靴音ソムリエ

 お越しになったようです、というジプソの言葉に、カラスバは手元の資料をデスクに仕舞い、顔を上げる。エレベータが開ききるのを待ちきれないというように、肩を捻るようにしてスッと事務所に滑り込んだその少女は、左手を小さく上げたカラスバを見るなりぱっと笑顔になり、軽快に駆け寄ってきた。

「お待たせしました! ポケモンバトルのご注文ですね? ボコボコにして差し上げます!」
「待たんかい」

 昨日もどうせ二時間くらいしか眠っていないはずなのに、その元気はどこから湧いてくるんだとカラスバはもう不思議で仕方ない。「アナタがバトルに誘ってくれているのに眠くなんてなるわけないでしょう!」というのが一応の彼女の言い分なのだが、変に興奮させてしまっているのなら考えものだ、とも思う。
 連日、睡眠時間を限界まで削り、昼も夜もミアレシティのために走り回っているこの少女を、いたずらに消耗させたくはない。ただカラスバがこうして呼び出さなければ、彼女は休みなく次々と任務を抱え続けるばかりで、そちらの方が精神の摩耗は明らかに大きいだろうということは容易に察しが付いた。
 気晴らしの時間を、彼女は自分からは決して作らない。「仕事」や「注文」のていでカラスバから連絡を取り、強引に仕事を中断させなければ、休息さえ満足に得られない。そんな彼女の在り方は、いじらしさとか健気とかを通り越して痛々しくさえある。それでいて当の本人は責任感とか重圧とかに悩まされているわけではなく、ただ休むタイミングだけが分からないまま夢中で楽しく走りまくっているだけ、というのが、さらに話をややこしくしていたりもして。

「あれ、バトルじゃなかった? 早とちりでしたか……一応、みんなの調整は済ませてきたんですけど」
「まあそれもええよ。ただその前にちょっと付き合うてほしいことがあってな」

 オレがおらなあかんなあ、という些か傲慢な言葉への実感は、もう少し平和な、浮ついたシチュエーションで得たかったものだ。どんなに寝不足であっても、疲れていても、落ち込んでいても、いつもニコニコとしている彼女。そんな人の、文字通りの生命線として「オレがおらなあかん」の状態になるとは、さしものカラスバも想定していなかった。
 無論、その生命線になったことについての後悔は全くしていないが。

「おいで」

 ソファの方へと歩を進めながら声を掛ける。はい、と柔らかい返事で後ろを付いてくる彼女からは、警戒心の欠片も感じない。サビ組の本丸でその気の抜き方はあかんやろ、という気持ちと、オマエの方でもここまで心許してるんなら嬉しい話やな、という気持ち。涼しいものと温かいものが混ぜこぜになってカラスバの喉元をつつく。彼女が来ると、いつもくすぐったくて仕方ない。
 カラスバが手で示したソファに、失礼しますと礼儀正しく口にしてから彼女はストンと座った。だが次の瞬間、ハッと息を飲んで、あからさまに自らの失態を悔いる様子を見せる。

「ああしまった、座っちゃった! はい、と言うまで立ち上がれへんという曰くつきのソファに!」
「っはは、迂闊やったなぁセイカ。その通りや。はいと言うまで帰さへんから、そのおつもりで」
「もうあかんおしまいや!」

 カラスバと出会ってからの彼女の言葉は、たまにこうして訛るようになった。もちろんカラスバの口調を気取っていることは間違いないだろうが、彼女から出力されるそれのイントネーションに何の違和感もないあたり、彼女の出身はジョウト地方とかそこら辺だったりするのでは……とカラスバは考えることがある。もちろん、無暗に詮索するつもりはないが。
 うわぁ、という情けない悲鳴を上げながら大袈裟に頭を抱えた彼女の、その足元。カラスバの靴音を品評したあの日のスニーカーのままであることを確認してから、口を開いた。

「靴音ソムリエさん。オレの靴は見つかってへんようやな」
「あっ、そうなんですよ! お恥ずかしながら、靴も石も買いに行けないまま、何日も過ぎてしまって」

 彼女はカラスバの靴はおろか、自らのイーブイを進化させるための進化石も調達できないまま、ここ数日を過ごしていたらしい。まあそれは予想通りだ、と苦笑しながら、カラスバはソファの影に隠していた、ブランドロゴ入りの紙袋を掲げる。

「今日のお仕事はまあ簡単なもんや。これを受け取ってくれればええだけ」

 彼女の目がゆっくりと見開かれた。零れ落ちるのではと危惧したくなるほどの、大きな丸い目。ポケモンバトルのときにはこちらをボコボコにしてやるとばかりにギラついた輝きを見せるその瞳だが、今はただ純然たる驚きに飲まれ、年相応の幼い色を見せるばかりだ。

「えっ……」

 もっと大声で叫んで騒ぎ立てると思っていただけに、彼女がたった一音を小さく零して沈黙したことは、カラスバを少々驚かせていた。ただまあそれはカラスバの行動にドン引きしているとか、断るための言葉を探しているとか、そういうことではなかったらしい。寝不足を極めた青白い頬の血色が、ぽっと音を立てるかのような勢いで一気に良くなったから。見開かれた目に、激闘を求める炎のようなギラつきではなく、ただ純粋な歓喜の煌めきが宿っていたから。

「いいんですか、ほんとに、貰って」
「もちろんや。二色用意したから、両方持って帰って好きな方を履いたらええ」
「二色!?」

 健気な声音から一転していつもの勢いを取り戻した彼女は、紙袋の中を覗き込んで「ほんとだ箱が二つある……!」と震える声で半ば叫ぶように告げた。

「ほんとにいいんですか?」
「そう言うとる」
「でも、でもこれお高いんでしょう!?」
「こんな靴音でオマエが元気になるなら安いもんやで」

 以前の靴音ソムリエを自称したときの彼女の言葉、あれをなぞるように告げれば彼女は益々赤くなる。「元気になれる」「いつでも心を折らずにいられる」などと笑顔で放った先日の言葉。あれが彼女の調子の良い世辞ではないこと、寝不足の彼女が思わず零した本心であることに、カラスバは賭けた。それなりに分の良い賭けであるという自負があった。これでも彼女よりは長く生きている人間だ、自分に向けられる言葉の真偽および温度感くらいは正しく把握しているつもりである。

「ほんとに、いつでも聞いていいんですか、アナタの音……」

 そんな彼女が呟くように発した小さな言葉、それがカラスバの、ささやかな賭けの成功を知らせた。心臓を震わせる安堵と歓喜を表にはおくびにも出さず、カラスバは涼しく、にっと笑う。

「プレゼントやから代金は要らんで。受け取ってくれるな?」
「うわー! はいって言わなきゃ立ち上がれないヤツだ!」
「そうそう、よう分かってるやん」

 その時、ふふっと背後で笑う気配がした。二人してぐいっと勢いよく振り向けば、ジプソが口元を抑えつつ目を細めてこちらを見ていた。余計なこと言うなや、と念を押すように睨みつければ、もちろんですというようにジプソは大きく頷いた。

「わたくしは少し外へ出てまいります。セイカさま、ごゆっくり」
「えっ、はい! ジプソさん、お気を付けて!」

 彼女の声に応えるようにジプソは再度大きく頷いてから、くるりと二人に背を向けてエレベータに乗り込んでいく。一体外に何の用があるというのか……などという詮索は、まあやめておこう。
 別にいてくれたってカラスバとしては何の問題もないのだが、ジプソは最近とくに、彼女の訪問時、頃合いを見て席を外したがる。ジプソが彼女と共にいるカラスバの姿に何かを見出していることにはもちろん気付いている。だが生憎こちらとしては、それに応えてやるつもりなどなかった。
 第一、応えようと思ったってどだい無理な話だ。立場上決して相容れないところにいるこの二人の間に、一体何が生まれるというのか。

「で、靴やけど……こっちは白、こっちはオレの紫」
「うわ、すっごい綺麗! でもこれ、えっ……本当に履くんですか!? ワタシが?」
「オレの足には合わへんから、まあオマエが履くことになるやろなあ」

 背丈こそほぼ変わらないが、そこは性別の差によるものだろう、カラスバと彼女の靴のサイズには差があった。そのため彼女が受け取りを拒んでも、カラスバはこれを自身の予備として取っておくことはできない。オマエが受け取らんかったらどこかに寄付することになる、ということを仄めかせば、彼女は意を決したように頷いた。

「頂きます。大事にします! ありがとうございます、カラスバさん」
「どういたしまして。ほら、もうオマエのモンなんやから好きにしてええんやで?」

 カラスバは紙袋から靴箱を二つ取り出して、テーブルの上に並べ、それぞれの蓋を開けた。二つの箱の中身を彼女は「わぁ」とか「すごい」とかいう声とともにまじまじと見つめる。まだこの靴たちが自分のもの、という実感が湧いていないのだろう、顔を寄せこそするものの決して触れようとはしない。
 先程から右手が靴の上にそっと伸びては、すぐに引っ込められている。そうした仕草を延々と繰り返しながら感嘆の息ばかりが増えていく。そんな彼女にカラスバは苦笑しつつ、紫の方の靴を取り出した。

「緊張で触れもせえへんみたいやから、今日だけオレが履かしたる」
「履かしたる!? 待って待ってそれは流石に」
「オマエがもたもたしとるからやで。……試し履きはこっちでええか? それとも白?」
「わ、え、あぁ……そっち! そっちでお願いします」
「よし」

 スニーカーをそっと脱いだ彼女を横目に、カラスバは紫の靴の中に手を入れて、型崩れ防止のための薄葉紙をぽいぽいと二つずつ取り出した。膝を折って跪けば、ソファに座ったままの彼女を自然と見上げる形になる。彼女を見上げることに屈辱を感じるような稚拙な精神を、今のカラスバは流石にもう持ち合わせていない。むしろこちらを見下ろす彼女が青ざめていることに、多少の愉悦を覚えたくなってしまう。

「なんて顔しとるねん」
「いやだって人様を跪かせたり、ましてや足を差し出したりなんてしたことないから! もうほんと、これきりにしてくださ……っ、あ!」
「おっ」

 彼女の混乱と動揺を汲んだかのように、そのポケットから一体の用心棒がポンと飛び出してきた。先日よりもその体躯は大きくなり、色も形もタイプも変わっている。薄いピンク色の体に紫の目を持つポケモン、エーフィだ。

「あぁ! 進化したんか。おめでとさん!」
「そうなんですよ! もっと頼もしくなっちゃった。アナタとのバトルに出せる日は、もうちょっと先になりそうですけどね」

 あの日「アナタのペンドラーに強気に出せるタイプの子になってほしい」と笑った彼女は、赤い進化石の購入を検討していた。しかしこれもカラスバの予想通り、彼女が道具を調達するより先に、イーブイは彼女をこれ以上ない程に慕ってしまったらしい。ニンフィアに進化しなかったところを見ると、彼女はこのイーブイにフェアリータイプの技は覚えさせていなかったようである。
 しかしよりにもよってエスパータイプか、と思わないでもなかったが……まあ構わない。いつか負かす相手は強ければ強いほどいい。

「……っはは」

 さてそんなエーフィは、彼女とカラスバの間に割って入り、こちらを真っ直ぐに見上げてきた。イーブイの頃にも見せていた、彼女譲りのギラついた目、そこにものすごい圧を感じてカラスバは苦笑する。
 彼女が文字通り、体を張って自らの手持ちを守る姿勢を常に見ているからだろう……彼女のポケモンたちの「気」は本当に、カラスバでさえ怯みかけるほどのものがある。彼女に自分たちを守らせてばかりにするものかという気概、彼女には傷ひとつ付けさせやしないとする気概が、彼等の全身から溢れているのだ。

「えらいなぁ。ご主人を守ろうとしとるんやな」
「え、守る!? なんでこのタイミングで」
「そらオマエが動揺したからやろ」
「あぁ、怖がってると思っちゃったのかな」

 彼女は嬉しそうにふわっと笑いながらエーフィの頭を撫でた。紫の大きな瞳に宿る圧がふっと消え、にわかに愛嬌のある表情になって彼女を見上げる。

「っふふ、エーフィおいで? そんなに気を張らなくて大丈夫」
「……」
「この人は大丈夫」

 サビ組のボスをして「大丈夫」とは、随分と舐められたものだと思う。まあ実際、大丈夫ではないことなどするつもりはないので、彼女の驕りは驕りにもなっていないのだけれど。

「怖がってないよ、ちっとも怖くない。これはドキドキしてるだけ」

 パン、とカラスバの脳内で何かが弾ける感覚があった。何か、の言語化などもう恐ろしくてできたものではないが、とにかく何かが、弾けてしまった。なんてことを、と憤りたくなる気持ちをぐっと堪え、カラスバは細く長く、溜め息を吐く。

「オマエなぁ……」
「あっ」
「いやなんでもあらへん。ほら、足ちょっと浮かしてや」

 もう仕方ない、これは仕方ない。先に心を許してしまった方の負けだ。心の中で潔く白旗を上げつつ、カラスバは彼女が浮かせた方、その足首にそっと手を添えつつ右足の靴を履かせた。爪先部分を軽く押し、適切なゆとりがあることを確認してから手を離す。一度やってしまえば反対側はもう楽なもので、靴を構えながら彼女を見上げる余裕さえあった。

「なんや、まだドキドキしとるんか」
「やめてください指摘しないで! ワタシも失言だと思って反省していたところだったんですから!」
「っはは、まあええよ。たまにはオレもボーナスもろとこ」
「ボーナスもろとこ!?」
「お互いどうにもならへん身なんやから、こういうところでくらい喜ばせてやってこと」

 先程、祈るように二人を見てから事務所を出て行ったジプソを思った。
 彼が二者の間に見出そうとしているものをカラスバはきっと生み出せない。彼女がこの街に来る前とそう変わらず、ルールギリギリを走り続けているサビ組と、今や正義の味方として広く知られるエムゼット団。立場上決して相容れないところにいるこの二人、互いに浸食し合うことの許されない二人の間に、何かが生まれることなど在り得ない。
 在り得ない、はずなのだが。

「ワタシがドキドキするとカラスバさん、喜んでくれるんですか」
「そら何とも思われてへんよりはずっと嬉しいなあ」
「……じゃあドキドキしておきます。もう心臓爆発させるくらいの勢いでやっておきます」
「なんでオマエいっつもそんな極端やねん」

 顔を赤くしてとろけるように笑う彼女を見ていると、カラスバの方でも、そこに「何か」を見出しそうになってしまう。今この瞬間こそが至高だと、そんなつまらないことを考えてしまいそうになる。
 まったくもってよくない話だ。危険な話だ。二人して毒に飲まれるようなことなどあってはならない。カラスバと彼女は、同じ方向……ミアレシティをよくする方向に向けて走っていなければならないのだ。相容れない場所から共に駆ける、戦友でなければならないのだ。何かが生じるタイミングがあったとして、それは少なくとも今ではない。
 まだ早い。早すぎる。共に沈むには、まだ。

「はい、おしまい」

 長らく自分の色であったはずのそれが、彼女の足元にも全く同じ形で在る。相当に面映ゆいな、と軽く眉を顰めたカラスバの前、彼女がぱっと立ち上がった。新しい靴の履き心地を確かめるように、ゆっくりと歩き始める。わあ、とほぼ息だけの形で零れ出た歓喜に引きずられるようにして、またしても嬉しくなってしまうのはもう仕方のないことだろう。

「歩きやすい! サイズもぴったりで、快適です。脱げなくなっちゃいそう」
「そらよかったな。新品やから靴擦れだけ気ぃつけや」
「はい! ありがとうございます!」

 見て、とエーフィに靴を示して彼女はにっこりと笑う。ワイドパンツの膝部分を掴んで引き上げるその仕草は、ドレスをたくし上げている様子にも見える。普段は気取らない様子でこちらをボコボコにすることしか考えていないような物騒さであるのに、こういうちょっとしたところで出てくる仕草は芯から女性のもので、繊細と優雅を極めていて……直視してしまうとカラスバは少しだけ、落ち着かない。
 エーフィへの自慢を終え、彼女は事務所内を歩き回った。歩幅を大きくしたり、スキップしたり、軽く走ってみたり。履き心地だけでなく、きっと音も確かめているのだろう。そう分かってしまったから、カラスバは横やりを挟むことなくソファに腰掛け、あちこちを歩く彼女をただ眺めることにした。
 妖精のようにあちこち跳ね回る彼女の、足を彩る毒の色。見慣れたはずの紫がなんだか妙に明るく眩しい気がする。きっと新しく下ろした品だからだろう、とカラスバは敢えてとぼけてみせた。だって今は、今はまだ、これだけで十分すぎやしないか。そうだろう。

「どうしよう、ずっとアナタの音がする!」
「せやろ。どこまでも追い掛け回したる」
「あはは! 嬉しいなあ。本当にずっと一緒にいてくれるなんて」

 怖い、ではなく嬉しい、という言葉でカラスバの冗談さえ味わい尽くした彼女は、ソファのところへ戻ってきて、隣にぽすんと体を沈めた。同じ靴がテーブルの下に覗く光景は、まあ……悪くないものだ。
 加えて、こちらがくすぐったくなる程の大仰な言葉で喜んでくれるのだから、用意した甲斐があったというものである。

「白い方は、お洒落なところに呼ばれた時用に取っておきますね」
「そらええわ。是非使うたってや。オマエみたいな正義の味方には今後、そういうお披露目の機会も増えるやろうし」
「ちょっと緊張する場でも、こんなのあったらワタシもう無敵ですね! きっと何だってできる」
「そんなにかいな」
「そんなになんですよ。だって誰にも譲らなくていいアナタが今日、手に入った」

 パン、と本日二回目の音が聞こえた。何らかの弾ける音。それはもう致命的な何らかの音。オマエよくもまあそんなことを、とまたしても憤りたくなったが、カラスバの喉はなんかもうあらゆる理由で干上がってしまっていて、どんな怒声も紡げそうにない。

「ね、そうでしょうカラスバさん」
「オマエなぁ……!」
「どんなにワタシたちが相容れなくても、この先ずっと許されなくても、この音だけは、絶対、絶対!」

 歌うように告げられたそれは彼女の勝利宣言だ。それなりに値の張る靴をプレゼントして、彼女の驚く顔を見て、ドキドキしたかと軽くからかって……それで勝ったと思い込み、満足してしまったカラスバより、相手が一枚上手だったということ。

「ワタシだけのもの」

 こちらを焼き焦がすように眩しく笑った彼女は、今日もカラスバを、いつものポケモンバトルと何ら変わりなくボコボコにしてしまった。ああもうなんてことだ、やられた!

2025.10.27

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