楔石の咲くまで

 事務所内のバトルコートから聞こえてくる轟音がようやく止む。続けて聞こえてきた二人分の喧噪に、ジプソは思わず足を止めた。

「オマエなんやねん! この前と技構成変えて来よってからに!」
「あーっははは! 甘い、甘すぎるカラスバさん! アナタがどう対策してくるかなんてお見通しなんですよねぇ!」

 悪役さながらの豪快な笑いを響かせるのは、若いカラスバよりさらに年下の少女、セイカだ。かつてのカラスバに「正義の味方」と称されたはずの彼女は、そのカラスバを凌ぐ程の悪い顔でにんまりとしている。

「あとフーディン! アレはあかん、メガシンカのための温存ですぐ引っ込めたように見せかけたやろ! エスパータイプが出てきたらそっちがメガシンカすると思うやろが、相性的にも!」
「この子はまだ進化したばかりで、アナタのポケモンに送り出すには育成と経験が足りないんですよね。だから今回はブラフ役として一瞬だけ出てきてもらいました。いやー! 見事ハマってくれたようで何より!」
「オマエ……オマエ次そいつ出したとき覚えとけよ……!」

 まだ余裕がありそうなメガピジョットの飛翔を涼しげに眺めてからボールに呼び戻し、ポケットに仕舞った彼女は、カラスバの方へ向き直り、ひどく嬉しそうに目を細める。
 気に入ったヤツに勝って泣かす、はカラスバが掲げた勝負の醍醐味ではあったが、それはそのまま彼女の醍醐味にもなったらしい。敗北を喫した我らがボスの表情は、悪役よろしく笑う彼女のお気に召したようだった。もちろんカラスバは負けたとて泣くような男ではないが、ただまあ悔しさがある程度顔に出てしまうのは仕方のないことだろう。

「今日もすっごい楽しかった! ありがとうございました!」
「あーもう、はいはい! 敵わんなぁオマエには」
「次はまた連れてくる子をちょーっとだけ変えるので、そのおつもりで!」
「また変えるんかい!」
「そりゃそうですよ」

 常勝無敗の彼女が咲かせる花のような笑顔は、なんだかもう発光しているかのような眩さである。遠くで見ているジプソも思わず目を細めてしまうほどの。末恐ろしい子供だと思う。カラスバが欲しがったのも、尤もなことだと思う。

「本当はもっといろんな子を鍛えて、入れ替えて、調整して……毎回、アナタを驚かせられるようなバトルをしたいんですけどね。こちらもちょっと忙しくて」

 セイカのサビ組への出入りは、ボスの許可によりフリーパスとなっている。しかし彼女のほうからサビ組に足を運んだことはほとんどない。彼女がサビ組やカラスバを避けているということではなく、彼女の言うように、単に忙しいからだ。にもかかわらずセイカとカラスバのポケモンバトルがそれなりの頻度でおこなわれているのは、他でもないカラスバの方から彼女に連絡を取り、ここへ呼びつけているからに他ならない。

「まーた二時間睡眠とかで昼夜走り回ってんのやろ。顔めっちゃ白いで」
「顔の白さならアナタも負けてないと思うんだけどなぁ」
「オレのこれは自前や。生まれてこの方ずっとこう」
「それは羨ましい」

 昼は街に増えたポケモンの生態系の調査、夜はバトルゾーンを巡回しての治安維持。エムゼット団のリーダーであったガイがクエーサー社の仕事に注力している今、ミアレを守る力ははっきり言って不足している。ガイの不在を埋めるべく、自分がさらに動かなければと考える彼女の心理はジプソにも理解できる。そしておそらく、カラスバにも。
 しかしここまで休みなく走り回っている彼女を見れば、誰もが言うはずだ。無理をするなと。貴方がそこまで何もかもを担おうとする必要はないからと。

「今の過ごし方が嫌になったとかでは全然ないし、昼も夜も毎日とっても楽しいんですけど……ただやっぱり忙しく走り回ってばかりだと、気分も鬱屈としてくるんですよね」
「せやろな」
「だからいつも、ワタシが落ち込みかけた丁度いいタイミングで、カラスバさんが呼んでくれるの、本当に助かってるんですよ。アナタの顔が歪むのを見るのはとっても気分がいい! 是非またワタシに負かされてください!」
「後半言わんかったら完璧やってんけどなあ」

 ただ……自らが無理をして組を大きくした自負があるからだろう。カラスバは彼女に「無理をするな」とは言わない。それは彼女の無理をしたい気持ちと、無理をしなければならない気持ち、両方を尊重しているが故の、彼の純然たる配慮から来るものであり、そこで彼女を懐柔しようとする意図はカラスバにはなさそうだった。
 だが、とジプソは思う。「無理をするな」と言わないカラスバだからこそ、彼女はこうして足繁くこの建物にやってくるのではないかと。
 彼女のテンションを上げて前向きになるためのポケモンバトル。そこに全力を投じられる相手なら、ほかの上位ランカーもその条件を満たす。しかし彼女がジャスティスの会のシローやMSBCのユカリをボコボコにしているという噂は、サビ組の情報網をもってしてもジプソの耳には入ってきていなかった。
 カラスバだからだ。サビ組のカラスバだからこそだ。その確信がジプソにはある。だからこそ、カラスバの傍にいるセイカのことを……ジプソはいつも、祈るような目で見てしまう。

「オマエがサビ組に入ったら、オマエにしょうもない雑用を任せる輩も減るやろなあ」
「そんな依頼をけん制するようなやり方にワタシが賛同するとでも? それにアナタの目には雑用に映るものだって、皆さんにしてみれば立派な困り事ですよ」
「オマエのワークライフバランスのために言うとんのや。そこんとこもうちょい考えてもええと思うで」
「アナタも諦めが悪いなあ。ワタシは組には入りませんよ。ここのやり方はワタシの肌に合わないんです」

 まあもちろん、彼女が忙しい毎日の合間を縫ってここにだけ訪れ、カラスバとだけポケモンバトルを楽しんでいくのは、単にカラスバが頻繁に連絡を取っているから、というだけなのかもしれないけれど。
 そしてそのセイカへの連絡には、カラスバの、彼女を自らに近しいところへ置いておきたいとする思惑がもう全く隠れていない。現にカラスバは、きっぱりとセイカに断られてからも、サビ組への勧誘をやめる気配が一切ないのだ。

「もちろん、今の……お世辞にも治安がいいとは言えないミアレシティにおけるサビ組の必要性については、ワタシなりに分かってるつもりですよ」
「せやろな。まぁオレかて分かっとるつもりや、オマエがあの団で筋を通そうとしとることくらいはな」

 ただこれだって、もう二者間における「テンプレ」と化してきていることに双方気付いているはずだ。カラスバが誘い、彼女が断る。そこに初期のような激情はほとんどない。セイカはサビ組やカラスバのことを本気で拒絶しているわけではないし、カラスバも彼女を本気で引き抜こうとはもう思っていない。

「アナタが心配してくれてることだって、分かってる」
「えらい生意気なこと言うなぁ」
「っふふ、でも安心して? ワタシなんにも辛くない。寂しくもない! だってやり方は全然違うけど、ワタシたち、同じところに向かって走ってるんだって分かるから」

 にもかかわらず変わりなく繰り返されるこれは、もう挨拶のようなものになってしまっている。

「ならええか。ほなまあ頑張ろやないか、お互いに」
「はい、お互いに!」

 そう、これは挨拶だ。二人の間にしか通じない何かを示し合うためのもの。相容れない二人の間にだからこそ築けてしまった、言語化の難しい何らかを、確かめ合うためのもの。

「あとワタシ、今だけは何があってもエムゼット団を抜けられないんですよね。団への愛着とか義理とか筋とかの話以前に、単純にワタシがいないとミアレシティのあれこれが回らないみたいで」
「オマエ一人抜けて立ちいかんようになるなんて、組織として破綻しとる……って言いたいけど、まあ今のミアレシティは過渡期やからな。正義の味方があちこちから頼られるんも無理ないことやで」

 何らかであってほしい、とジプソは思う。
 カラスバやサビ組のやり方に決して賛同せず、けれども忌避して遠ざかることもしない。相容れないことを分かっていながら、近付くことを決してやめない。
 それはカラスバが当初、彼女との間に作りたかったであろう形とは随分と違っているが……今となってはこの方がきっとよかったのだろう、と、第三者の目線では思ってしまう。敵対するでも懐柔するでもなく、もっと対等な何らかがこの二者の間に生まれる可能性を思っている。そこに、随分と身勝手な希望のようなものさえ見てしまいたくなる。

「ありがとうございます」
「ん? なんの礼や今のは」
「ワタシを変わらず高く評価してくれているってことを、わざわざ言葉にしてくれたことへのお礼です。アナタを負かすのもそうだけど、アナタに褒めてもらえるのはもっと気分がいいから!」

 ぱっと花を咲かせるように笑った彼女だが、そこから僅かに肩を強張らせて、そっと足を滑らせるようにして後ずさろうとする。しかしそれを見逃すようなカラスバでもなく、今度は彼が悪役然とした不敵な笑みを浮かべ、素早く手を伸ばして彼女の腕を、メガリングの上から包むように掴んだ。

「気分ようなったところ悪いけどな、まだオマエのお仕事が残ってんで。帰さへんよ」
「いやちょっと今日は勘弁してください! すでに予定を二つリスケしてるんです、アナタに会うために! これ以上はもうズラせない!」

 カラスバの口にした「お仕事」を受け、ジプソは事務所の奥へと移動する。巧妙に隠された生活感溢れる収納棚から、分厚いブランケットを取り出してソファに置いた。質感こそ良いものだが、何の変哲もない無地のダークグレーで、おそらく一般的な女性が好みとするところではない。きっともうしばらくすれば、このブランケットもより明るい色のものに変わるはずだ。カラスバが気を利かせて購入するのか、あるいは彼女が自前のものを用意してここに置いて帰るようになるのかは、ジプソには読めないが。

「そんな熱烈な言い分並べたところでオレは妥協せえへん……と言いたいとこやけど、まあええわ。いつもは二時間やけど今日は一時間にしたる」
「ぐっ……せめて三十分だけ! 三十分だけに!」
「一時間。これ以上はあかんなぁ?」
「いや待って、待ってください! じゃあ四十五分でどうです!」
「一時間言うとるやろ」

 お仕事、とは、カラスバがセイカに半ば強制的に取らせている仮眠のことだ。倒れるギリギリのところで何もかもをこなして回る彼女のストッパーには、ミアレシティの誰もなれていない。誰の「無理をするな」も「休みを取れ」も、彼女には響かない。唯一実力行使で彼女に仮眠を取らせているのがこのカラスバだが、彼でさえポケモンバトルをダシに呼び出して、その流れでこの一時間あるいは二時間を捻出するのが関の山なのだ。
 それでも一時間、たった一時間がこうして彼女に届くなら、今はそれでいいと許してしまえる度量がカラスバにはある。彼女も、カラスバが一時間で妥協する男であるからこそ、彼の呼び出しから逃げようとしていないのだろう。

セイカさま、そろそろ折れた方がよろしいかと」
「ジプソさんまで! くっ、ここにワタシの味方はいないんですか!? ……いやそりゃいるわけなかったわ、ここサビ組だし」

 十五分刻みの交渉、というか駄々捏ねを諦め悪く続けていたが、ジプソの介入もありセイカはようやく折れた。バトルコートを出てソファの方へと向かう、その足取りは傍から見てもヒヤリとさせられるほどに頼りない。酒に酔った者でももう少しまともに歩けるはずだ、とさえ考えてしまう。バトルを終えて、彼女を覚醒させていた脳内のアドレナリンとか諸々のブーストがついに絶えたのかもしれなかった。
 これほどまでの疲労がたった一時間の「お仕事」で取れるはずもないが、このまま彼女を帰すよりはずっといいだろう。
 ただ、こんなギリギリの生き方で長くやっていけるはずがない。ミアレシティが落ち着くのが先か、彼女が倒れるのが先か。文字通り彼女の体を張った、危険すぎる賭け事だ。ミアレシティが落ち着きを取り戻し、彼女がまとまった休みを取れるようになるまで、今の笑顔のままに正気で立っていられたら大したものだが……。

 だが、もし先に倒れてしまったときは、覚悟した方がいい。
 きっとその時こそカラスバさまは、貴方をその腕に閉じ込めて、決して離さなくなるだろうから。

「じゃあソファを借りますね。ブランケット、ありがとうございます」
「はいどうぞ」

 いつものやり取りを経て、彼女は靴を脱ぎ、ソファに体を沈める。ブランケットを首元まで被り、背中を丸めて小さくなった。もう体は限界に来ていたらしく、いつも大きく見開かれている丸い目が、すぐにとろんと溶けていく。寝息を立て始めるまできっと一分と掛からないだろう。

「おーい、オレもうちょっとしたら外へ出る用事あんねん。ここはジプソに任せとくから、ちゃんと眠ってから出ていきや」
「え……え? カラスバさんもういなくなるんですか?」
「せやで」
「じゃあ先に挨拶しないとなぁ……」

 もう既に閉じられてしまった目と、芯を無くしたふわふわの声。一分どころか向こう三十秒もつかも怪しい。
 そんな彼女はブランケットからぬっと右手を出してヒラヒラと振る。カラスバの手を探しているのだ。二人の間で必ず交わされてきた「挨拶」を求める仕草だ。彼は小さく笑いながら、はいはいと返事をして、膝を曲げてしゃがみつつ彼女の手を取り、握る。
 彼女は目を閉じたまま、ふふっと笑いながらその手にぎゅっと力を込めた。カラスバの方でも相当に強く握っていることは、指先が僅かに白くなっているところからも容易に察しが付いた。

「……」

 カラスバは普段、セイカに触れようとしない。あんな容赦ない言い合いをしておきながら、彼女の頭を小突いたり背中を叩いたりする様子を決して見せない。腕を掴むときでさえ衣服やメガリングの上から包むようにして、なるべく直に肌には触れないようにしている。彼女の方からも、カラスバの肩や背中を叩いたり、腕に触れたりといったことを故意にしている様子は見られない。
 どこまでも近くにいる二人は、どこまでも薄いがどこまでも強固な壁で隔て合っているのが常だった。「相容れない」ことを弁え合うように、いつだって二人はそうしていた。
 そんな二人が唯一触れるのが、これだ。何もかもが相容れない彼等に許された唯一の歩み寄り。拳を突き合わせるより少しだけ近い距離を許し合う、不器用で真っ直ぐな形。
 こんな、祈り合うような握手をする人を、ジプソはこれまで見たことがなかった。

「ありがとう、楽しかったぁ」
「オレもや。ってかそれはさっきも聞いたわ。はよ眠り」
「カラスバさん、まだワタシに飽きてない? また呼んでくれますか」
「もちろん」

 うれしい、と口の動きだけで伝えて、それきり彼女は沈黙した。ジプソの距離からは分からないが、おそらく細く小さい寝息がカラスバの耳には届いているのだろう。息だけで小さく笑ったカラスバは、もう完全に力を失った彼女の手に左手をさらに添えて、両手でそっと、包むようにして。

「飽きてない、はオレの台詞や……」

 お互いに相容れないことを分かっている。
 お互いに、この名前のない何らかが切れることを恐れている。
 身を削るような想いとともに双方睨み合っている。
 祈り合っている。

 飽きるなんてことあるはずがないのに、貴方がたのそれが切れることなど在り得ないのにと、ジプソは何度、その背中に言って差し上げたくなったか知れない。だが決して口は出さない。ジプソの崇敬するカラスバ、彼が祈る相手に選んだ彼女なら、きっと自分の介入などなくとも最適解を引くはずだからだ。それだけの才覚と度胸と熱意がある人でなければ、カラスバがこんな風に手を取ったりしないことを、分かっているからだ。

「ほな、今から一時間かな」
「誰も入らないよう、扉の前で待機しておきます」
「おう、頼むで」

 カラスバは立ち上がり、置時計のアラームを一時間後に設定して、セイカが眠るソファの前のテーブルに置く。チラと彼女を一瞥したカラスバは、そのまま振り返ることなく事務所を出て行った。

「……」

 ジプソも、カラスバより遠い位置からそっと彼女を見遣る。ダークグレーのブランケットに頬を埋めた彼女は、ぴくりとも動かずに眠っていた。このサビ組の敷地、それも本丸と呼べそうなこの場所で、警戒心を完全になくして眠れるなんて大したものだ。
 美しい女性を立派な花に例える表現があるが、彼女の花は些か強靭すぎるなとジプソは思う。どんな雨にも風にも刃にも、あの方の毒にさえ決して染まらない、錆びることを知らない花。それでいて気取らず、道端にそっと咲くくらいで満足してしまうような、ささやかな花。この精神の頑強さからしてきっと花弁は銀色のチタン製だ、きっと目を穿つような眩しさなのだろう。彼女がカラスバに向ける、笑顔のように。
 などと想像していると、扉が再び開き、カラスバがひょこっと顔だけ出してくる。

「ジプソ!」
「! はい、どうしました!」
「戻ったら特訓すんで! 次こそ勝ってそいつ泣かしたる!」
「もちろんでございます!」

 思った以上の大声になってしまい、マズい、という心持ちで二人は同時にソファへ視線を向けた。ぴくりとも動かないダークグレーのブランケットと栗色の髪の毛に、双方安堵の溜め息を吐く。苦笑しつつヒラヒラと手を振るカラスバが扉の向こうへ消えたのを見届けてから、ジプソは壁際に立ち、目を伏せた。次に花が開くまでこちらも少し休ませてもらおう。

2025.10.25

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