A10:The day when fear burned out

彼はずっと、待ってくれると思っていた。

年上の男性と付き合っている。この状況を、第三者はどのように見るのだろうか。
甘えさせてもらえそうだと羨ましがるだろうか。一回りも年が離れている相手と付き合うなんてできないと拒絶するだろうか。
けれど、それらは年上の男性と付き合い始めた「結果」として降って来るものだ。
私は甘えたいがために年上の人を好きになった訳でも、年が離れているから好きになったのでもない。
好きになった人との年齢が、たまたま私と少し離れていた。ただそれだけのことなのだ。その年の差が意味するところに気付いたのは、ずっと後の話だった。

年が離れている。
どう足掻いても塗り替えられないその事実は、あらゆる局面で私の心を真綿のように締め上げた。

例えば、彼はキスが上手だ。
恋人なのだからキスの一つや二つしたとして何ら不思議ではない。それくらいは私も心得ている。
問題はそのキスの種類にあった。私は唇を軽く合わせるだけのキスしか知らなかったのだ。
今でも覚えている。初めて彼からされたキスは私の知っている所謂「バードキス」ではなかったのだ。私はたったそれだけのことに驚き、酷く怯え、狼狽した。

何の躊躇いもなくそうしたキスをやってのけてしまった彼と、キスをされることすら初めてであった私の、経験の差を痛い程に感じて、私は怖くなった。
慣れている、と思った。自分があまりにも子供であることが恥ずかしかった。私は彼と手を繋げたことで満足していた。そんな小さな人間だった。
私が描く恋愛観と、彼のそれとは大きく異なっていた。それは紛れもなく経験と認識の差であり、その差を作ったのもやはり、私と彼との、年の差だ。

次に、彼は優しい。
彼よりもずっと幼くて拙い私に対して、苛立ったり呆れたりすることはない。叱ることすらせずに、ただ穏やかに手を引いてくれるのだ。
たまに自分のペースに追い付くようにと急かすこともあったけれど、それだって大抵は、私の無理のない範囲で行われていた。
彼に比べれば、私の歩くスピードは遅すぎる。恋の展開も、想いの加速も、何もかもが彼よりも遅れている。
彼に追いつけない自分に時折嫌気が差すけれど、それでも彼は手を離さない。私はそれに甘えていた、甘え過ぎていたのだ。

恋人って、もっと対等な関係を指すのではなかったのかしら。
これでは親子だ、と私は思ったが、彼が私に求めてくる行動は、他ならぬ恋人としてのそれだった。
手を繋ぐ、頭を撫でる、抱きしめる、キスをする。……後半のそれは、世間で言うところの親愛を遥かに通り越した行動だった。
だからこそ私は、年の離れた彼の恋人なのだという自覚を持つことができた。

繰り返すが、私は彼が年上だから好きになった訳ではない。好きになった相手が年の離れた男性だっただけのことだ。
だから私は本来、恋人である彼にされるがままになるのは本意ではない。手を引いてくれるのはとても嬉しいけれど、私はそこへ到達するための努力をすることができない。
私の甘え方は、とても卑怯で自分勝手なものだったのだ。

「ズミさん」

彼が持っている恋愛観に、自分の臆病かつ鈍足な恋愛観を埋め込んで改変してやろう、などという気があった訳では決してない。
私は彼と、手を繋げるだけで満たされていた。頭を撫でられて、抱き締められるだけでよかった。
その先にキスがあって、さらにその先が存在することを知らない訳ではなかったけれど、それだけで十分だった。
それ以上を欲しいとも思えなかったし、私は第一、彼からされるキスにすら慣れていないのだから。

「は、離れてください……」

だから、彼にいきなり後ろから強く抱き締められたとして、彼の私を呼ぶ声が私の鼓膜を今までにない温度で震わせたとして、
それに私が驚き、慌てて、恐れて、顔を赤くして拒んだとして、それはだって、当然のことであるはずなのだ。

……私の思う恋愛と、彼のそれとはいつだって隔たっている。この隔たりは、経験と認識と年の差が作ったものだ。
そしてその差を、私はまだ埋めることができていない。
彼のことを好きになりきれていない、などということは絶対にない。それだけは確かだった。迷いようがなかった。
私の想いが彼のそれよりも軽い、などということは在り得ない、はずだ。

ただ、彼の歩幅が大きすぎるだけだ。私が全速力で走ってようやく辿り着けるところの、そのもう一歩だけ先から、ごく自然な調子で私を呼ぶ彼に、驚かされているだけだ。
彼が引っ張って導いてくれる新しいとこへ、すぐには馴染めずにいるという、ただそれだけなのだ。
だからこの感情は悪いことではない。当然のことだ。歩幅が違うのだから、当然のことだ。これは……この恐れは、認められて然るべきだ。

そうですよね、ズミさん。
貴方は、貴方だけは私を許してくれるんですよね。

「違うんです、嫌じゃないんです。嫌ではない、けれど」

「……」

「その、怖いから」

その言葉を受けて、彼はそっと腕を解き、私から離れてくれた。
私はそのことに安心しきっていた。あれ程、嵐のように吹き荒れていた自己弁護の言葉は、この数秒の間に呆気なく凪いでしまった。
ほら、やはり彼は私を尊重してくれる。私の恐れを許してくれる。そして私の手を取って、上っていた恋を一段だけ、降りてくれるに違いないのだ。
彼のそうした優しさに、私はまた焦がれていくのだ。

私は自分の頬の赤が収まるまで待った。恥ずかしさによる火照りを感じなくなった頃に、ゆっくりと彼の方を振り返った。
ごめんなさいとありがとうを同時に紡いで、彼の手をそっと握るつもりだった。彼にとってはもどかしすぎるであろう私の歩みを、それでも彼は笑って許してくれると信じていた。

けれども彼はそんな私の腕を強く引いた。ぐいと、まるで車道に踏み出した子供を引き戻すような強引さでそうしていた。
あまりの力に小さく声を上げかけた私の口を、彼はあろうことか噛みつくように塞いでみせたのだ。

「!」

彼はずっと、待ってくれると思っていた。けれどそれは間違いだった。
そう気付いた瞬間、私の中の「それ」が大きくひび割れて、パラパラと砂のように崩れ落ちていった。

「それ」の残骸を足で踏みつけるようにして、私は足を彼の傍へと置いた。その背中にぎこちなく腕を回して強く縋り付いた。
きっと彼の目は驚きに見開かれているのだろう。けれど私は、止めなかった。

彼はもう、私を待ってくれない。私が彼を拒むことを、もう彼は許さない。私の「待って」という言葉はもう届かない。
その事実は私に恐怖しか与えないはずだった。
嫌だと、やめてくださいと、信じていたのにと、悲鳴交じりの声音で叫んで然るべきだった。私なら、きっとそうするはずだと信じていた。

それなのに、湧き上がってきた感情は、私の想定していたものとは全く異なっていた。

彼が私の制止を拒んでまで、私に対して何かを求めてくれている。そのことを私はこの瞬間に確信したのだ。私の背中に回された腕の強さがそれを証明していた。
私の手の中に在るその確信がただ純粋に嬉しかった。頭がおかしくなるのではと不安になってしまうくらい、嬉しかった。
そんな歓喜ともう一つ、名状し難い感情が心臓を大きく揺らしていた。
愛しさに限りなく近いそれを、小さな子供に抱くようなそれを、一回り年の離れた相手に抱くことになるとは夢にも思わなかった。

縋るようなキスを続け、最後に小さなリップ音を立てて彼は離れていった。私はさっと俯こうとしたのだが、彼の手が私の顎を掬い上げたのでそれは叶わなかった。
ずっと息を止めていたので頭がくらくらする。数秒置いてから、ようやく彼の目に焦点を合わせることができた。
彼はとても穏やかに笑ってみせる。

「貴方が怖くなくなるまで、続けます」

どうして、と私は思う。
どうして彼は今になって、私を待つことを止めてしまったのだろう。

「……」

シェリー、答えてください。今も私を恐れていますか?」

彼はもう、触れるだけのキスを私のためにすることはきっとない。手を繋いだだけでこの世の至福を極めたような表情を浮かべることも、きっとない。
彼の歩幅はいつだって大きいのだ。恋を一段飛ばしで駆け上がっているようなところのある人だった。けれども私の小さな歩幅を無視したことはなかった。
いつも、私が息切れを起こせば振り返ってくれて、歩みを緩めてくれて、時には足を止めてくれて、あるいは歩を戻しさえもして。
その「歩幅を縮める」という彼の優しさが、今になって完全に失われてしまったことに、驚きがないと言えば嘘になる。怖くない、などと断言することもできない。
けれど、臆することなく私に問いかける彼の声は立派な大人のもので、けれどもこちらに期待を寄せるその目はまるで青年のようで、
今まで無邪気に恋を駆け上がってきたところを思い起こせばそれは少年のようで、それでいて、私の返事を待つその沈黙は子供のようで。

そこまで考えて、私は息を飲んだ。
よくもそのような、驕ったことを思えたものだと、罪悪感と愉快さが混ざった不思議な感情が私の胸を満たしていた。

私は、この1年余りの彼しか知らない。なのに私はもう、彼の昔の頃も、幼い頃も、全て知ったような気になってしまっている。
この驕りは、私にはいよいよ相応しくないこの認識は、彼がくれたものだ。彼と駆け上がった恋というものがそうしたのだ。私は彼に恋をしていた。

そして彼もきっと、似た驕りをその手に握りしめている。
こうして抱きしめて、キスを降らせて、心臓の音が伝わる程の距離で私の名前を呼び続けていれば、いつか私の恐怖がなくなるはずだと確信しているのだ。
それは、臆病な私を知る人が聞けば「そんな馬鹿な」と笑ってしまうような突飛な驕りで、それを手にする権利をきっと彼だけが有している。
……私だ。私が、いつの間にか彼にその驕りを取らせることを許したのだ。私が彼に差し出してしまった。
だから今、彼はその驕りを掲げている。驕りという恋の副産物と共に私の名前を呼んでいる。

「とても怖い。出会った頃より、恋人になったばかりの頃より、ずっとずっと怖い。でも、大丈夫です」

「……」

「もう私を待たないでください、ズミさん」

もしこれが、これこそが恋であったなら、なんて幸せなことだろう。

2015.3.14
(2015.7.13 修正)(2019.2.17 大幅修正)
(恐怖が燃え尽きた日)

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