「マツブサさんは、歌わないんですね」
いつものように、書類の束が丁度いい分量まで減ったところを見計らい、私は口を開いた。
マツブサさんはその言葉に顔を上げ、ペンを置いて立ち上がる。眼鏡を外して歩み寄り、私の隣へと腰を下ろす。
彼はあの日から、書類仕事の合間にこうしてソファに横になり、30分程の仮眠を取ることを日課にしているようだった。
それは決まって、私が話し掛けた頃合いを契機としていた。ソファに並んで座り、饒舌な私が話題を振り続ける。彼はそれに答えてくれる。
そうして言葉の波が一頻り収まった頃に、彼は徐に横になるのだ。
彼は私の話をちゃんと聞いてくれる。馬鹿なことを、と笑ったりしない。子供の戯言だとあしらったりもしない。拙い歌を咎めることすらも、彼はしたことがない。
ちゃんと、一言一句を聞き逃さずに拾い上げてくれる。そんな私を許してくれる。それがどうしようもなく嬉しかった。
私はただ、湧き上がる言葉を何も考えずに吐き出していることの方が多かった。
要するに、交わされる言葉は問題ではなかったのだ。
私がこうして紡ぐ戯言を。彼が真摯に拾い上げてくれる。その事象だけで十分だったのだ。それだけで、私は笑顔になることができた。
だから私は、彼の前でこの笑みを絶やしたことは一度もない。
もっとも、笑顔を絶やさない件に関しては、彼に限ったことではなかったのだけれど。
「キミのように奔放に歌い出す人間の方が稀だ。私を含め、大人はそう頻繁に歌ったりしない」
「あれ、そうなんですか?じゃあこれは子供の特権だったんですね」
私はいつものように、マツブサさんの隣で肩を揺らしながらクスクスと笑った。
16歳を子供と言っていいのか、迷うところではあったのだが、彼の前では間違いなく子供だろう。
そして私は、そんな子供である自分のことが嫌いではない。
背負うものが何もないから、自由に動ける。自分の信じたいものを、何のしがらみを感じることなく信じられる。
だから私は、自分の思いのままに、今日もこの場所を訪れている。
「ねえ、歌ってみてください」
「……私が?」
「マツブサさんの声を下さい」
期待に瞬きを忘れて彼を見上げれば、頭を軽く叩かれてしまった。
駄目なんですか?と尋ねる私に、彼は珍しく難しい顔をして首を振る。
「キミにあげられるような上等な声は持ち合わせていないよ」
「そんなことありませんよ。マツブサさんの声、大好きなんです」
私は確信していたのだ。
彼がその、海に揺蕩うかのように静かな声音で、徐に私の名前を呼んでくれた、その瞬間に訪れた衝撃の正体を。
誰に呼ばれても動じなかった私の心が、恐ろしい程にぐらりと揺れたその理由を。
「あ、声だけじゃないですよ。マツブサさんのこと、大好きです」
私は嘘が下手だ。嘘を吐けば、絶対にばれてしまう。そんなみっともない真似は絶対にしない。
だからこそ、嘘吐きな振りをして、嘘を吐いている振りをすることにした。冗談が得意な振りをすることにした。
心を偽れば、声音はそれについてきた。
「嘘」を紡ぐことなんて、造作もないのだ。だってそれは嘘ではなかったのだから。
「では、練習しておこう」
「え、そんな、いいですよ、そこまでしてくれなくても。適当に思い付いたものを、鼻歌みたいに紡いでくれるだけでよかったのに」
「キミは歌い慣れているから「適当に」歌っても上手いのだろうが、私は違う」
頑として譲らないマツブサさんがおかしくて、私は笑いながら軽く彼の肩を叩いた。
愕然とした表情を慌てて取り繕ったり、いつだって平静を崩さなかったりと、どうにもこの人には、自分を「クール」に見せたい一面があるらしい。
だからこそ、私はそんな彼の思いを汲みつつ、それでいて自分の意見を押し通す必要があった。
「クールに見せようとしたって無駄ですよ、もう全部、ばれていますから」なんてことは、絶対に言わない。言ってはいけない。
だって、ほら、好きな人のことは、大切にしたいでしょう?
「それは当たり前です、逆に考えてください。私よりもマツブサさんが上手に歌い始めたら、普段から馬鹿みたいに歌いまくっている私のプライドはどうなるんですか?」
「……キミのことを「馬鹿みたい」だと思ったことは一度もないが」
「それに、仮に下手だったとして、それだってマツブサさんを益々素敵にするほんの一要素でしかないんだから、全然、気にしなくてもよかったんですよ」
そうして私はまた「嘘」を吐く。
いつか彼が気付いてしまうまで。……いや、きっと、気付いてからも嘘を吐き続けるだろう。
気付かれませんように、と思いつつ、いつかは気付かれるだろうな、と思っているし、また、心の何処かでは、気付いてほしい、とまで思っている。
馬鹿みたいな嘘を紡ぎ続ける私の口を、塞いでほしいと思っている。饒舌に戯言を吐き出し続ける私に、沈黙を与えてほしいと思っている。
沈黙が耐えられないからこうして戯言を並べているというのに、そんな戯言の要らない静かな空間に憧れさえしている。
そして願わくば、その甘美な沈黙を与えてくれるのが彼でありますようにと、祈っている。
だから私は、「大好きです」と紡ぎ続ける。それは「嘘」だったのだけれど。
嘘は得意だ。「嘘を吐く」という嘘を吐くことだって、私には造作もない。
「では、交渉をしよう」
マツブサさんはそう言って横になる。
「交渉?どんな交渉ですか?」と言って彼を覗き込んだ私の髪を、彼はその手でそっと撫でた。
「キミの歌を歌うことにしよう」
「え……」
「キミがいつも口ずさんでいる歌だ。
あれを私が諳んじられるようになるまで、キミが毎日欠かさず歌ってくれたなら、そのうち私も歌い出すかもしれないよ」
海底に揺蕩う貝のような静かな声音で、しかしその目は悪戯っ子のように輝いている。
その目には、呆気に取られたようにぱちぱちと瞬きをする私が映っている。
この人は、私の戯言を軽くあしらうような真似は絶対にしない。いつだって、真摯に拾い上げてくれる。
だからこその「交渉」がそこにあり、つまるところ私は、彼の真摯さを計り間違えていたのだ。
そんな彼の態度は、私の「嘘」をじわじわと溶かしていく。
それが私には「まだ」恐ろしいことだと感じられた。
だから私は、やはりいつものように微笑んで、道化になってみることにした。
「わかりました!じゃあ早速、歌いますよ?マツブサさんの安眠を邪魔するかもしれませんが、盛大に歌いますよ?いいんですか?」
クスクスと笑いながらそう尋ねた私に、しかし彼は小さく笑う。
それは、かつて私と対峙していた時によく見せていた皮肉気な笑みではなく、どこまでも優しい、やわらかな微笑みだった。
「そんなことはない。私はキミの歌が好きだ」
今度こそ固まってしまった私に、彼はああ、と思い出したように付け足して、あたかも私の「嘘」を見抜いているかのように流暢にその言葉を紡ぐ。
「勿論、歌だけではないよ」
とうとう目を閉じてしまった彼に、私は暫く茫然として沈黙を貫いていたが、やがて徐にいつもの歌を口ずさむ。
音が震えている。それを直そうとして小さく咳払いをすれば、彼が小さく笑う気配がした。
もしかしたら、と思う。……もしかしたら、彼は全て知っているのかもしれない。
私が嘘吐きなこと。嘘吐きだと嘘を吐くことの常習犯であること。冗談を本音に溶かすことを日常的にやってのけていること。
でなければ、私のそんな「冗談」に、彼があんな真摯な目で、あんなことを紡いだ理由が導き出せないのだ。
もし彼が、そんな私を知っているのだとしたら。
知っていて、それでも尚、「歌だけではない」と言ったのだとしたら。
「歌が下手なマツブサさんのことだって好きだ」という趣旨の私の言葉を、そんな私の冗談だった言葉を、彼がまさに踏襲して返してくれているのだとしたら。
私の本音は、とっくの昔に拾い上げられているのだとしたら。
また、音が震えた。それは驚きに起因するものではなかった。
彼の寝息が聞こえ始めるまでは、絶対に、歌を止めてはいけないと思った。止めたらきっと、私は。
2014.12.6