あんなに小さな石に宿っていたとは思えない程の大きく勇ましい体躯が、私の前に圧倒的な気配で佇んでいた。鋭い赤が真っ直ぐに私を見下ろしていた。
何故、今この時に彼が姿を現すに至ったのかは解らない。けれど驚きに息を飲む私に反して、Nはその顔に微塵も驚愕の色を宿していなかった。
ポケモンの声が聞こえる彼には、何故このポケモンが姿を現したのか、何故私を「英雄」と認めたのか、その全てが解っているのだろう。
案の定、「どうして」と私が呟くより先に、彼はその柔和な笑顔をこちらに向けて説明してくれた。
「キミの覚悟をゼクロムが認めたから、カレは姿を現したんだよ」
「……嘘で塗り固めた私の、はりぼてみたいなつまらない覚悟を?」
「きっと嘘であるか否かは問題ではないんだ。キミがボクと戦うという意思、そのために力を求めるという意思、それにダークストーンは共鳴したのだと思う。
そしておそらく、それはキミだけの覚悟では足りなかったのだろう。ボクも覚悟を決める必要があったんだ。ゼクロムはそれを待っていたんだ」
私と彼が覚悟を決める時を、このポケモンはずっと待っていた。
Nの腕に縋って全てから逃げ出した時も、みっともなく泣いていた時も、このポケモンはそうした私の姿をずっと見ていた筈なのに、ずっと、見限らずにいてくれたのだ。
私の味方は、こんなところにもいてくれたのだ。
この、あまりにも大きくて眩しい存在を、私は絶対に守らなければいけないと思った。その誓いに理由など、きっと要らない。
「さて、キミが英雄となるための全てがようやく揃ったね。キミはいつでも旅を再開することができる筈だよ。今からでも10番道路に戻るか、それとも……」
早口で今後のことを語るNの口を、私はえいと背伸びをして右手で塞いだ。
困ったように眉を寄せて首を捻る彼に、私はもうすっかり更けてしまった夜を指差して笑う。
私達はもういつでも歩き出せる。いつでも歩き出せるのならば、今すぐにと急ぐ必要だってない筈だ。少しくらいイッシュやプラズマ団を待たせたところで罰など当たるまい。
*
キャンプカーの床で眠るのも、夜空の下で眠るのも同じことだと判断した私は、外にビニールシートを敷いてその上に寝転がった。
寝袋を使えばもう少し快適だと解っていたけれど、Nがそうした寝具の類を全く持っていなかったため、私だけが使うのはどうにも憚られたのだ。
「こんな風に外で眠るのは初めてだよ」と口にした彼は、しかしどこかはしゃいだ様子で地面に寝転がった。
小石が背中や頭に当たらない位置を探すことに夢中になっていた私達は、暗闇の中で何度も互いに頭をぶつけ、その度に声を上げて笑った。
ようやく落ち着ける位置を見つけた私のすぐ隣にNは腰を下ろしたので、私は寝相が悪いからあんたを蹴り飛ばすかもしれないわよと脅せば、
彼は困ったように笑いながら少しだけ距離を取り、けれど互いに手を繋げる程度の近さを保って寝転がった。
手を繋いだまま眠るという難しいことが果たしてできるのだろうかと思ったけれど、横になった途端、強烈な眠気が襲って来たから、おそらくその心配は杞憂だったのだろう。
私は握る手の力を強めたり弱めたりして遊んだ。彼はクスクスと笑いながら、少し遅れて強くしたり弱くしたりした。
その度に、彼の指に貼られた絆創膏が私の指に触れた。カサカサとした、指では有り得ないその感覚さえも楽しむように私は笑った。
それは幼い子供がじゃれ合うようないじらしい行為にも、長年連れ添った老夫婦が肩を寄せ合うような穏やかさを極めた儀式にも似ている気がした。
「ねえ、トウコ。もう一つだけ聞いてもいいかい?」
暗闇の中に響くNのテノールは、しかし睡魔に襲われていた私には子守唄のように聞こえた。
「私が眠ってしまわない内に言いなさい」と告げれば、しかし彼も眠気と戦っているのか、いつもの早口を忘れたかのような緩慢とした口調で告げる。
「キミはボクを大嫌いだと言うけれど、でも助けたいと、一緒に嘘を吐こうと、ボクのことが大切だと、言ってくれるよね」
「……そうよ。それがどうかした?」
「けれどボクには、その二つの感情は相反するものであるような気がするんだ。勿論、キミの言葉に嘘がないことは知っているよ。知っているけれど、解らないんだ。
対極にあるようにさえ思われるその二つの心を、キミという一人の身体に共存させることは、とても難しいことであるように思われてならないんだよ」
Nのことを大嫌いだと言いながら、しかし私は同じ口で彼を助けたいと紡いでいる。
どこまでも相容れない形を取り、自らが人であることすらも上手く認識できない彼に辟易しながら、それでも彼のことが大切だと告げている。
イッシュの狡い大人の言いなりになどなりたくないと言いながら、しかし私は最終的に、こいつと共に嘘を吐き、彼等の望んだ英雄の姿になることを選んでいる。
彼はそうした、相容れない感情が私という一人の身体の中に詰め込まれていることが、どうにも不思議でならないらしい。
けれど私にとってはそうした全ての感情が、当然のことであり、Nへの想いを構成する何もかもであったから、私は彼に理解されないことを解っていながら、紡いだ。
「難しいことなんかじゃないわ。嫌いだけれど大切で、気に入らないけれど見限れない。そうした感情は確かにあるのよ。私達はそうした、矛盾だらけの狡い生き物なの」
「けれどボクはそうした感情を経験したことがないよ」
「でも私は知っているわ。その複雑な想いを持つ私が知っているのだから、きっとその全てが真実よ。……いけない?」
いよいよ睡魔に耐えられなくなって目を閉じた。
彼はおやすみを囁くように、小さな声音で私の、答えになっていないような乱暴で強引な答えの形を肯定してくれた。
「いや、素晴らしい答えだよ」
*
夜明けと共に目が覚めた。固く繋いで眠った筈だったけれど、私達の手は離れていた。当然のことだと解っていたから、特に落胆したりはしなかった。
すぐ隣で眠るNの顔には木の葉が何枚も降り積もっていて、私は笑いながらその葉を払い取った。
その気配で目を覚ました彼は、ひらひらと落ちてくる葉をとても眩しそうに見つめて笑った。
女の子にしては少しだけ低いアルトの声音と、男の人にしては少しだけ高いテノールの声音とが、同じおかしさに震えて重なり、まるでコーラスのように木霊した。
そんな不思議なぎこちない共鳴の音は、高く上がった日が木漏れ日となり、私達に眩しく降り注ぐまで続いた。
現れたゾロアークにお礼を告げてから、私はビニールシートを粗く畳んで鞄に詰め込んだ。
ゼクロムの入っているボールを勢いよく宙へと投げ、乗せてほしいと頼むべきだろうかと少しばかり思案したけれど、いいや、と思い、ひょいとその背に飛び乗った。
ゼクロムの背中に乗るのは初めてである筈なのに、まるでずっと前から私はこの背中を知っている気がした。そうした無礼で図々しい私を、ゼクロムは許してくれた。
ゼクロムとレシラムはほぼ同時に迷いの森を飛び立った。そのままライモンシティの上空を通り過ぎ、ねじ山を西に見据えつつ、北へ向かった。
隣を飛ぶレシラム、その背中に乗っている彼を見遣った。彼はあまりにも朗らかに笑っていたから、私も楽しくなって「どうしたの、いい顔をしているじゃない!」と告げた。
私とNの長い髪を巻き上げる程の強い風が吹く上空では、互いに大声で言葉を発しないと相手に届かない。
彼もそれを解っているからか、大声で、それでいて朗らかな眩しい笑みは崩さないままに、不思議な言葉を紡いでみせた。
「キミと出会えたことでボクに訪れた一番の幸福は、空がボク等の上に在るものだと気付けたことだ!」
……残念なことにこの時の私は、彼の言葉が意味する本当のところに辿り着くことができなかった。
空は私達の頭上に在るものだと、そんな当たり前のことを彼は幸福だと言う。その本当の理由を私は解らなかった。けれど私は微笑んだ。
理由など解らずとも、彼が嬉しそうに笑っていて、私もそれが嬉しくて笑っていた。それが全てであるように思えたのだ。
彼の全てを理解できずとも、こうして隣を飛ぶことはできるのだ。
「空はボク等の足を縫い付けるものでなく、ボク等を自由に羽ばたかせてくれるものだったんだね。……ねえ、トウコ。またボクと一緒に空を飛んでくれるだろうか?」
そう尋ねる彼の背中にはまだ、ふわふわと白い糸が泳いでいた。
けれど私はもう、その糸を睨みつけることはしなかった。
「当たり前でしょう!」
至極嬉しそうに微笑んだ彼、その背に揺れる白い糸はまだ消えない。きっと私の黒い糸だって、まだ数え切れない程に沢山、残っているのだろう。
けれど私達は一人ではない。ポケモンがいてくれる。片割れと呼ぶべき存在だっている。そんな私達の理想と真実は、ゼクロムとレシラムに無事、届いている。
私達の背中に垂れていた黒と白の長い糸、その伸びる先にある空へと羽ばたいて、今、こうして二人で駆けている。
もうその糸は私達を吊るさない。私達はイッシュの狡い大人にも、プラズマ団にも食い潰されるつもりはない。
そうした全ての糸に屈しない力、それを私達は二人でようやく手にするに至ったのだ。
二人でようやく一つの形を取ることが叶った私達を、人はひどく不完全で歪なものと見るのかもしれない。
一人でしっかりと地に足を着け、正しい呼吸をすることの叶う人にとっては、私やNの在り方など、なんと弱く脆いことかと思うのかもしれない。
愚かなことだと嘲笑の対象となってしまうのかもしれない。私達は世界に見限られてしまうのかもしれない。
そうした見方は、きっと正しいのだろう。だから貴方たちが何を言おうと構わない。
けれど私はもう揺らがない。誰に嫌われようと、誰に見限られようと関係ない。そんなことでもう私の酸素は奪われない。
糸に吊るされた私達のダンスは、こうして終わりを告げた。
2016.4.9
(「ジゼル」より、最愛の人の墓を訪れた青年と、彼の手を取り驚く程に軽やかなステップを踏む、か弱く美しい幽霊の少女)