その姿を自分の目に認めた瞬間、プラターヌの中を駆け巡ったのは紛れもない安堵だった。
良かった、無事だった。
しかし無事だからこそ、何故こんな場所にいるのかが解せず、真夜中という時間帯も彼の不安を増幅させた。
どうしてメールに応えてくれないんだと問い詰めることも、こんな真夜中に出歩くことを咎めることも彼には出来た。
しかしそれらの言葉を飲み込まざるを得ない程に、少女の横顔は疲れ果てて見えたのだ。
苦しんでいるのは、彼女を探しに駆け回った彼でも、彼女の友達や先輩でもなく、他でもない彼女自身だと彼は知っていたんのだ。
だからこうして探し回っていた。彼女の心をはかることが出来る唯一の人間だったからだ。
どうして彼が彼女を責めることが出来よう。
「シェリー」
ヒャッコクシティの日時計の前に少女はいた。
この寒い中、ノースリーブで立ち竦み、その華奢な腕がそっと石に伸ばされる。
慈しむように撫でながら、しかしその目に光が宿ることはなかった。
呼ばれた自分の名前に怯えたように辺りを見渡す、その癖は以前と何も変わっていない。
イッシュという遠く離れた土地からやって来た少女は、人並みにコミュニケーションが出来ないことに酷い劣等感を感じていた。
彼は近くまで駆け寄ると、ゆっくりと少女の方へ歩みを進めた。
少女は彼を見上げる。ただそれだけの動作なのに酷く痛々しい。
「ああ良かった、無事だったんだね」
恐る恐る紡いだのはそんな言葉だった。
それはごく自然に紡がれこそしたものの、彼は内心困り果てていた。
焦っていた。どうしようもなく焦っていた。この少女にどんな言葉を掛ければいいのだろう。
少しでも傷付く言葉を投げれば、少女は壊れてしまいそうだった。
それ故に、先に出たのは言葉ではなく行動だった。彼は白衣を脱いで少女の肩に掛け、その場に屈んで少女を見上げた。
「寒かっただろう?大丈夫かい?」
触れた手は凍り付いたように冷たく、彼は思わずそれに自分の手を重ねていた。
自分の温度を分けてやりたい。この無意味な自己犠牲を重ねる少女を止めてやりたい。
どうすれば、どうすれば良いのだろう。彼は考え続けていた。しかし表には出さずにただ優しく微笑んだ。
「……」
「どうしたの?」
何処か痛いところがあるのかい、と尋ねると、少女は彼が包んでいない方の手で自分の喉を抑えた。
それは少女の癖だった。
他人と話をする時、つまり少女が極端に怯えながらも何かを伝えなければいけない時に、少女は喉元に手を当てた。
相手に対して萎縮する時の彼女の癖を、彼が見抜いたのはつい最近のことだ。
何故なら彼の前でその仕草はなされなかったからだ。
自分が少女の拠り所となれているという確信は、彼の精神に安定を与えた。
そうあれたという喜びと、これからもそうありたいという希望を与えた。
そんな少女が為したその仕草に、それがいつもの癖ではなく、本当に喉の痛みを訴えているのだと把握した彼は苦笑する。
「寒い風に当たっていたから、風邪を引いたのかもしれないね。
何か温かいものを飲もうか。君は確かカプチーノが好きだったよね。僕がご馳走するよ」
言葉を並べながら、その殆どが少女をすり抜けていく虚しさを彼は感じていた。
少女は自分の話を聞いていない。というより、自分の存在を認めていないようにも感じられる。
今までに見た彼女のどれにも当てはまらないその様子に、彼は居た堪れなくなって彼女の首に腕を回した。
「シェリー、ボクを見て」
「……」
「ほら、此処にいるよ」
少女に与えた打撃を彼は十分に理解していた。だからそれなりの予測は立てていたつもりだった。
泣き喚いてくれればいい。あるいは強い力で縋り付いて欲しい。
しかし少女を抱き締めた彼の背に、その腕が回されることはなかった。
「花……」
消え入りそうな声で紡がれたその一言を彼は聞き逃さなかった。
あやすように少女の頭を撫でながら、その音に耳を傾けることにしたのだ。
少しずつでいい。そう彼は思っていた。少女には時間が必要だ。
その為の助けは全て自分がするつもりだった。助けになれると信じていた。
しかし。
「花を、私が咲かせて……」
彼の手は動かなくなった。
「私が、殺した」
思わず顔を上げて、少女の目を覗き込む。
嗚咽を零すことなく静かに、本当に静かに零れた涙は、アスファルトに弾けて跡を残した。
「私が、あの人を殺しました」
降りた沈黙は生々しく心を抉った。彼は小さく首を振った。
「シェリー、それは違う」
「……」
「違うんだよ」
小さく紡がれたそれを即座に否定出来なかった自分を悔やみながら、彼は少女をより強く抱き締めた。
2013.10.26