靴音ソムリエ

 ミアレシティでポケモンバトルに勤しむ連中は揃いも揃って睡眠不足である。夜間に開催されるZAロワイヤルでしのぎを削るため、昼夜逆転の生活を続ける者も少なくない。ただ昼間とて彼等にも仕事や学業など、一般的な生活というものがあるわけで。そこを守りつつZAロワイヤルでランクを上げるためにはもう寝る時間を削ってしまうしかないのだ。
 総じて睡眠不足、総じて不健康。目の前の功績にばかり囚われて自己管理を怠りがちな若者がよく陥る罠である。そういうあからさまな愚行であればカラスバとて、強制的な行動が取れたのだが。

「どこで寝てんねんオマエ……」

 スキマ時間を無駄にせず、仮眠を取って少しでも体力を回復させておこうという、その心意気自体は悪くない。だが場所が悪すぎる。もう日が傾きつつある夕方の、日陰のベンチに、帽子やパーカーの類で顔を隠すことさえせず、ポケモンさえ出さず、首をコテンと傾けたまま眠ってしまっているのだ。この、ZAロワイヤルが誇るトップランカーは。
 無理をしていることへの説教はさておき、女性がベンチで眠るという無防備極まりない状況への指摘くらいは流石にしておくべきだろう。そう考えたカラスバはベンチで堂々と眠る少女に近付きかけて……しかしその足を、ぴたっと止めた。折角仮眠を取れているこの状況、今は彼女を起こさず、このまま寝かせてやるべきだと思い直したためである。
 おそらく長時間眠るつもりでベンチに座ったわけではないはず。そろそろ起きるのでは、という推測の元、彼女が目覚めたタイミングで現行犯逮捕ならぬ現行犯注意をしてやろうと考えたカラスバは、彼女が眠るベンチのひとつ隣に座るため、再び歩を進めた。
 が、しかし。

「カラスバさん!」
「うおっ! っ、え?」

 眠っていたはずの彼女ががばっと顔を上げ、ぐるりと首を捻らせてこちらを見たのだ。いきなり大声で名前を呼ばれることを想定しておらず、その衝撃にカラスバは本来の目的……ベンチで無防備に寝るなという指摘を忘れ、暫し唖然としてしまった。

「あぁやっぱりカラスバさんだった。こんにちは!」
「オマエ起きてはったんか?」
「いいえ、しっかり寝て……いやしっかりは寝れてなかったか。まあウトウトくらいはしていましたよ」

 眠そうな顔を隠すこともなく、大きく伸びをしながら彼女は告げる。流石に欠伸をするときはカラスバから顔を背けて片手で口を隠していた。ただ、ウトウト程度の仮眠で彼女の寝不足や疲労が解消されたわけではないことは、その様子や、目元に深く刻まれた隈を見れば明らかだ。それでも普段より多少元気そうに見えるのは、眩しい夕日が彼女の顔に化粧を施しているからだろう。

「でもアナタの音がしたから」
「オレの音?」
「靴の音です」

 カラスバは思わず自らの足元を見遣った。この靴はオーダーメイドの品ではなく普通の市販品ではあるが、値はそこそこ張るものだ。確かにミアレシティでこれと同じ音を聞くことはあまりないだろう……とは思うのだが、靴音の判別などそう簡単にできるものなのか?

「ワタシ、靴音ソムリエでして」
「靴音ソムリエ」
「誰の靴音かはもちろん、歩き方で体調や気分が分かるんです」
「っふ、ほんまかいな」
「ほんとですって! さっきのアナタが、ワタシを起こそうかな、どうしようかなって迷っていたことも分かってます」

 見事に言い当てられてしまったのだが、素直に感心してやる気分にはなれなかったので。

「まあ、適当に言うとったら当たることも一度や二度はあるやろなあ」

 などと、彼女のソムリエとしての才を肯定せず、その推測が当たっていることだけを伝えられる表現をカラスバは選んだ。
 嬉しそうに笑いつつ、彼女はベンチから立ち上がって再度大きく伸びをした。真ん中分けにされた栗色の髪を、夕方の涼しい風がそよそよと揺らした。

「起こしちゃ悪いかなって思ってくれたんでしょう? 気を遣わせてしまってすみません」
「いやそれはええよ。ええけどベンチで無防備に寝るんはおすすめせえへんなあ」

 注意しよう、と意気込んで彼女に近付いたものの、こうした彼女の行動について強く咎めることは、カラスバには難しい。寝不足を咎めることは、もっと難しい。
 目の前の功績……要するにポイントと賞金メダルにばかり囚われて自己管理を怠ったという、あからさまな愚行であれば説教も容易い。だが彼女においてはそうではないから話がややこしいのだ。
 昼に夜にとミアレシティを走り回っているのも、ベンチでの仮眠で睡眠時間を細切れに稼ぎながらなんとか倒れないギリギリのところでやっているのも、すべて「ミアレシティのため」である。それが分かっているから、カラスバは強く出ることができない。ルールギリギリのところを走るカラスバ、ひいてはサビ組が彼女に見逃されているのも、同じ理由であることを心得ているからだ。

「ベンチでウトウトするのはギリギリアウトですか?」
「アウトやな。もうちょっと気ぃ付けた方がええで」
「ギリギリのプロがそう言うなら従うべきですね。分かりました!」

 お互いに、違うところでギリギリを走っている。倒れないように、捕まらないように、互いに危なっかしい橋を渡っている。全く違うところに在る二人であるはずなのに、もう半ば戦友のような心地でいる。相容れない、遠いところで生きる相手であるはずなのに、ずっと一緒に走っているような錯覚を抱いてしまいそうになる。

「ベンチを使うなとは言わんけど、せめてポケモンを出しとくべきやな。いつもオマエ、体張ってポケモンのこと守っとるんやから、こんな時くらい守られとったらええ」

 体を張って、とは文字通りの意味だ。ワイルドゾーンで凶暴な野生ポケモンに遭遇したとき、彼女は迷わず自身のポケモンを仕舞って自分の足で逃げ回る。自分のポケモンに、逃げる時間を稼いでもらおうとは微塵も考えていないのだ。
 もちろんポケモンを敢えて出さない立ち回りがワイルドゾーンで求められることは往々にしてある。ポケモンを庇うようにしなければならないことだってあるだろう。そこを否定するつもりはないが、彼女のそれはやや度を越しているような気がした。
 そんな彼女を苦く思っているのはカラスバだけではなかったようで、彼女のポケットの中でボールが大きく揺れ、中からポケモンが飛び出してきた。

「わっ、イーブイどうしたの」

 彼女は自らの手持ちを、相棒であるメガニウムを除き頻繁に入れ替えているが、そのメンバーの中にイーブイの姿はこれまで見たことがなかった。おそらくは新入りだろう。小さな前足を彼女の靴の上に乗せ、真っ直ぐに彼女を見上げるその姿勢からは、自分が仮眠中の用心棒になってやるからという気概が十分に感じ取れた。

「その子、オマエのこと守ったるって言いたいんとちゃうかな」
「え、ほんとに!? うわぁ嬉しいな、頼もしすぎる!」

 彼女はぱっと顔に花を咲かせたまま、イーブイを抱き上げてぎゅっと抱き締めた。同じく嬉しそうに鳴いたイーブイは、けれどもカラスバの存在に気付くとこちらをじっと見つめてくる。見定めるような、狙うような、縋るような、不思議な黒い目だ。

「イーブイは初めましてだよね。この人はカラスバさん。いずれアナタはとっても強くなって、この人の切り札をボコボコにするんだよ」
「オマエもうちょい紹介の仕方……まぁええわ。どうも、よろしく頼んますわ」

 カラスバが差し出した拳に、イーブイは何のためらいもなく右の前足を置いた。まだ小さく、ワイルドエリアに繰り出すことさえ躊躇しそうな、か弱いポケモン。だがこちらを真っ直ぐに見つめてくる目には、彼女譲りのギラついた輝きが既に宿っている。この子もまたすぐに成長して……カラスバのポケモンたちにとっての脅威となるのだろう。もちろん、簡単にボコボコにされてやるつもりはないが。

「アナタのペンドラーに強気に繰り出せる子になってほしいんですよね。進化先はやっぱりブースターかなあ」
「待て待て、炎タイプならオマエんとこには既にリザードンがおるやろ! 過剰戦力やないんかそれは」
「なんとでも! 強敵を倒すための炎タイプはいくらいたっていいですからね」

 今度「いしや」に行こうねと、至極楽しそうな笑顔でイーブイに話しかけている。その様子からして、今の彼女の手持ちには、イーブイをブースターにするための赤い進化石はないらしい。しかし多忙を極めた彼女が自分の買い物のための時間をそうおいそれと作れるはずもない。なんとなくだが、彼女が石を入手するより先に、このイーブイは進化してしまうような気がした。
 石を使用しない場合の、イーブイの進化先は三通り。毒に対して二倍か、等倍か、半減か。どうなるのか楽しみだ。

「そうそう、靴音ソムリエとして言わせてもらいますが」
「まだその設定あったんか」
「カラスバさんの靴音めっちゃいいですよね! 極上です! 目が覚めて、とっても元気になれる」
「へえ、これが?」

 コンコン、とアスファルトを叩くようにすれば、彼女は「そうそう!」と顔を綻ばせて大きく何度も頷いた。

「いいな、ワタシもその靴買おうかなあ」
「オマエが? 買ってどうするねん」
「そりゃあ履くんですよ。だってそうすれば、アナタの靴音をいつでもどこでも聞けるでしょ? きっとワタシ、ずっと心を折らずにいられますよ!」

 この少女でも心が折れそうになるときがあるのか、という一つ目の驚愕。カラスバの靴音が彼女にとってそこまで大きな意味を持つようになっていたのかという、二つ目の驚愕。二つの「ふいうち」にカラスバが返答できずにいると、彼女は笑いながら「冗談です」と付け足した。

「お揃いの靴を履いているのがバレたら、カラスバさんが困っちゃうでしょうし」
「いや? それは気にせえへんで。靴が被ることくらいあるやろ。これは普通の市販品やしな」
「えっ、ミアレシティに売ってるの? どこのお店ですか!?」
「それは言えへんなあ」
「くっ……いや探します! 探してみせますとも!」

 そうは言うが「いしや」に行く時間さえ捻出しかねているように見える彼女に、靴を探すような時間があるとは思えなかった。
 まあ、もし彼女の、カラスバの靴音へのそれが世辞ではなく本音であるのなら……カラスバ自ら調達するのもやぶさかではない。ひとつ貸しを作っておけば、彼女を呼び出しやすくもなるだろうし。
 などと考えていると、近くの裏路地を塞ぐように赤いホロゲートが出現した。ミアレシティの時間が昼から夜に切り替わった合図。血気盛んなミアレシティの住人達が活発に動き出す時間だ。

「さっきまで綺麗な夕焼けが見えていたのに、日が沈むのはあっという間ですね」
「せやな。……今からバトルゾーンに行くんやろ? 仮眠の時間減らしてしもて悪かったなあ」
「全然気にしないでください! すぐ起きるつもりだったし、カラスバさんの靴音を聞けたのでプラマイプラスですよ。眠っているよりずっと元気になれました!」

 そんなわけあらへんやろ、とツッコミを入れたくなったが、これ以上の会話の引き延ばしは彼女の邪魔にしかならないだろうと判断して「さよか」と相槌を打つだけに留めておいた。

「気ぃつけや」
「ありがとうございます! 行ってきます!」

 イーブイをボールに仕舞った彼女が、にっこり笑ってカラスバに手を振る。カラスバも左手でヒラヒラと軽く振り返す。彼女が背を向けてアスファルトを蹴った、その一歩目とともに、目を閉じてみた。
 タッタッと駆けていく軽快な靴音、それは何の変哲もないスニーカーの音のように聞こえる。靴音ソムリエではないカラスバには、この靴音だけで「彼女だ」いう判別はきっとできないだろう。
 だが彼女ほどの聞き分けができずとも、彼女であることだけなら簡単に分かってしまいそうな気もした。カラスバにわざわざ近付いてくる人間などそうそういるものではないからだ。サビ組の連中の靴はジプソを除いてすべて統一されているから流石に分かる。要するにサビ組以外の音が分かればいい。

 カラスバに近付いてくる、サビ組以外の、相容れない者が鳴らす音。今履いているあの靴を履き替えようとも、どんな靴音になろうとも、それはきっとすべて彼女の音だ。カラスバのところへ駆けてくる音は、すべて。

「オマエ限定でなら、オレもソムリエやれそうやな」

 その靴音が聞こえなくなってから目を開き、彼女が去ったのと反対方向へ歩き始める。カツ、カツとアスファルトを叩く靴音を、彼女が「元気になる」と笑ったその音を……カラスバはいつもよりずっと、悪くないと感じた。

2025.10.26

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