A4:Self-defense

私は愕然としていた。「こうした行為」はもっと高尚な過程を経て、とても儀式的に、厳かに、しかしとても優しく執り行われるものだと信じていたのだ。
夢を見過ぎていると言われればそれまでだが、それでも私は自分の想像が間違っていたとは思わない。
相手の体温に触れて、そっと握れば数秒の間を置いて強く握り返してくれる。その瞬間に確かに世界は色を変えるはずだった。
「これ」はそうした夢のような行為であるはずだった。
しかし彼は本当に乱暴な手付きで、私の腕を取ったのだ。努めて素っ気なくしているような様子でさえあった。
想像していたものとの隔絶に私は言葉を失い、その想像から欠けた部分をどうにか埋め合わせたくて、口を開いた。

「私はズミさんの「もの」じゃありません」

その言葉に彼は立ち止まってくれた。そのことが唯一の救いであるように思えた。
しかしあまりにも脈絡なく発せられた私の抗議に、彼が怪訝な顔をするのは必至だった。それは否定しない。仕方のないことだと理解できる。
しかし理解できることと納得できることはまた別だ。私は納得できない。私は、納得した振りをしてお利口に振る舞いたくはない。

「いきなり何を言い出すのです」

「だ、だってこんな」

こんな、何だというのだろう。私はその言葉に何を続けようとしていたのだろう。
アスファルトに視線を泳がせた私は、取りあえずこの手を離してほしいと頼んだ。
基本的に、彼は私の嫌がることはしない。故に今回も何も言わずに強く握られていた右腕の拘束は解かれた。

「私と手を繋ぐのは嫌ですか」

「いいえ」

「では、何故?」

彼は益々解せない、といった風に首を傾げた。
ミアレの大通り、それも人の行き交う休日の真昼に、彼の存在は一際目立つ。四天王であり、有名なレストランのシェフである彼を知らない人の方が少ない。
私が彼を困らせないようにする方法はただ一つ。やっぱり何でもありません、と誤魔化すように笑い、黙って隣を歩いて人混みを抜けることであるはずだった。
事実として、数日前の私ならそうしていた。それなのに今、それができないのは何故なのだろう。

それはきっと、私にとっての彼が四天王ではなく、有名レストランのシェフでもない、ただ一人の私の恋人として在るからなのだろう。
……そう、私達はそういう関係だった。二人の間にそのような、大層な名前が置かれたのはつい最近のことである。
故に私は、二人の間に付けられた名前が与える意味を正しく理解しなければいけなかった。その結果、私は彼と対等でありたいと思ってしまったのだ。

何と欲深いことだろう。私は自分の心境の変化に頭を抱える羽目になった。
私は、好きになってくれるだけで良かったのではなかったのか。私でもいいかと思ってくれるだけで幸せだと、確かに思っていたのではなかったか。
これ以上何を望むことがあるというのだろう。他に何が必要だったというのだろう。
人が抱えきれる幸せには終わりがないように感じる。それは人が幸せに陰りを見出すことが得意だからであり「もっと」を望むことにあまりにも慣れすぎているからだ。
私も、その「人」の一人にすぎない。私はそのことに薄々気付き始めている。

シェリー、どうしました」

「……」

私は沈黙した。もうここまでくれば、私の我が儘な願いを暴露してもしなくても同じだと思った。
しかしそれがここにきてどうしても躊躇われている。きっとこんな我が儘な私を彼は許さない。呆れられるかもしれない。見限られるかもしれない。
折角私を好きになってくれたのに、それだけは避けたかった。
しかしそもそも彼は本当に私を好きなのだろうか。こんな何の変哲もない平凡な人間の何処を好きになってくれたのだろうか。
こんな素敵な人が私に注意を向けてくれている、この時間は本当に存在しているのだろうか。私は夢を見ているのではないだろうか。
私はそれらが生む魔法の奇跡を未だに信じられずにいた。

彼は何かを考え込む素振りを見せ、首を小さく曲げて私の視線に合わせるようにした。
四天王の部屋を連想させる水色の目を私は恐る恐る覗き込んだ。その目に困惑の色が浮かんでいるのに気付いた私は、先程までの怯えを忘れてただ茫然としたのだ。

シェリー、わたしは貴方の心を読める訳ではありません」

「……はい」

「しかし貴方のことは解りたいと思っています。それには貴方の協力が必要なのですが、今は言い辛いですか?」

その目の色と声音に、私は私の持っているものと同じ種類のものを読み取った。
それはとても信じられないことで、しかし根拠のないまま、私は直感的にそれを信じようとしていた。
私と同じ色をしていると感じたのだ。それに根拠などなかった。しかし私と同じように彼も不安なのだと確信した時、私の口からあれ程躊躇っていた言葉がするりと零れ出たのだ。

「腕じゃなくて、手を取ってください」

すると彼はその頬を僅かに赤く染めた。私よりも一回り年上である彼に差した幼い色に私はとても、驚いた。
何か恥ずかしいことを言ってしまったのだろうか。今のは失言だったのだろうか。
しかし彼は大きな溜め息の後の苦笑して、小さく、本当に小さく言葉を紡いだ。

「喜んで」

そしてその瞬間は唐突に訪れる。すなわち私の右手に彼の手が伸ばされたのだ。
ミアレの喧騒はアスファルトに溶けてしまった。街の音の一切は一瞬にして私の耳元を離れ、遠くへ飛んでいってしまった。
彼の手は思っていたよりも大きく、私よりも僅かばかり温かかった。私はそっと、力を込めた。
これが彼の手、強いポケモン達の入ったボールを投げる手、美味しい料理を作り続けてきた手だ。
そう、私にとって彼の手に触れるということはそうした意味も含まれていた。だからこそ、妥協できなかった。
俗めいた言い方をするなら、恋人になったら一番に彼の手に触れたいと思っていたのだ。
これは馬鹿な考えなのだろうか。私は魔法にかけられているのだろうか。愚かな私を更に愚かにする恋という魔法を、私はもう受け入れてしまっているのだろうか。

「この手で、沢山の料理を作っているんですね」

私は感慨深くそう言った。私の我が儘を彼が聞き入れてくれたことに確かに安堵していた。それは紛れもなく私の本心から紡がれた感慨だった。
しかし彼の返事は返ってこなかった。怪訝に思って隣を見ると、彼は慌てて顔を横に背けたのだ。

「……貴方は、私が完璧な大人だと思っているのかもしれませんが」

やや早口で乱暴に紡がれたそれに驚く。しかしもっと驚いたことに、彼は顔を横に背けたまま、繋がれた手を強く、本当に強く握り返したのだ。

「私は、好きな人とまともに手を繋ぐことすら気恥ずかしくてできない、そんな矮小な人間なのですよ」

「!」

「……どうぞ、呆れてください」

その瞬間、私の胸を占めた感情の名前を私はまだ知らない。
知らないからこそ、私はただ笑うことができたのかもしれなかった。

「どうして?」

彼はその言葉に、本当に安心したように握った手の力を緩め、こちらを向いてくれた。
その目の色はやはり私のそれと同じだった。確かな安堵と確信がそこにあった。そう信じられたのだ。
私は魔法に掛けられているのだろうか。恋人だなんて甘美な響きに酔っているだけなのだろうか。しかしそれならそれでいいと思えた。
それが、私が彼の隣に対等な位置として立てるきっかけになるのなら、そしてそこから新しい関係が作られていくのなら、私はそれを受け入れたい。
そしてきっと、それを彼も許してくれる。

それでもやはり、私よりも一回り年上である彼に似合わない言動と仕草と染められた頬がおかしくて、私は笑った。
彼は不機嫌そうに眉をひそめて「この痴れ者が」と怒鳴りつける代わりに再び手の力を強めた。

2014.2.13
(自己防衛)

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