A9:A Chocolate tasting

ズミさんは、とても人気がある。
身も蓋もなく言ってしまえばそれまでだが、その程度は些か度を越していると言わざるを得ない。
このレストランの経営は、始まって以来ずっと赤字になったことがないらしい。それは勿論、美味しい料理があるからだ。
レストランの魅力を高めるのは、そこで振舞われる料理の質と、サービスの質。私はそう思っていたし、それが一般的な常識なのだろう。
しかし、ズミさんがいるレストランではその常識が覆る。
優秀なシェフとして慕われる以上の、もっと別の「思慕」が、今日という日のこのレストランを活気立たせている。

私は頻繁に閉店直後のレストランを訪れる中で、このレストランには「常連客」が多いことに気付いていた。
そしてその常連客の大半を「女性」が占めている。
その理由は推して然るべきだ。つまりシェフであるズミさんを一目見ようと、彼女達はこの、決して安くはないレストランに足を運ぶのだ。

「とても美味しかったです。またお伺いさせて頂きますね」
「このお店の雰囲気がとても好きなんです。気分が落ち込んだり、滅入ったりしたら、必ず此処に来るんですよ」
美しい声で、美しい顔で、美しい言葉を残して彼女達は去っていく。あまりにも洗練された彼女達の「美しさ」に、私は圧倒され、ショックを受けた。
勝てない。勝てる訳がない。彼女達が持つ、全てにおいて美しいその存在は、私にじわじわと劣等感を植え付けるに十分な威力を持っていた。

しかし、私はそんなことを気にしていない振りをした。何も不安に思うことなどない、という表情で、毎日、ズミさんの元を訪れた。
彼は相変わらず私に、あの下手なガトーショコラを頻繁にリクエストしてくれた。私はそれを作り続けていたが、もう以前のような辛さは感じなかった。
ズミさんが本当にそのガトーショコラを美味しいと思ってくれていること、私がそれを作ることを嬉しいと思ってくれていることが解ったからだ。
私達の関係は、こんな風に少しずつ、少しずつ進んでいたのだ。

シェリー、またあのガトーショコラをお願いしてもいいですか?」

ズミさんはまたしてもそんなことを言った。
私はついおかしくなって「ズミさん、明日が何の日か忘れてしまったんですか?」と尋ねてみた。
明日は2月14日、バレンタインデーだ。そんな日に、あの卵と苦めの板チョコだけでできてしまう手抜き極まりないガトーショコラだけでいいのかしら、と私は思ったのだ。
私は努力が嫌いだが、一年に一回しかないこの日くらいは、もっとそれなりのものを彼に作ってあげたかった。
けれど、彼がいつもの味を望んでくれるのなら、答えるのにやぶさかではない。少なくとも、あのガトーショコラなら失敗せずに作れるという自信があった。

「でも、あんな安物の材料で作ったお菓子、ズミさんの口に合わないでしょう?」

ズミさんは肩を竦めて小さく笑い、「材料の値段は関係ありません」と私の言葉を即座に切り捨てた。
洗い物をしていた手を止めて、私に向き直る。流水に冷えた手で私の頭をそっと抱く。顔が私の目線に屈められようとしていることに気付いた私は、慌てて目を閉じた。
上手にリップ音を立てて離れていった唇で、ズミさんはとんでもないことを紡ぐ。

「あれを食べると、ほっとするんですよ。いつもの味だと思えて、嬉しくなる。……何故でしょうね」

「!」

瞬間、真っ赤になった私の顔は、果たしてキスが原因だろうか、それとも、彼の言葉が原因だろうか。
それとも、そのどちらもがそうさせたのかもしれなかった。

そしてその翌日、私はいつものように、閉店直後のレストランにお邪魔した。
そこでズミさんを発見する前に見つけてしまった、机の上に出来た大きな山は、バレンタインという日で浮かれていた私の気分をどん底に突き落とした。
そうだ、どうして考えなかったのだろう。私が彼にチョコを贈りたいと思うのに、私でさえその発想に至るのに、あの美しい女性たちが同じことを思わないはずがない。
そしてそれらのチョコの出来はきっと、私の粗末なガトーショコラよりもずっといいのだ。

「……」

何故、そんなことをしてしまったのかよく分からない。
ただ一つ、その行為を終えた今になって理由を付けるとするならば、きっと私は彼に抗議をしたのだ。

『いつもの味だと思えて、嬉しくなる』
……私を舞い上がらせたあの発言は、ただのお世辞だったのでしょう? 私を傷付けまいとして発された、やわらかな嘘だったのでしょう?
私は彼を責め始めていた。何も悪いことをしていないはずの彼を責める私が大嫌いだった。

ゆうに30はありそうなそのチョコレートの山の中に、私は作って来ていたガトーショコラの入った包みを放り込んだ。
バレンタインということで、いつもの容器ではなく、バレンタインに相応しい箱とリボンを用意していた。特別な日に相応しく、メッセージカードも添えてある。
見た目だけは他の包みと変わらない。私はそのことに酷く安堵していた。

そして私はズミさんの元へと赴く。彼はいつものように洗い物をしていた。
ズミさん、と呼ぶその声が震えていたことに私は驚いたが、それ以上にズミさんも驚いていた。
そっと振り返り、私の顔を見るなり少しだけ怪訝そうな顔をして「どうしました?」と尋ねてくれる。
ごめんなさい、ごめんなさい。何も悪くない貴方を責めてしまってごめんなさい。

「バレンタインのプレゼント、あの中に入れておきました」

ズミさんの制止を待たずに私は駆け出した。直ぐにでも涙が溢れ出してしまいそうだったからだ。

レストランを飛び出した。ミアレの町を全速力で走り、路地裏に飛び込んで声を押し殺して泣いた。
分かっている。彼は何も悪くない。けれど私だってそこまで鈍感に出来てはいない。
あんなに大勢の美しい女性たちに好かれているズミさんに、何の取り柄もない私が選ばれたことが信じられなくなったとして、
彼女達に酷い劣等感を抱いていた私が、ズミさんに相応しくないんじゃないかと思い始めていたとして、それはだって、当然のことではないだろうか?

どれくらいそうしていたのだろう。私は路地裏の奥で、嗚咽を零しながら泣き続けていた。
みっともない劣等感を抱く私が大嫌いで、その改善のための努力もろくにできない私が大嫌いで、大好きな人に八つ当たりをしてしまう私が大嫌いで、泣いていた。
だから、肩に触れられた手に気付くのが少しだけ遅れてしまった。

「!」

私はその手を振り払おうとして、言葉を失った。
走って来たのだろう、息を弾ませて私を見る彼の手元には、私が作ったガトーショコラが入っていた小箱が入っていたからだ。
どうして、と紡ぐ私の声はやはり震えていた。ズミさんは大きく溜め息を吐いてその問いに答えをくれた。

「11箱目で、ようやく見つけました。食べ過ぎで胃がどうにかなってしまいそうです。
本当はカードの字で判別できればよかったのですが、生憎、私は貴方の書いた字がどんな形をしているかを知らないので」

カードまで添えて頂いて、ありがとうございます。
そう付け足したズミさんの言葉を、私はまだ咀嚼することができずにいた。11箱。……11箱?

「ま、待ってください。11箱、食べたんですか?」

「ええ。一口ずつ食べました。貴方が気紛れにガトーショコラ以外のものを作っている可能性も考慮して、トリュフもクッキーも一口ずつ、全て」

信じられない、という顔をした私に、彼は不機嫌そうに眉をひそめた。
11箱のチョコをこの短時間で開けたことが信じられないのではない。私はカードに自分の名前など書かなかったのだ。
それなのに彼は、私の作ったガトーショコラを当ててみせた。その事実が信じられずに言葉を失う。
ズミさんは大きく溜め息を吐いて、不機嫌そうに、そして少しだけ楽しそうに口を開く。

シェリー、私が貴方に嘘を吐くような人間に見えたのですか?」

「え、だって、ガトーショコラを作っている人は他にも沢山、いたでしょう?」

「このズミを甘く見ないでいただきたい。好きな人が作ってくれたものの味くらい、一口で判別できます」

ぱちん、と大きな風船が弾けるような音が脳裏で響いた気がした。くらくらとやわらかな目眩がして、私はみっともなく零れ続ける嗚咽を止めようと努めた。
ズミさんはそんな私の肩をそっと抱いた。ふわりと漂ってきたチョコの香りは、確かに私が今日、自宅で作った板チョコのそれだった。
折角のバレンタインです、そろそろ泣き止みませんか? と言われ、私は小さく頷いて嗚咽と戦っていたのだが、何故かそれはなかなか止まってはくれない。
ズミさんはそんな私の背中をあやすようにそっと叩いた。

「ゆっくりで構いませんよ。貴方の可愛らしい嫉妬に免じて、私の発言を疑った件もなかったことにします」

彼はそうして、私の酷い劣等感を悉く見抜き、それを「可愛らしい嫉妬」として許すのだ。
きっと私は、彼に何処までも敵わない。けれどこの人のことが好きだ。不釣り合いでも、似合わなくても、その思いだけは譲れなかったのだ。

「ズミさん、ありがとうございます」

ようやく収まりかけた嗚咽の合間にそんなことを紡げば、彼はおどけたように肩を竦めて笑ってみせる。

「何故、貴方がお礼を? 私は貴方に何も差し上げてはいないのに。それを言うべきはむしろ私の方であるはずなのに」

そんなことはない、と否定するだけで今は精一杯だった。
いつか、私の「ありがとう」の中身を開いて、彼に説明できるようになれたらいいのに。私の想いを包み隠さず伝えられる、そんな日がいつか来ればいいのに。

2015.2.14
(「愛」の品評会)

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