私達は人の多い道を抜けて、灯台のある小さな岬へとやってきた。
途中で笑顔の素敵な老夫婦が、こちらに軽く会釈をしてくれた。私はぎこちなく挨拶を交わしてその場を速足で通り過ぎる。
海の風は、命の香りを運んでくる。私はそっと息を吸い込んで、その香りを飲み込んでみる。
……少しだけ、落ち着いたのは気のせいだろうか。
マツブサさんは私の手を引き、さりげなくベンチへと誘導した。
まるで淑女を相手にしているようなその仕草に、またしても心臓が跳ねる。
そのような扱いを受けた経験は寧ろ多くあったし、慣れているつもりだった。だからこそ、そのようなことで動揺している自分に、驚いている。
「落ち着いたかね?」
そして私はあろうことか、隣に座ろうとしたマツブサさんの肩を押し、拒んでしまったのだ。
これには流石に紳士的な振る舞いを貫いていた彼も、目を見開いて驚きを見せる。
「ご、ごめんなさい!」
「いや、構わない。では少し離れていようか」
彼は灯台の壁に僅かに凭れ掛かる。腕を組み、所在なく空を見上げる。
釣られて私も目線を上げる。海を映したような青い空に、小さな雲が忙しなく動いていた。
「いい天気だ」
「はい。……少し、雲が速く動いていますね」
「ほう、キミは面白いところに目を付けるのだな」
彼は楽しそうに笑った。いつもの笑顔だった。私は少しだけ安心する。
そうだ、昨日だってこの人と同じ空間で時間を過ごしたではないか。小さな声で歌っていた彼に、私は泣き出しそうな気持ちになったのではなかったか。
一緒に買い物に出かけられると聞いて、満面の笑顔で喜んだのではなかったか。ワンピースやパンプスを選ぶだけで、どうしようもなく楽しい気分になったのではなかったか。
「キミは、異性と二人で出かけた経験は?」
空を見上げたまま、そんなことを言いだした彼にまたしても心臓が跳ねる。きっと今日一日で私の心臓は疲弊しきっているに違いない。
けれどどんなに疲れ果てようとも、動き続けることができるのが心臓の素晴らしいところで、今だってとても疲れている筈なのに、鼓動は更に加速する。
「お見合いを、何度かしたので」
「……キミはまだ16歳だろう?」
「16歳なら結婚できるんですよ、マツブサさん」
私は肩を竦めて笑った。
「そういう家柄」に生まれた私は、ここ1、2年でそれなりの数のお見合いなるものをこなしてきた。
見ず知らずの男性と食事をして、他愛もない話をする。沈黙を作らないように戯言を重ねる。そうした処世術は得意だった。造作もないことだと感じていた。
今していることはそれととてもよく似たことである筈なのに、こんなに動揺して、緊張して、狼狽える必要など何もない筈なのに。
それが「彼」である。
その事実が、私の心臓を真綿のように締め上げていく。
「その時は、今のような状態になったのか?」
「いいえ、今日が初めてです」
彼は「そうか」と相槌を打ち、かけていた眼鏡を外した。スーツの内ポケットからレンズ拭き用の布を取り出し、細やかな手つきで右のレンズを拭き始める。
特に私の回答に頓着しない、その態度に救われた気持ちになった。
その時の私はまだ、知らなかったのだ。マツブサさんが私以上に神経を張りつめさせていたこと、その落ち着いた表情は装甲に過ぎなかったのだということ。
「私、ちょっとおかしいですよね」
本当に、おかしい。
人を好きになることって、もっと心が晴れやかになる筈だったのに。
普段とは違う服装を身に纏っている彼を直視できなかったり、触れられた手が燃えるように熱くなったり、また逆に緊張のし過ぎで指先が冷え切ってしまったり、
いつもの距離にすら近付くことを思わず拒んでしまったり、疲弊しきった心臓がそれでも鼓動を加速し続けていたり。
人を好きになるって、そういうことなのかしら。それとも、私が異質なのかしら。
そこまで考えて、そして私は気付いた。
左のレンズを拭きかけていた彼の手が、ぴたりと不自然に止まっていることに。
……どうしたのだろうか。
「マツブサさん、あの、」
「キミは少し勘違いをしている」
彼は眼鏡をかけ直して、ベンチに座っていた私の正面に歩み寄った。その背を折り、私の顔色を窺うように僅かに首を傾げる。
「今も、此処は痛いかね?」と尋ねられ、私は小さく頷いた。
今だって、顔が赤くなっている筈だ。何故だか解らない。けれど無性に、恥ずかしさを感じる。
聞こえる筈がないのに、加速する心臓の音が彼に届いていないかと不安になる。
これでは一種の神経症状だ。先程は否定したが、私は本当に病気になってしまったのかもしれない。
「では、」
そして彼は信じられないことを行う。
私の腕をやや乱暴に掴んで、引き寄せたのだ。慌てて立ち上がった私は、しかし次の瞬間、絶句する。
彼の左胸に押し当てられた私の手が、私の心臓の音とそっくりな揺れを拾い上げたからだ。
音が聞こえる。
彼は困ったように笑った。肩を少しだけ竦める、その目には茫然とする私が映っている。
恐ろしい程に速く揺れている鼓動に私は慌てた。
「どうしたんですか?マツブサさん……」
そこまで紡いで、やっと気付いた。
私の手を掴んで自身の左胸に押し当てた、その彼は僅かに手に込める力を強くする。
「ではきっと、私もおかしいのだな」
何かが、ぱちんと弾ける音がした。
それは張り詰めていた緊張の糸だったのかもしれない。あるいは風船のように膨らんだ動揺だったのかもしれない。
または宙に吊り下げられ、質量を増し続ける不安という名の入れ物だったのかもしれない。
もしくは、その全てだったのかもしれない。
いずれにせよ、私は彼を見上げて言葉を失った。
彼は今まで、ずっと余裕の表情を見せていた。その顔色を僅かでも変えることはなかった筈だ。今だって、平然とした表情を保っている。
そんな彼が私と同じように、加速する鼓動を持て余していたのだと、どうして想像することができただろう。
彼の落ち着いたその表情は装甲だったのだ。私はそれを、今までの彼との時間で学んでいた筈なのに、この緊張した状態が、それをすっかり忘れさせていたらしい。
驚きに取り乱す彼を、見られたくない自分を見られて動揺する彼を、私は見てきた。
だから、こんな風に彼が、その優しい微笑みの裏でどんな緊張と動揺を見せていたところで、それは驚くべきことではなかったのかもしれない。
ただ、私と彼が同じだった。それだけのことだったのだ。
真綿に締め上げられているのは、私だけではなかったのだ。
私は肩を震わせて笑い始めた。マツブサさんは不本意そうに眉をひそめながらも、いつもより少しだけ強い力で私の頭を撫でてくれた。
だって、こんな、平気そうな顔をしているのに。どうということはない、というような表情を見せてくれているのに。
その全てをもってして「だから、おかしいのではと不安に思う必要などない」と伝えてくれているのに。
その彼の心臓が、私と同じように大きく揺れているなんて。
「そんなかっこいいスーツとベストを着てくるから、緊張しちゃったじゃないですか。マツブサさんのせいですからね!」
ようやくいつもの調子に戻った私は笑いながら、改めて彼の全身を上から下まで見る。
濃いグレーの生地のスーツには、薄く細い白で縦のラインが入っている。
赤いと思っていたネクタイは、意外にも落ち着いた黒い色をしている。その代わりにワインレッドのベストを着ていた。
白いワイシャツ、濃いグレーのスーツ、黒いネクタイといった控え目な色で構成された服装の中で、そのワインレッドは絶妙なアクセントになっていた。
そんな彼を、やはり長時間、直視することができないのは、断じて私のせいではない。
しかし、彼は大きな溜め息を吐いて笑った。
「キミがそれを言うのか?」
「……」
「お互い、ただの買い物に出かける服装にしては、少々拘り過ぎてしまったようだな。
だが、キミのそれはとてもよく似合っているよ」
その言葉に私は思わず、彼の手を掴んで自分の左胸へと押し当てた。
驚きと焦りで目を見開く彼に大声でまくし立てる。
「ほら、やっぱりマツブサさんのせいです!」
彼はその鼓動を拾い上げ、先程の私と同じように肩を震わせて笑う。
2015.1.10