ピンポン、と軽快に鳴ったインターホン、その奏者をネズはもう確信している。この家は妹であるマリィが帰宅する場所であり、彼女が再訪する場所であるのだと確信している。
もう、紅茶に催涙成分を混ぜ込んでいた、などという冗談を祈るように紡いでいた頃の彼ではない。
もう彼は、自分の存在が彼女を少しばかり救えているということへの驕りを、手放さない。
「……何です、上がらないんですか」
いつもなら開いていると告げずとも、ずかずかと押し入ってきていたはずだ。
今日に限って玄関に立ち止まり、ドアを控え目に開けてその隙間から片目だけでこちらを窺う姿を見せる、その理由が分からずネズは少しばかり困惑する。
ピンク色のニットベレーが、濃くなり始めている夕闇の中で明るく鋭く瞬いている。
その帽子を被っていると、まるでスパイクタウンの住民になったみたいだと、そのような夢見心地な想定を腹の中だけで巡らせ、無音の内に笑う。
そうした、よく言えば穏やかな、悪く言えば気の抜けすぎている沈黙を重ねていると、ようやく少女が口を開いた。
「今日は貴方にお願いがあって来たんだ」
「おや珍しい。おれにできることであればいいんですけどね。後で期待外れだった、などとは言わないように。……それで、何をすればいいんです」
「貴方の淹れた紅茶が飲みたくて。ほら、あの、アッサムの茶葉だよ」
何ですって?
思わずそう尋ね返しそうになった。寸でのところでその聞き返しを飲み込むことはすぐにできたが、了承の意味で頷くまでにはかなりの時間を要した。
5秒か、10秒か、それ以上か。とにかく長く、ネズは硬直していた。その間、少女は一言も口を利かなかった。
ようやく頷いたネズは、その言葉が単なる偶然でないことを確かめるべく、口を開いた。
「何か入れますか」と問えば、「蜂蜜を、少し入れたい」と返ってきた。
「今日は、どうしてその色の帽子にしたんです」と尋ねれば「貴方の色と揃いにすれば嬉しくなれると思ったから」と答えた。
「何か読みたい本はありますか」と更に質問を上乗せした。「ポケモンが惨たらしく死んだりしない話がいい」と、淀みない音が飛んできた。
「ソファを譲ってやっても構いませんよ」と、確信を得るため、追い打ちをかけるように尋ねた。
「いや、貴方と読まなければ意味がないから、その膝をまた借りたい」と、ネズの望んだ確信を少女は最上の形で寄こしてくれた。
「何故、アッサムなんです」という、ついでとばかりに繰り出した最後の強欲にだって、ほら、彼女は信じられない程に淀みなくこう言うのだ。
「貴方だけだ、と私が口にした日に貴方が出してくれた茶葉だよ。当たっているだろう? あれが飲みたいんだ。あれが好きなんだ。もう一度、同じ気持ちになりたくて来たんだ」
それら自体は、実にありふれた遣り取りである。
紅茶を好み、おしゃれを楽しみ、読書を趣味とし、年上の男に甘えを示し、特別な日の茶葉を特別だとしたい女の子の、ごく普通の選択であるように思われる。
だがネズは、ネズだけは、それらの言葉が孕む重みを知っている。知っているからこそ、そのようなことをすらすらと回答していく彼女に、驚愕の表情を向けてしまう。
「どうかな。こんなことを口にする私を、ネズさん、貴方は……嫌いになる?」
「!」
「怖いんだ。選んだことが、ないから」
彼女が選んでいる。彼女が決めている。彼女が望んでいる。彼女が、求めてくれている。
ネズにはそれが、一夜にして彼女に訪れた奇跡めいた事象にさえ思われた。ねがいぼし、とかいうふざけた石が、彼女の祈りを叶えたのでは、などとさえ考えてしまった。
勿論、それはネズの身勝手な空想である。「降って沸いたような奇跡」などではないことは、彼女の頬を滑る透明なそれがあまりにも克明に示している。
それらは決して「自然にできるようになったもの」ではない。度胸、勇気、思いきり、そうしたものを多分に要する行為なのだ、彼女にとっての「選択」というのは。
彼女にとってのそれは、ポケモンバトルで勝ち続けることや、チャンピオンになることや、世界を救うことなどよりも余程困難で、恐ろしく、途方もない勇気を要することだ。
……そう、その目をローゼルティーのように赤く腫らして、嗚咽交じりに懺悔するような形でしか為せないような、そうした、ひどく無理のある行為であることに変わりないのだ。
『無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない』
あの本の終盤、もがくことをやめて水底に沈むことを選んだエネコの一節が浮かぶ。彼女は今、あのエネコとは違うことを選択している。
諦めていない。その行為自体はとても苦しいことに見える。無理を通そうとしている。そんな彼女の姿は、ネズの目にはとても、つまらなくないものに見える。
「やっぱりこれはいけないことなんじゃないかって、今でも思っているよ。だって今の私は、紅茶と、蜂蜜と、帽子と、本と、貴方のことしか考えられていないんだ。
こんなのはおかしい。気が狂っているよ。適切な言葉が何も思い付かない。貴方にどう思われるかが怖くて仕方ない。息苦しくて、胸が痛くて、堪らない。
こんなはずじゃなかった。選んだせいだ。私が、貴方を、好きになったせいだ」
手元にハンカチの類を持ち合わせていなかったネズは、けれども彼女の顎へ滑り落ち震えるそれをそのままにしておくことができず、手を伸べた。
人差し指と中指の腹で頬をすっとなぞれば、透明な絵の具は淡い色をしたキャンパスにうすく広がり、部屋の安っぽい照明の光を浴びてキラキラと瞬いた。
『実はねユウリ、その紅茶にも催涙成分を混ぜ込んでおいたんですよ。どうです、効いてきた頃じゃありませんか?』
ウバの紅茶に混ぜ込んだ、ただの冗談だったはずの催涙成分は、気が遠くなる程のタイムラグを経て、確かに効果を発揮した。
ローゼルティーの目から落ちる紅茶は、彼女のギリギリの精神によってすっかりその色素をろ過されてしまったのか、否定しようのない無色を呈している。
ネズはそのこと、彼女がただ泣いているという事実に、胸が張り裂けそうになっている。
催涙成分、ローゼルティー、色素のろ過、そうした装飾を次々に加えなければ平静を保てなくなっている程度には、ネズの精神もまた、まったくもってまともではない。
「分かりました」
その、まともではない衝撃と感慨を今、泣いている彼女の前で表出することは不適切であるし、何よりネズのちょっとした矜持がそれを許さない。
だから彼はただ、こうして彼女の紅茶を己の指に伝わせながら、静かに同意の言葉を歌うだけに留めている。
「すぐにアッサムを淹れましょう。蜂蜜も用意しています。
そのピンクのニットベレーはちゃんと君に似合っているし、もっと平和なまま終わる本には幾つか心当たりがあります。こんな硬い膝でよければ幾らでも使っていきなさい。
君が望むものが此処にはちゃんとあるし、望みを口にする君のことを、間違っても嫌ったりしません。むしろ、好ましくさえ思っている」
己の中に吹き荒れる嵐の形容として「好ましい」は少々お上品が過ぎるような気がしたが、ネズは努めて落ち着いた声音でそう断言した。
彼女はそれを受けてわっと泣き出すようなことこそしなかったものの、嗚咽の程度と目から零れる紅茶の量は確かに増した。
「そうなんだね」
「ええ」
「よかった……」
ぼろぼろの笑顔で泣きながら、やっとのことでそれだけ紡ぎ、また嗚咽に喉を塞がれる。そんな彼女の姿は、今だけは年相応の14歳の女の子に見えた。
ただ、この幼い顔が、つい先日もあのトーナメント会場で優勝をかっさらい、ベテラントレーナー顔負けの知った風な凛々しい表情を編んでいたという事実をネズは知っている。
その事実を噛み締めて、どうしようもなく面白く、遣る瀬無く、寂しくなる。
『貴方にだけ、などということ、あれだけ賢い子供なら、ご機嫌取りのために誰にだってそう口にするのでは?
現に、あの子が停滞していることを知っている人間は、君以外にも大勢いるようですよ』
この顔の歪みを知っているのはネズだけではないという事実を思い出させる、あのいけ好かない委員長の言葉が再度、脳裏に木霊していく。
分かっていた。そのようなことを改めて言われずとも、ネズにはよく分かっていた。
「貴方だけだよ」と繰り返している彼女が、ネズ以外のところでも同様に、弱音を吐き、駄々を捏ね、無作法に他者を攻撃していることを、知っていた。
それは彼女がつい先日、自らの言葉でネズに開示した情報であったし、その開示がなくともネズ自身で察し始めていた真実でもあった。
彼女のそうした面を知っているのは、ネズだけではない。分かっている。そのようなことは分かっている。
けれども、だからどうしたというんだ? 「ネズだけではない」ことがそこまで致命的だとでもあの男は言いたかったのか?
構わない。ネズは彼女の弱みを占有したい訳ではない。彼女が「貴方だけだよ」と言ったからそれを信じたまでのことだ。傍観している第三者に揺さぶられるいわれはまるでない。
ネズは、傍観者ではなく目の前の相手を信じていたかった。「貴方だけ」と口にした彼女の言葉こそを真実としていたかった。
彼女の振る舞いがその「貴方だけ」を裏切っても、彼女が彼女自身を信じられなくなっても尚、ネズだけは信じていた。
「おれだけにしか見せていない何かがある」という確信の元に、ネズは彼女の訪問を受け入れ続けていた。
騙されているのでは、などと傍観者に揶揄されようとも、ごめんなさい、などと言葉の紡ぎ手である当人に諦めの意思を示されようとも、
心を折ることなく、諦めることなく、彼女を信じ続けたネズだからこそ辿り着けた、ささやかな真理。
それが今、ネズの手の中にある。彼にはそれをこの少女に示し返す権利がある。
「君が望むものなら何でも、喜んで君にあげましょう。ただ一つだけ、させてほしいことがある」
「何、かな」
「謎解きですよ」
そう告げつつ、ネズは手の甲でやや乱暴に少女の頬を拭い、踵を返してキッチンへと向かった。
沸かしていた湯を止めて、まずは空のポットに流し込む。アッサムの茶葉を人数分よりやや多めに用意し、ポットが温まった頃を見計らって中身を捨て、茶葉と新しい湯を注ぐ。
蜂蜜を取り出す。アッサムのささやかな香りを邪魔しない程度の、控え目なものが相応しいと判断して、2種類ある小瓶のうち、大きい方を手に取る。
リビングの本棚に視線を遣る。500ページを超えるあの本の次に手に取るものとして何が相応しいか、そうしたことを考えながらネズは3分、待つ。
その間も、少女は縫い付けられたように玄関口から一歩も動けずにいる。
ピンク色のニットベレーを被ってそこに立っていると、まるで彼女が自ら望んで、この日陰の町の住民になってくれているような、そうした、おめでたい錯覚まで覚えてしまう。
アッサムティーを3人分注ぐ。ローテーブルの上に並べる。本棚から二冊の本を手に取り、紅茶から少し離れたところにそっと置く。
やや乱雑にソファへと腰掛けて、玄関を見遣る。彼女は動けないながらも、真っ直ぐにこちらを見ている。ネズは笑いかける。笑えていない彼女に、笑いかける。
「ほら、此処に座ってちゃんと聞きなさい。君がこのガラルに散々撒き散らしていった、癇癪と悪態の正体を、お望み通りこのおれだけが君の前で暴いてやると言っているんです」
驚きに見開かれた2杯の幼いローゼルティーは、もうその色素をろ過することをすっかりやめてしまっている。
2020.6.5