ヒャッコクシティに到着した私は、そこからポケモンに乗って空を飛び、ミアレシティに戻ってきた。
勿論、ヒャッコクシティがそれなりに広い町であることも、ポケモンジムがそこにあることも、知っている。
けれどそうした新しい町への探索よりも前に、私には訪れておきたいところがあったのだ。
新しく見つけた数匹のポケモン、それだけが登録された、特に代わり映えのしない図鑑を手に握り締めて、行かねばならないところがあったのだ。
研究所の3階に向かえば、彼の方から駆け寄ってきてくれる。ポケモン図鑑を握り締めた手を少しばかり掲げれば、こちらが何も言わずとも図鑑の評価をしてくれる。
ユキカブリやカチコールなど、新しく出会ったポケモンのチェックを簡単に済ませてから、彼は私を連れてとある場所に訪れる。
いつものことだから、私は特に驚かないし、寧ろ彼に手を引かれることを望んでこの場を訪れたのだから、それを拒む理由などある筈もない。
*
プラターヌ博士は無類のカフェ好きであるらしい。一度私からその単語を呟くと目を輝かせ、ついでとばかりにあれこれと説明してくれた。
あそこのコーヒーは苦いから君には合わないかもしれない、とか、この通りのエスプレッソは舌触りが滑らかで美味しい、とか。
彼は私が、カロスの言葉に慣れていない私が解るように、いつだってゆっくりと話してくれる。
しかしカフェの話をする時は例外らしい。最初こそ物凄い勢いで喋りまくる彼に驚いたものだが、今ではもう慣れてしまった。
彼の言葉を一つずつ広い、理解する余裕もできた。
「コーヒーブレイクよりも素晴らしい時間は他にないと思うんだ」
そんなことを大真面目に呟く彼に苦笑しながら、少しだけ苦いコーヒーを飲む。勿論、この時間は、私にとっても「素晴らしい時間」だった。
そんな私達は今、カフェソレイユの一角に座っている。
ミアレシティに向かう度に、私はプラターヌ博士の研究所を訪れた。その度に彼の方からカフェに誘ってくれた。
図鑑をチェックしてもらうだけなら、ポケモンセンターのパソコンで行えばいい。
そもそも頻繁にチェックして貰えるような完成度のものを見せられる程、私は優秀なポケモントレーナーではない。
それでも私は彼の元を訪れた。彼は会う度に私をカフェに誘ってくれた。いつの間にかすり替わってしまった目的に、私は気付かない振りをしている。私は彼に甘えている。
私が彼に話題を提供することは滅多にない。コーヒーを飲みながら、彼ばかりが陽気に、楽しそうに言葉を紡ぎ続けている。
私は相槌を打つだけでいい。彼の笑顔に釣られて笑うだけでいい。
そのような一方的なコミュニケーションだからこそ、私は安心することができた。この歪な時間が私は大好きだった。
人と話がしたかった。楽しい気持ちを思い出したかった。けれど私の口は適切な言葉を紡ぐことができない。カロスの言葉はまだ私に馴染まない。
そんな私の分まで彼は喋ってくれる。私に楽しい気持ちを全て、全て譲ってくれる。
私はそんな彼に感謝の言葉を告げることすらできない。
「こんな夜に君みたいな子を連れて歩いたら、お母さんに叱られてしまうね」
だから次からはもっと早い時間帯に来るんだよ。
そう言ってコーヒーに口を付ける。彼のコーヒー好きは常識を逸している。カフェイン中毒になるんじゃないかと思うくらいだ。
研究所の3階にはいつもコーヒー豆の香りがする。朝の5時でも夜中の1時でも彼は変わらずにそこにいる。
図鑑のチェックをした後に、それじゃあ付き合ってくれるかなと言って私の手を引くのだ。
時間帯によっては今日のようなお咎めを受けるが、そう言いながら明日も彼は私を連れてコーヒーを飲みに行くことを知っていた。
「君はボクみたいになっちゃ駄目だよ」
そんな彼が突如として紡いだその言葉に、私は目を丸くした。
私の耳がおかしくなったのだろうか。寧ろその方がいい。それ程の言葉を彼は吐いたのだ。
「ど、……どうして、そんなことを言うんですか?」
「君もおかしいと思うだろう?ボクは君に甘えているんだ」
私にも解るように、それはゆっくりとした声音で紡がれる。こんなに優しい人が、私に甘えているのだと言って力無く笑っている。
その心中を計り知ることができなかった。ただおかしい、と思った。
彼の「おかしいと思うだろう?」という言葉ではなく、もっと別の所におかしさを見出した私は、ただ沈黙することしかできなかったのだ。
「本来ならボクが君を導かなければならないのに、強くなった君にしてあげられることが何も無い。
何も無いのにボクの元を訪れてくれる君に何かしてあげたくて、取り敢えずボクの好きな場所に連れ出す」
「……」
「そうして君と別れた後、ボクだけが満足していることに気付く。気付いて後悔する」
ねえ、それでも君はボクのところに来るんだね。
彼は優しい。そして残酷だ。簡単に私から荷物を奪い取って、ボクが悪いと笑っている。
そんなことはない。それは間違いだ。彼に甘えているのは私の方で、もし彼の言い分が真実なのだとしたら、私はきっと、自分に甘えてくれている彼に甘えているのだ。
彼の目元には深く隈が彫られている。眠れていないことは明白だった。
彼が何に悩んでいるのか、何が辛いのかは解らない。そんな、何も知らない私を、彼は甘える対象としてくれた。
それで十分ではないか。理屈など要らなかった。
この残酷なまでに優しい彼は、私を何かしらの拠り所にしてくれたのだ。そして奇遇なことに、私も彼を拠り所としている。
他に何が必要だったというのだろう。
「……私は、明日も来ます」
「本当かい、嬉しいなあ。ありがとう。……ありがとう、シェリー」
彼が何に苦しんでいるのかを私は知らない。その核心に触れることを彼は許さない。
今までにも何度か、それとなく尋ねてみたことはあった。しかし彼が本当に悲しそうに笑うので、私は追求することを止めた。
「シェリーはいい子だね」
テーブルの向かいから伸びてきた手が、私の頭を撫でていく。それが嬉しくて、苦しくて、私はテーブルの下に潜ませた手をぎゅっと握りしめる。
私がカロスの言葉に不自由であることを知っている唯一の存在である彼は、優しい。優しいからこそ、彼は私の前で多くを語らない。
勿論、彼は饒舌だ、私の分まで沢山喋ってくれる。けれどその言葉の中に、彼の核心に触れるようなものは殆ど存在しない。
そういう意味では、彼は誰よりも寡黙だった。
「ねえシェリー、沢山の人と出会って、君の人生を豊かにするんだよ。大人になって、もどかしさに泣いてしまわないように」
「……」
「疲れた時は、いつでもボクのところにおいで。ボクは何もしてあげられないけれど、ボクにはいつだって君が必要だから」
彼のその言葉を私は信じられた。けれど、それだけだった。
彼は何に怯えているのだろう。何に悩んでいるのだろう。
眠れない自分を誤魔化すようにコーヒーを常飲し、ボクみたいになっちゃ駄目だよと力無く笑う彼は、何を憂いているのだろう。
何も解らない。私は彼の心を紐解けない。
「次はヒャッコクジムに挑戦だね。頑張って」
応援の言葉を紡いだ彼が、思い出したように何か、別の言葉を付け足すために笑いながら口を開く。
「ボクはコーヒーブレイクが好きだけど、君とのコーヒーブレイクは大好きなんだ。いつもありがとう」
その言葉の本当の意味を紐解くことの叶わなかった私は、ただ頬を僅かに赤くして、微笑んだ。
セキタイタウンに美しい花が咲く、一日前のことだった。
2013.10.21
2016.8.7(修正)