(Good night and have a nice dream.)
『今日は用事があって来られません。ごめんなさい。また明日、此処でお話をしたいです。』
いつも待ち合わせをしていた背の高い木、その枝にたった一行だけ書いた手紙を括り付けた。
黄色い便箋は白一色の景色の中で一際目立っていて、これなら彼も見つけてくれるだろうと大きく頷く。
本当は彼に直接、連絡を入れるべきだったのだろう。
昨日、連絡を入れ忘れていたのだから、本当は今日、彼が来るまで待ってから、「この後用事があるから会えない」と告げるべきだったのだろう。
けれど私はそれを避けた。昨日の絶望を私はまだ引きずっていた。全てをなかったことにして、再び笑顔で彼の名前を呼べる程、私は大人びてなどいなかったし、強くもなかった。
もう少し、もう少し時間が必要だった。そうすればまた、私はいつものように笑顔で彼と顔を合わせることができる筈だ。
「ダークさん」と彼を呼ぶその音が、他の誰でもない彼を呼ぶための音であることは、彼に理解されずとも、私だけが心得ていればいい。
そういう風に納得するための時間が、もう少し欲しかった。だから私は彼に会うことなく、クロバットに乗り空へと飛んだ。
行き先は、プラズマフリゲートだ。
*
「おや、あのヒトモシがもう進化したのですか。早いですね」
主を失ったその船に、私は頻繁に足を運んでいた。
甲板で毎日のようにアクロマさんとバトルをし、日を重ねるごとに寒くなる海の風に身体を震わせて「寒くなりましたね」と言い合った。
彼はまた、私が彼等の居場所を奪ったことに罪悪感を抱いていることを、唯一、知っている人でもあった。
「答えなどない問題の方が多い」と口にした彼の前で、私が吐露することを許された感情はあまりにも多かったのだ。私のそうした終わりのない後悔を、彼は許してくれた。
「これから何をすべきか決めかねている」と告げる彼の目も、やはり悲しそうなことに変わりはなかったけれど、
それでも彼は私とのバトルに何か、鬱屈したものではない、もっと別の明るいものを見出してくれていたようだった。
私は彼のことを純粋に慕っていたし、彼が私のことを評価してくれていることもまた、純粋に嬉しかった。
けれど冬になってから、私の旅の拠点は専らセッカシティに移っていた。
12月に入ってもう2週間程が経とうとしているにもかかわらず、私は彼と一度もバトルをしていなかったのだ。
何も言わずに訪問を絶やしたことに対する私の謝罪を、しかし彼はいつもの穏やかな微笑みで許してくれた。
アクロマさんは聡明で博識な人だから、きっと彼には私の償いなど不要だったのだろう。それなのに私は彼の下へと頻繁に足を運んでいた。彼を慕っていた。
聡明で博識な彼に私は相応しくなどないと解っていたけれど、それでも彼が私の訪問を許してくれるという事実を、私はひっそりと、好意的に解釈していたかったのだ。
ふわふわと所在無げに宙を漂ったランプラーは、タマゴから孵ったばかりの頃に出会った彼を覚えているのか、特に怯える様子もなくふわふわとそちらへ漂った。
オレンジ色の炎をぱちぱちと光らせて、嬉しそうに高い音で笑う。
彼なりの挨拶ですと説明すると、彼は「素晴らしいですね、まるでポケモンの言葉を読んでいるかのようだ」と、私のそうした説明の方を評価してくれた。
「シャンデラには進化させないのですか?」
「生憎、そのための石を持っていなくて」
「成程、でしたらわたくしに勝った暁にはこちらを差し上げます」
ポケットから闇の石を取り出した彼に苦笑する。私のヒトモシが進化していることなど、この人にはお見通しだったようだ。最初からそのつもりでポケットに忍ばせていたのだろう。
尚更、久しい対面になってしまったことを申し訳なく思いながら、しかし私はやはり嬉々としてボールを構える。
「貴方とポケモンとの間に存在する見えない力、今度こそ見極めます!」
その力は彼と彼のポケモンの間にも見えている筈だと、しかし私はどうしても訴えることができない。
それはダークさんが自らを「人間である」と認識するのと同じように、私の言葉ではどうにもならない、当人の納得と理解の必要なところであると心得ていたからだ。
つまるところ、彼等のような悲しい目をした人たちにおいて、私は悉く無力だったのだろう。
そうして私達のバトルは幕を開けた。6対6のポケモンバトルは、いつものことながら途方もなく長い時間、続いた。
ランプラー、……に化けたゾロアークを一番手に送り出した時はまだ明るかったのに、
彼の繰り出すポケモン達に辛くも勝利を収め、闇の石を貰い、シャンデラへの進化を二人で見届けた頃には、もう陽が傾き、海が黒くなり始めていた。
光を無くした海は恐ろしく美しかった。
いつものように暫く彼とその光景を眺めていると、その言葉は徐に紡がれた。
「彼氏でも出来ましたか?」
「え!?ど、どうしてそんなことを?」
「だってシアさん、ピタリと来なくなってしまいましたから。
それなりに慕われていたという自負があるわたくしよりも優先すべき事項が出来たとなれば、自ずとそんな想像に辿り着いてしまうものなのですよ」
誰です?とアクロマさんは至極楽しそうな笑顔でそう尋ねてくる。けれど惜しむらくはその期待に応えてあげられそうにない。
ダークさんのことは、嫌いではない。寧ろ彼との時間は大好きだった。けれどその思いは実らない。実る筈がない。
自分を「一人」として認識することさえしない彼が、そうした感情を私に向ける筈がない。そんなことは起こり得ない。
「そんな楽しい関係じゃないですけど、冬になってからはダークさんと毎日会っています」
「ダーク?……一人ですか?」
「アブソルのダークさんです」
断じて彼氏などではない。
そう強調したつもりだったのだが、やはり彼は笑顔を崩さなかった。
「おやおや、それなのにわたくしの所に来るとは物好きだ。喧嘩でもしましたか?」
違いますよ、と返しながら、けれどその実、彼に図星を突かれてしまったことに焦っていた。
けれどきっと、昨日のあれは喧嘩などではなかったのだろう。
現に彼は怒らなかった。それどころか、彼には私の「やめてください」という言葉も届かなかったのだ。私の謝罪は意味を解さなかった。
寧ろ喧嘩であった方がずっと、何倍もよかったのだろう。私達は喧嘩すら許されない距離に在るのだと、そう思い知らされて、泣きたくなった。
「では、これから彼の下へ行くのですか?」
「いえ、今日はもう帰ります。今日は会えませんって、手紙を書いて残してきたので」
その瞬間、彼の眼鏡の奥で、金色の目が宙を彷徨う。
当惑だ、と思った。ほとほと彼に似合わないその感情に私が驚いていると、彼はその目に鋭さを宿して真っ直ぐに私を見据えた。
「早く行きなさい」
え、と呆気に取られたように声を発した私の背中を、彼はそれ以上何も言わずに強く押した。
どうして?どうしてそのようなことを言うのだろう。まさか彼が待っているというのだろうか。あの雪の中で、一日中、ずっと?
そんな筈はない。そのための置き手紙である筈だった。
彼が無為な待ち惚けで身体を冷やさないように、それでいて彼と顔を合わせないようにと書いた、私の狡い手紙の存在に、彼は気付いてくれるだろうと確信していた。
けれど彼は私に「早く彼の下へ向かえ」と急かしている。この聡明で博識な人が私にそう告げるということは、きっと、何かあるのだ。
何もかもが解らなかったけれど、解らないままに別れの挨拶をして、クロバットに乗り、飛び立った。日は沈みかけていた。
*
この時ばかりは、聡明で博識な彼の予感が外れてくれと祈らずにはいられなかった。
けれど、卑怯で無力な私の祈りが、都合よく届いてくれる筈もなかったのだ。
「ダークさん!」
「……ああ、お前か」
黒い布に隠れて、見えないその口が小さく微笑んだ気がした。
いつもの木の下、彼はいつものように私を待っていた。彼の肩に積もり過ぎた雪が、その時間の長さを克明に示していた。
彼の肩に積もった雪を慌てて払った。自分の赤いマフラーをその首にぐるぐると巻きつけた。
「遅かったな」と告げる彼を、アクロマさんの言葉がなければ私はこうして迎えに来ることもなかったのだと、認めて背中を冷たいものがすっと通り過ぎていった。
「どうして……。手紙、見てくれなかったんですか?」
「いや、見た」
その言葉通り、彼の手元には私の書いた手紙が握られていた。
では何故、彼は夜が更けるまで此処に居てくれたのだろう。
「だが読んではいない」
それは残酷な響きだった。
ぐるぐる巻きにしたマフラーのせいで一層曇って聞こえる筈のそれは、私の耳元で飽きることなく反響を繰り返していた。
どういうことか解らなかった。彼が何を言おうとしているのか理解できなかった。その一方で、残酷に冷え切った私の頭は一つの答えを導き出そうとしていた。
彼の口が、再び開いた。
「私は読めない」
2012.12.4
2016.3.17(修正)
(おやすみなさい、良い夢を)