!」
ああもう楽しい。楽しい! もうここまで楽しい!
これ以上などないようにさえ感じるのに、ここが二人の間に作れる至高ではと思えてしまうのに。なのにこいつとのポケモンバトルは、まだ始まってさえいないのだ!
「オマエがその気なら、こっちも出し惜しみせんで! とっておき出したるわ!」
カラスバをイーブイに紹介するとき、彼女は言った。「いずれアナタはとっても強くなって、この人の切り札をボコボコにするんだよ」と。その「いずれ」が今であるなら、カラスバが繰り出すべきはもう決まっている。
何より、切り札が出てくることを確信している彼女の、宝石のような笑顔を、裏切ることなどカラスバにできるはずもなかった。
アスファルトを蹴って飛び跳ねて、投げたボールが宵闇に溶けて、開いて。
「目ぇ逸らすなよ、セイカ!」
胸元のキーストーンをサビ組のバッジごと引っ掴む。夜の空気を吸って冷たくなった虹色が、メガストーンとのリンクを受けてにわかに熱を持ち始める。眩い光が弾けた後の、バトルゾーンに堂々と君臨したメガペンドラーを、小さな体躯のエーフィは、全く臆さず見上げている。彼女にそっくりな、ギラついた目で。
最高のバトルの幕開けを告げるように、彼女は揃いの靴をカツンと高らかに鳴らした。カラスバも応えるように脚を広げ、左足で一度だけ鳴らす。彼女が指示のために息を吸い込むときの、歓喜と興奮に震える音が、ここまで聞こえた気がした。
楽しくなる。絶対に楽しくなる。忘れられない彼女たちとの一瞬が今宵、また増える。
2025.10.28
靴音ソムリエ三部作 了