Crazy Cold Case


Case3:ノエルの鐘に灯る哀

Case3:ソニア
ホップとの熱いバトルを終え、彼への労いと紅茶のお礼を告げて立ち去ろうとした彼女をソニアは呼び止めた。
「マグノリア博士のところにも顔を出す」と話した彼女に、祖母への届け物を託そうと思ったのだ。
分厚い察しの束を渡して「頼まれてくれる?」と告げれば、彼女は凛々しい笑顔で「勿論だよ、必ず届けよう」と頷いてくれる。
この少女が大人の頼みや促しを聞かなかったことは、ソニアの記憶している限りでは一度もなかった。
また、大人がわざわざ口を出して咎めなければならないような言動を彼女が取ったことも、やはり記憶の中には一つもなかったのだ。

「……あのねユウリ、ちょっといいかな」

だからこそ、自らがこのようなことを言わなければならなくなっているという事実に、ソニアは少し、ほんの少しだけ苛立っていた。
そしてそんな僅かな苛立ち以上に、そのような「らしくない」ことをしている彼女のことを心配に思っていたのだ。

『皆、オマエのことが大好きなんだぞ!』
先程のホップが告げた言葉に嘘はない。皆、この少女のことが、新しくチャンピオンの座に就いた彼女のことが大好きだ。
ガラルの皆が憧れている。尊敬している。いずれは彼女のバトルにガラル全土が熱狂する。
だってそういう運命なのだ。チャンピオンとはそういうものだ。ガラルはそうやって輝いてきたのだ。ソニアにはそのことがとてもよく分かっていた。
だからこそ、その運命に抗おうとしている彼女が痛々しく見えてしまったのだ。

「ねえ、チャンピオンになったことを悔いるような言葉、あまり口に出さない方がいいよ」

大人の一人や二人の頼み、促しにも決して拒否の姿勢など見せなかった彼女が、けれども今や、もっと大きなガラルの運命というものを拒もうとしている。駄々を、捏ねている。
どうしてそんなことを、と思った。貴方はもっとお利口な子だったはずじゃない、とも思った。
そして、その駄々捏ねの害を他でもない、ソニアの助手として熱心に学んでいるホップがたった今被ったばかりなのだから、口を出さない訳にはいかなかったのだ。

「不安なこと、あるのかもしれないけれど、あんなことを言うとホップが辛い思いをするでしょう?」

「そうだね、軽率だったと思うよ。本当に申し訳ないことをしたよね、私は」

「うん……分かっているならいいの」

けれどもソニアの指摘には、やはり聞き分けよく反省の姿勢を見せ、謝罪する。
置かれた場における適切と不適切をこの少女はとてもよく分かっており、荒波を立てるようなことなど本来なら決してしないような子なのだ。
そんな彼女が「不適切」を働く理由など、ない。あっていいはずがないのだ。
だってこの子は、ガラルを救い、ダンデに勝って、チャンピオンになり、そうして全てを手に入れているではないか。
皆の憧れと尊敬を一身に受けた彼女は今、ガラルの誰よりも幸せそうに、楽しそうに笑うことができるはずではないか!

「弱音を吐く必要なんてないわ。ユウリなら今までの素敵な貴方のまま、素敵なチャンピオンで在れるはずなんだもの。ダンデくんに勝った貴方ならそれくらい、楽勝でしょ?」

至極当然のことを口にしたつもりだった。少なくともソニアの中ではそれが真理であった。
幼馴染であった彼がチャンピオンになり、無敵の冠をその身に携えるようになってから、彼は真に「そう」であった。ソニアはそんな彼の姿をずっと見てきた。

ねえ、あれがチャンピオンなんだよユウリ。貴方もこれからああなっていくんだよ。

けれども彼女はそうしたソニアの真理を突き割るように、目をすっと細めて真っ直ぐにソニアを見上げた。
それはソニアが初めて見た、この聞き分けの良い優秀な子供の「反抗」だった。

「私の弱さをないものとするような発言は慎んでくれないかな。少し傷付いたよ、ソニアさん。貴方には私のどんな言葉を制限する権利もありはしないんだ」

ソニアは驚いた。祖母が白衣を託してくれたあの瞬間よりも、自らの執筆した本に街角でサインを求められた時よりも、その驚愕は大きく鋭いものだった。
この少女はあろうことか「弱さ」を開示しようとしている。弱さを示し、これが私の致命傷だと晒し、あろうことかこんな私に慈悲を乞おうとしている。

ユウリ、分かっていない。私が貴方に向けてあげられる慈悲など何一つありはしないのに。
私がどんなに貴方を支えようとしたところで、チャンピオンにまでなった貴方にとってはそんな支えなんてガラクタに等しい些末なものにしかなり得ないのに。
私には貴方の傷を癒せない。きっと私だけじゃなくて、ガラルに住むほとんどの人がそんな傷に効く薬など用意してあげられない。
だって貴方の傷は「栄光」のかたちをしているんだもの。私達の目には決して「傷」として映らないように出来ているんだもの。
つまりそれってやっぱり、傷なんかじゃないってことでしょう? 貴方の傷は、貴方だけに見える幻想だったってことでしょう?
誰も幻を掴むことはできない。誰も、貴方には何もしてあげられない。でも貴方はそのような支えなど必要としていないはずだ。だって、貴方は。

「……ソニアさん。貴方にはチャンピオンというものが、異質でおぞましい無敵の怪物のように見えているのかもしれないね。でもチャンピオンだって人間だよ。何も変わらない」

「そんなはずないわ! だって」

わたしとダンデくんはあの日から、全く違う生き物になってしまったのに。

「……」

自らの放とうとした言葉にソニアが愕然としたのと、少女が鋭い目をふっと和らげていつもの凛々しい表情に戻るのとがほぼ同時であった。
寸でのところで音にこそならなかったものの、この少女にはソニアが紡ごうとしていた言葉が分かっているのだろうと、そう確信できるような怖い瞳がそこに在った。
大量の蜂蜜を溶かした紅茶のような、そうした毒めいた探究心を孕んだ目。子供でも少女でも大人でも老人でもない、ユウリという女の子だからこそ輝かせられるその目。
ソニアの心臓は今やその二つの目の前に呆気なく開かされてしまっていた。今更、止血することなど叶わなかったのだ。

諭す側と諭される側が、彼女の手により今や完全に逆転してしまっていた。
彼女のらしくない駄々捏ねを咎めるつもりが、いつの間にかソニアの側が、チャンピオンというものについての認識についてものの見事に諭されていた。
あまりにも上手すぎるとソニアは思った。ただ茫然とそんなことを、思っていたのだ。

「ダンデさんは私よりもずっと幼い頃から、ずっと上手にチャンピオンを務めていたのだろうね。
幼馴染であった貴方にそのような認識を持たせて、遠い存在に思わせてしまう程に、彼は昔からずっと完璧で立派だったんだ。でも私は彼のように上手にはできそうもない。
ねえ、下手な私は今すぐにこの座を、ダンデさんに返すべきだろうか?」

ソニアは深く俯き大きく首を振った。そんなことしないでと訴えたかったけれど、言葉にならなかったのだ。
よかった、と零して少女が笑う気配がする。益々居たたまれなくなってソニアはきつく目を閉じる。

脳裏にダンデの姿が見えた。無敵のチャンピオンでもおぞましい怪物でもない、ただの幼馴染であったはずのダンデが脳裏でソニアに手を振っていた。
チャンピオンの座から降りて、バトルタワーを拠点にローズさんの仕事を引き継ぎあくせく働いている彼は、チャンピオンだった頃よりも更に生き生きしていた。
彼がチャンピオンにならなければ、今の楽しそうな彼の姿はなかったと分かっている。
けれども同時に、彼があのままチャンピオンで在り続けたなら、やはり、見ることの叶わなかった笑顔であったということだって心得ている。

「……ダンデくんに会いに行くよ。貴方がホップに話したようなこと、今のダンデくんなら口にしてくれるかもしれない。わたしに、教えてくれるかもしれない」

「きっと、ダンデさんも喜ぶはずだよ。貴方がダンデさんを大事に想っているのと同じように、ダンデさんだってずっと、貴方のことを心に留めていたはずだから」

今のダンデくんなら、ユウリのようにわたしへ心を明け渡してくれるのかな。
今の彼なら、もう「上手に」やることを選ばず、幼い頃のようにわたしに何でも話してくれるのかな。
本当は辛かったんだって、重すぎる立場に泣きたくなる日もあったんだって、彼らしくない言葉を、でもずっと零したかったはずの弱音を、聞かせてくれるのかな。

あの頃のダンデくんを、ユウリが連れ戻してきてくれたのかな。

「酷いことを言ってごめんなさい、ソニアさん」

「……ふふ、変なの。それってあたしの台詞じゃない?」

「そんなことはないよ。立派な大人である貴方に対する発言として、あれは不適切だったと分かっているつもりだ。
貴方とダンデさんはいつだって、子供であった私達の旅路を守ってくれたよね。私も下手なチャンピオンなりに、いつかそう在れるよう努力できればと思うよ」

「あれ、今すぐ努力する訳じゃないんだ」

笑いながら、つい余計な一言を付け足してしまった。
けれども彼女は特に気分を害した風でもなく、すっかりいつもの、聞き分けの良い優秀な姿に戻っている。「そうとも」なんて、自らの怠慢を誇るように笑っている。

「私は下手だから、ダンデさんよりもずっと長い時間が必要なんだ。ソニアさんなら分かってくれるよね?」

どこまでも14歳らしくない見事な話術であった。
ソニアのために多くの言葉を紡いでおきながら、けれども最後に彼女はしっかりと、自らが迷うための猶予をこの会話の中でもぎ取っていったのだ。
ソニアは降参の意を示すように両手をひらひらと振り、呆れたように「はいはい」と同意して彼女を送り出す。
右腕にしっかりとソニアの託した書類を抱え、ユウリは大きく手を振ってから駆け出していく。
少し強い風が吹いたのだろう、赤色のニットベレーが飛ばないように左手でしっかりと押さえつつ、彼女は駆け足で2番道路へと続く坂道を駆けあがっていく。
その後ろ姿が見えなくなるくらいまで見送ったソニアは、さてダンデは何度目のコール音で電話に出るだろうかと考えながらスマホを取り出し、ふと、首を捻る。

『ダンデさんよりもずっと長い時間が必要なんだ』

はて、あの無敵のダンデを負かしてチャンピオンになった少女は、ただそれだけの理由で立ち止まるような、か弱さを可愛げを持ち合わせた普通の女の子だったろうか。

2010.12.20


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