テレビを付ければ、天気予報が流れていて、シンオウ地方全土に群がる「雨」のマークが煌々と照らし出されていた。
カントーやジョウトに比べれば遥かに短くささやかなものだが、一応、シンオウ地方にも梅雨めいたものがやってくる。
例年は7月半ばにやってくるのだが、今年は少しばかり早かったようだ。
まだ7月のカレンダーを捲るには数日ばかり足りない、そうした6月終盤に訪れた梅雨だった。
ゲンは立ち上がり、冷蔵庫の中身を確認して思わず苦笑した。
レトルト食品とコーヒーのボトル、ソースの類しか入っていないのは最早日常茶飯事であったが、これだけで一週間を凌ぐのは流石に困難を極めそうだ。
雨を嫌っている訳ではない。問題は船にある。雨や風が強くなれば当然のように船は欠航するのだ。
鋼鉄島とミオシティを繋ぐ唯一の連絡船が途絶える前に、ある程度は食糧や生活用品の類を買い揃えておかなければいけない。
「ルカリオ、雨が強くなる前に買い出しに行こうか」
そう告げれば、彼は小さく頷いて自らボールの中に入ってくれる。呆れる程に長い時間を共にしたパートナーの入ったそれを、いつもの服のポケットに仕舞い、家を出た。
この家はゲンの所有物ではなく、ミオシティのジムリーダーであるトウガンの別荘だ。数年前から貸してもらっているが、彼は一度も自らの別荘を訪れたことがない。
1か月ほど前に顔を出した時にも「そういえばあれはわたしの家だったな!」と、長らく忘れていたかのように豪快に笑われてしまった。
……ああ、彼のところにも顔を出しておこう。息子のヒョウタくんがジムリーダーを勤め始めてもうすぐ1年になる筈だから、話題には事欠かない筈だ。
やってきた船に乗り込む。船頭と挨拶を交わしてから甲板に出て、灰色の曇天を見上げる。
さて、あの子はそろそろシンオウリーグのチャンピオンに勝っただろうか。
*
ジムリーダーであるトウガンの元へ赴き、挨拶と簡素な世間話をして別れた。ポケモンセンターにポケモンを預けている間に、ショップで傷薬の類を購入した。
図書館から出て来る子供たちは、青年の存在など気にも留めず、競うように橋の上を軽快な音を立てて駆けていった。
彼の視線はその小さな背中を少しばかり追いかける。その幼さに誰を重ねているのかは問うまでもない。
けれど当然のように彼等は彼等であって彼女ではないのだから、すぐにその視線は逸らされて然るべきであったのだ。
そして彼の視線はもっと別の、例えばいつもより高い波を打つ河や、図書館の傍にある植え込みに咲いたオレンジ色の花に向けられる筈であったのだ。
しかし彼の目は、河でも花でもなく、その橋の真ん中に佇む一人の少女に向けられていた。息を吐くことを忘れるほどの驚きに彼はただ、瞠目していた。
夜染めの髪がふわふわと、海の匂いが混ざった風に揺れていた。お気に入りだと言っていたピンク色のコートは、しかしこの強い潮風の中では少々頼りなく見えた。
コートの下に覗いた足は、記憶にある姿よりもずっと細くなっているように思われた。
他人の空似かと思ったが、その横顔の細めた目が紛うことなき藍色をしていることに気付き、あの子だ、と確信する。
しかしその瞬間、信じられないようなことが起きた。
橋の手すりにある隙間から彼女の細い体がすっとすり抜けて、まるで宙を飛ばんとするかのような自然さでその体が宙に放り出されたのだ。
しかし彼女は人間である。羽も翼も持っていない。飛べる筈がない。スローモーションのように彼女の体はゆっくりと、しかし確実に落ちていった。
ばしゃん、と派手な水しぶきを立てて海に叩き付けられた、その音でゲンの足はようやく動いた。
彼女を追って海へと飛び込んだ。海水に染みる目の痛みに気付かないふりをして、滲む視界で少女を探した。
ようやく見つけたその肩を抱き、必死に6月の空へと足をバタつかせ、水面を目指した。
宙に顔を出し、湿った空気を肺の奥までいっぱいに満たすことの叶った、その瞬間の強烈な安堵を、どう表現すればいいのか彼には解らなかった。
溺れる子供というのは救助者に必死にしがみつき、その腕に自由を奪われた救助者もまた溺水の危機に晒されるというのはよく聞く話であるが、
奇妙なことにその「溺れる子供」である筈の彼女は青年の身体に縋ることも、しがみ付くこともしなかった。
縋るどころか、その細すぎる四肢には全くと言っていい程に力が込められていなかったのだ。
まるで「いつこの手を放して私を見捨てても構わない」とするような、おおよそ10歳の子供に相応しくない諦めの心地が、
彼女の吸い込んだ海水には強烈な濃度で溶けている、そんな風に思われてならなかったのだ。
けれどもっと現実的な仮説があったことに気付いた。すなわちこの少女は気を失っているのではないかという、もっともらしい仮説だ。
故に彼は、誰かが橋の上から投げ込んでくれたペットボトルにしがみ付きながら、何とかして彼女の意識を取り戻させなければと焦っていた。
けれど船着き場に手を掛けたところで、彼は少女が気を失っている訳でもパニックになっている訳でもなく、
ただじっと目を閉じてしっかりと息を止めているだけであることに気付いてしまい、彼はまたしても信じられないような心地をもって彼女を見ることとなってしまった。
またこの少女に出会えたなら、さぞかし、自分は歓喜するだろうと思っていたのだ。
喜び、浮つき、少しばかり上擦った声で彼女の名前を再び呼ぶことが叶う日が、まさかこんなに早くやってくるとは思ってもいなかったのだ。
その事実に喜び、頬を綻ばせることこそすれ、こんな風に「あの子」の姿をした、あの子とは思えない「誰か」の姿に愕然とすることなど、決して起こる筈がなかったのに。
彼女を見つけた。こんなにも早くに再会できた。
そんな嬉しすぎる裏切りは、しかし彼女が橋の上から身を投げた瞬間に、絶望を伴った残酷な裏切りへと変貌し、キリキリと軋むような音を立てて彼の首を絞め始めていた。
彼の中でこの少女を責めるための準備が整い始めていた。ふざけるな、とさえ思えてしまった。
何のつもりだ、君は強くならなければいけないのではなかったのか。
彼女はその小さな口から少しだけ海水を吐いたけれど、その後は至って平静に両目を開き、目の前に現れた「知り合い」の顔に少し、ほんの少しだけ驚いた。
藍色である筈の彼女の目は、曇天を映して鉛の色に染まっていた。
「何をしているんだい、ヒカリ」
「……」
「あんなところから身を投げればどうなってしまうか、いくら君が子供でも分かるだろう……!」
少女は青年が望んだ反応を返さなかった。
海に濡れた顔は雪のように白く、ぱちぱちと緩やかなスピードで繰り返される瞬きは鉛のように重かった。
いつまで待っても彼女は言葉を発しない。それどころか何故自分が「叱られている」のかを理解していないようであった。
その鉛色の目には罪悪感とか申し訳なさといったものが微塵も感じられなかった。
しかしそれはおそらく、彼女が思慮を欠いた傍若無人な人間であることを表すものではなかったのだろう。
その目には困惑と確かな疑問の色が映っていた。それは青年をからかったり彼に反抗したりするためのものではなく、本当に純粋な、心からのものであると確信できたのだ。
「何故、あの橋から落ちてしまったのか」を、この少女は答えることができない。
自分の思考が弾き出したそんな答えにくらくらと眩暈さえ覚えた。どうなっているんだ、と叫び出したくなった。
それは少女に対する叱責でも、初夏のまだ冷たい海への糾弾でもない。もっと大きな見えない力に向けて、彼は問いたかった。
この少女に何が起きているのか。それを教えてくれる誰かというものがいて然るべきだ。
その「誰か」は少なくとも自分ではないのだと、自分ではこの少女を紐解けないのだと、解っていたからこそやるせなかった。それは絶望という形で更に彼の眩暈を強くした。
「……私のことを、覚えているかい?」
海の匂いを被った彼女は小さく頷いた。青年はひどく安心した。
彼女が自分のことを覚えている。それだけが、彼女を「あの子」とする所以であるように思われたのだ。
何もかもが変わってしまったような不気味な雰囲気を持つこの少女が、あの日、朗らかな笑みで自分に話しかけてきたあの子であるのだと、言い聞かせれば少し、気が楽になった。
『それじゃあ私がお兄さんを守ってあげるね!』
そう口にした彼女の「音」をもう一度聞きさえすれば、いよいよ青年は確信できたのだろう。彼女が「ヒカリ」であると断言できたのだろう。
鈴が坂道を転がるような、陽気で快活なあのソプラノを、彼ははっきりと覚えている。にもかかわらず、今の少女はそれを紡いでくれなかった。
もっと確信が欲しい。この虚ろな目をした少女が、かつて鋼鉄島で彼と数え切れない程の言葉を交わした、あの真っ直ぐで快活な女の子であるのだと、誰かに断言してほしい。
そしてそんな都合のいい「誰か」は、彼がそう願った瞬間、本当に現れてくれた。
「あら、ゲンじゃないの」
カツカツとヒールの音を立てて駆け寄ってきた女性は、青年の顔を見て驚いたようにそう告げた。
美しい金髪をふわりとたなびかせて、困ったように「ヒカリを助けてくれたのね、ありがとう」と笑うこの女性を、彼は知っていた。
「……久しぶりだね、シロナ」
2016.5.12