Crazy Cold Case


FileD:プライベートアイの惜敗

「やあネズさん、先に上がらせてもらっているよ。マリィが貴方のことを沢山話してくれてね、予想外にとてもいい思いができてしまった」

血の繋がった、同じ屋根の下で長らく共に暮らしてきた家族にしか分からないネズのこと、ネズ自身が自ら明かすことは決してなかったであろうはずのこと。
それらを一思いに勢いよくまくし立て、大仕事をやり遂げたかのような達成感をその顔に浮かべつつ、ネズの妹はモルペコと共に外へと出掛けていった。
ソファに遠慮なく腰掛けている彼女はというと、そうした彼の秘密について特に動じた風を見せず、
彼に「特別扱いしてもらっている」という事実への嬉しさを、ただただ笑顔で露わにするばかりだ。

「人の失態を喜ぶ人間は好かれませんよ」

「構わないさ、私は万人に好かれていたい訳じゃないんだ。チャンピオンとしての私は限りなくそうであるべきなのだろうということは、まあ、分かっているけれどね」

マリィが蒸らしてくれていた紅茶を、今日の気分に合う柄のティーカップに注ぐ。
今日もこの少女は茶葉をしっかり言い当てるはずだ。いい味だとか、素敵な香りだとか、私は好きだよとか、そうした好ましい言葉を流暢に紡いでいくに決まっているのだ。
テーブルにそっと置けば、彼女は小さくお礼を言ってから「おや珍しい、ダージリンを貴方の家で頂くのは初めてだよ」と告げ、「私も好きだから、飲めて嬉しい」と続ける。
ほら、予想通りのご立派な模範解答だ。いつもならその在り方を無言の内に許して受け入れることができるのに、今日に限っては少し、忌々しさを覚えてしまう。

「でも、おれに嫌われることは避けていたいのでしょう、先程の口ぶりからすると」

「それはマリィにだけ告げた言葉であるはずだけれど……。まあ、耳の良い貴方になら聞かれていたとしても不思議ではないのかな。
その通りだよ。誰も彼もに媚を売って生きるつもりはないけれど、好んで誰かに嫌われようとは流石に思えない。だからやっぱり、貴方のことを聞けて、嬉しかったな」

この子供はいつもそうだ、とネズは思う。
こちらから差し出すものに対して、彼女は喜びや感謝を示すことがあまりにも上手い。
照れや恥じらいというものをほとんど持たないらしい彼女は、そうした感情を躊躇いなく開示する。それはいっそ、自らの宝物を自慢する幼い子供のようでさえある。
この点だけ切り取って見ればなんとまあ可愛らしいことだと思わなくもないが、この事実をひっくり返せば彼女の異常性がありありと透けて見えてしまう。

「もう止しなさい、聞きたくありませんよ。おまえはどうせ、おれ以外の好意の表出を目の当たりにしても、同じように喜ぶのでしょう。おまえにはそれしかできないのでしょう」

彼女の隣にやや乱暴な座り方をして、ネズもティーカップを手に取った。
「おまえ」という呼び方に怯みでもしたのだろうか、少し長めに訪れた沈黙を、ネズは紅茶を口に含むことで埋めた。
熱すぎて舌を痛めることのない適温の味に少しばかり満足しつつ、目を閉じて、聞こえるように溜め息を吐く。珍しいことに彼女はまだ、口を開かない。

この子供は受け取るだけで満足する。与えられるものであればそのほとんどを素直に受け取れるが、それに対して喜びと感謝を示すだけに、留まってしまう。
彼女の側からこちらに何かを求めたことは一度もない。「貴方のことを聞けて嬉しかった」とは思えても「もっと貴方の話を聞きたい」とはそう容易には、思えない。
ネズが毎日のように振る舞っている紅茶だって、どれを飲んでも「美味しい」と口にこそするものの、「次もこれが飲みたい」と口にしたことは未だかつてない。
道端のトレーナーや知り合いとのバトルも、求められたから快く応じているだけだ。トーナメントの出席だって、期待されているからこなしているに過ぎない。

それらを楽しみ、喜びに変える術を彼女は持ち合わせているが、そんな日々を繰り返す彼女は果たして幸せなのだろうかと、ネズはふと、考えてしまう。
そして、これ程多くの時間を重ねてきたにもかかわらず、未だに彼女はネズから「与えられるものを喜ぶ」だけの状態であり、そこから何も求めようとはしていない。
「貴方だけだよ」と告げた相手であるネズの前でさえ「こう」であるのなら、もう誰も彼女の荷物を引き取れないのではないかとさえ思えてしまう。
もうネズにできることなど何も残っていないのではないかと、そんな風にも思われてしまう。

『ねえアニキ、よかったね。もう本当に、大丈夫やね』
大丈夫、だなんてとんでもありませんよマリィ。だっておれはこんなにもまだ、不安だ。

「ネズさんには」

「!」

「私の欠落が見えるんだね」

ティーカップを取り落としそうになった。それ程までにその声音は震えており、少女が発したものであるとはとても思えないものであったからだ。
慌ててそちらに視線を向ければ、彼女は相変わらず笑っていた。薄い唇に弧を描いて、笑おうと努めていた。
違う。これは彼女ではない。彼女ではないと思いたい。この少女は、こんなにも下手にしか笑えないような不器用な子では決してなかった。
憤りや遣る瀬無さに声をわななかせることはあっても、こんなにも静かな悲しみめいたものにじっとりと溺れられるような人間ではなかった、はずだ。

「……欠落、とまで言ったつもりはありません」

「いや、欠落だよ。貴方をそんな風に苛立たせている時点で、私というものはきっと何かを致命的に欠いているに違いないんだ。
完璧な人間になどなれやしないと知ってはいたけれど、それでも私の不完全性が、よりにもよって貴方の前で明かされてしまうというのは、とても、辛いね」

流暢に紡がれる言葉は相変わらずだ。気取った口ぶりもいつも通りだ。
けれどもその表情と声音だけが普段の調子から著しく逸れており、ネズはそんな少女の様子に困惑せずにはいられない。

「好きだよ、ネズさん」

そして、そんな調子の彼女が泣きそうな顔でこちらを見上げ、そんなことを口にしてしまうものだから、彼は本当に、もう、どうすればいいのか分からない。

「貴方の家が好き。貴方の歌が好き。貴方の入れてくれる紅茶が好き。貴方が選んでくれるティーセットの柄が好き。
貴方のお気に入りだというこのソファに体を沈めるのが好き。おじいさんとエネコの日常を目と指で追う時間が好き。
私を一人にしないためにトーナメントの連続欠席までやってのけてしまう貴方の、愚かで軽率な決断が好き。私を膝の上に座らせてくれる貴方の呆れたような顔が好き。
私の弱さを道具や武器としてではなく、ありのままの私の一部として示すことのできるこの場所が好き。狡くて卑怯な私を許してくれる貴方が、好き」

「……」

「私にこんなにも多くのものをくれた人が、他の誰でもない貴方であったことがとても、とても嬉しい。
この気持ちに嘘はないよ。本当だ。全部本当のこと。でもきっとそれだけではいけないんだ。私ではきっといけないんだ。
与えられることを喜ぶばかりが上手になっていく私では、貴方に何も求められないような私では、ガラルの未来に対する具体的な理想を何も持てないような、私では」

あまりの衝撃に、ネズはすっかり忘れてしまっていた。彼が心から「この瞬間」を待ち望んでいたのだということを。
彼女がその身に隠している何もかもを吐き出すこの瞬間を。弱みを全て晒すことの叶うこの瞬間を。彼女がその魂全てをもって、ネズの前に「くずおれて」くれるその瞬間を。
そうして初めて、ネズは彼女の心に寄り添えるのだと信じていた。
気丈な笑顔のままの彼女では、飄々とした言葉遣いで何もかもを煙に巻くように笑う彼女のままでは、ネズは到底敵わないだろうと心得ていた。

今ようやく、ネズが手を伸べることの叶う瞬間が訪れたのだ。その瞬間を彼の言葉が作り上げたのだ。彼女の弱みを、彼がやや鋭い言葉で切り拓いたのだ。
ネズはそのことを喜ぶべきであって、この時間を一瞬たりとも無駄にするわけにはいかないのであって、この瞬間のために今まで彼女との時間を過ごしてきたはずであって。

「私はこの欠落を生涯、ガラルの皆さんには隠し通すつもりだよ。こんな私はチャンピオンに相応しくないからね。
でも私は心のどこかで、貴方にだけは、こんな私の本性を見抜いてほしいと願っていたのかもしれない。私の弱さを、貴方にだけは知っておいてほしかったのかもしれない」

こんな風に、彼女がようやく為した本心の開示に衝撃を受け、一言も発せず押し黙ってしまうようなことなど、決してあってはならなかったのであって。

「貴方のことが羨ましかったよ。弱さを隠すことなく素敵な歌に変えて、ガラルの皆をその弱さで熱狂させられる貴方のことが、とても眩しくて、羨ましかった。
私も弱さを周りに晒せば、貴方のように何かを変えられるんじゃないかと思っていたんだ。だから下手な駄々を捏ねてもみたし、無作法に他者を攻撃したりもした。
でも、私には無理だった。貴方の言う通りだよ。こんなにも色々とやってみたところで、結局私は、何も選べないし何も望めないし何のビジョンも抱けない人間のままなんだもの」

『ねえアニキ、よかったね。もう本当に、大丈夫やね』
妹の声が脳裏に木霊した。ネズの秘密を、彼の許可を得ず一方的に開示していったマリィは、ネズと少女とを見比べて「大丈夫」と口にしていた。
相手の心を開こうとする場合に、その相手を心から想っているのであれば自らの方が先に心を開く必要があるのだということを、妹は既に心得ていたのかもしれなかった。
ネズは、自らの心を歌なしで流暢に開示できるような器用な人間ではなかった。妹にはそれが分かっていた。
だから彼女は「荒療治」という手段を取ってまで、ネズの秘密を少女に開示し、……そして、今に至っている。

「紅茶に加えるものをろくに選べない私を、毎日のように此処へ招いてくれてありがとう。駄々を捏ねてばかりの私を許してくれてありがとう。
トーナメントを連続欠席してまで、私と一緒に立ち止まることを選んでくれてありがとう。私の欠落を見抜いてくれてありがとう。……そして、ごめんなさい」

ねえユウリ、欠落があるのだとすればそれはおれだって同じですよ。おれだって妹の手を借りなければ、君の本心を開くことさえできなかったんですから。
だからおれに対して感謝や謝罪を繰り返す必要なんてないんです。君は一方的におれへと感情を発露させて、弱さも狡さも全て浴びせて、泣いていればいいんです。


「貴方に見抜いてもらえたことを喜んでしまう私で、ごめんなさい」


君の言葉をせき止められないような無様なおれを、君も同じように許してくれるなら、おれはもうそれだけでいいんです。

2020.1.2


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