FileB:ストレートに催涙
『吾輩はエネコである。これは種族名であり、個別の名前はまだ持たない。 何処で生まれたのかも定かではないが、吾輩が飼われる身としてこの家に招かれたのはつい数日前のことである。 主人として吾輩が慕うのは、白髪交じりの無精髭を生やした初老の紳士である。シルクハットを好んで被るが、こいつはよく風に飛ばされてアスファルトをコロコロとする。 それを拾いに行くのが吾輩の日課であり、吾輩に課せられた重大な任務である』 ふむ、という声がネズの顔のすぐ下で聞こえる。まだ幼さを残したその体は、ネズ程ではないにしろ薄く細く、そんな肉体が為す呼吸や鼓動も当然のように小さかった。 けれども確かに動いている。鋭敏なネズの感覚はその生命の証を拾い上げる。その命は確かに「そこ」に在り、だからこそネズは困っているのだ。 「成る程、シルクハットでなければいけないんだね。私のニットベレーでは「コロコロ」としないから、このような愉快な光景にはお目にかかれそうにない」 「……ユウリ、ちょっといいですか」 「何かな? ああ、貴方はそもそも帽子を被っていなかったね。マイクは「コロコロ」ではなく「ガシャン」だから、エネコでは持ち上げられないだろう。お互い残念だね」 「そうではなくてね、どうしておれの膝に座っているのか訊きたいんですよ」 ソファに深く沈み込み、愛読書である「吾輩はエネコである」の、最早諳んじられるのではないかという程に馴染んでしまった冒頭の部分を開いていたネズの、その膝に、 さも当然のように飛び込んできて、ネズに背を向けるように座り、読み聞かせを乞う子供のような体制になって食い入るようにそのページを見つめつつ、楽しそうに笑っている。 普段からネズの理解の及ばないことばかりするこの少女であったが、今日の奇行はとりわけ訳の分からないものであった。 だってこれでは、これではまるで君が子供のようではないか、と思ってしまう。 けれどもそうした君らしくない姿を晒すための場所が他の何処でもない「ここ」であるのなら、しかし、それはそれでいいと思い始めている。 「まさかとは思いますが、ついにおれの妹にでもなりたくなったのですか」 「そのまさかだよ。……と言いたいところだけれど、残念。私はそこまで厚かましくはないさ。マリィの大事な、唯一無二のお兄さんを横取りしようとは思えないよ」 「そういえば君には兄弟がいませんでしたね」 「そうとも、一人っ子というやつだね。父は出稼ぎに別の地方へ出かけているから、年に数回しか戻ってこない。 年上の男性へ甘えることに慣れていなくて、距離の取り方が分からなくて、……だから、貴方はこんなことをさも当然のようにする私のことを訝しんでいるかもしれないね」 そこで止めておけばいいのに、彼女はぐるりと振り返って「どうだい、憐れんでくれるかな」と楽しそうに告げるものだからどうしようもない。 それでいて、その不純物の混じった紅茶の色は縋るようにじっとネズを見つめるばかりだから、彼からの施しを待つ乞食のような侘しい表情をしているものだから、 ネズは大きく溜め息を吐きつつ、彼女の茶色い髪を妹にするように撫でて彼女を微笑ませてやるしかない。 「おれが憐れむことで君が喜んでくれるならそうしますよ」 そう告げると少女は不自然に沈黙する。鼓動がやや早くなっているのが分かる。呼吸は逆に、遅くなっている。 細い指がネズの愛読書に伸び、次のページを捲る。老紳士とエネコの散歩コースは毎日決まっており、花を模した噴水の前で一人と一匹は必ず立ち止まるのだ。 穏やかに過ぎていく彼等の時間。エネコは老紳士の観察を最大の趣味としている。 エネコは彼のことが大好きなのだ。老紳士も、唯一無二のパートナーとしてエネコをいっとう大事にしているのだ。 そんな彼等の物語、その導入部分のみ指でなぞって「楽しそうだね」と呟く彼女は、この本の終盤にエネコが大きな水がめに落ちて溺死することをまだ知らない。 幸せな日々というものは、温かい時間というものは、水というありふれた運命によってさえも呆気なく崩壊を迎えるものだ。そうした、脆く淡いものなのだ。 故に、ガラルの危機、ブラックナイトとの対峙を乗り越え、チャンピオンとの最高の試合まで経験した彼女が、 その日常の幸福をそれらの大きすぎる運命性によって「奪われた」と感じるのは、その運命を嫌な気持ちで見ようとしてしまっているその心地は、 ……この「吾輩はエネコである」を愛読書とするネズには、分からなくもないものなのであった。 「紅茶を入れましょうか」 「……おや、嬉しいね。私を歓迎してくれるの?」 「紅茶を用意するのを口実に、君をおれの膝の上から追い出そうとしているんですよ。そんなことも分かりやがらないんですか」 やや早口でそう告げて本を閉じる。少女はクスクスと控え目に笑いつつ、大して申し訳なく思っていないであろう軽い謝罪の言葉を告げて立ち上がる。 その瞬間、呼吸の音と鼓動の音がぴたりと絶える。彼女に触れている部分がネズの体から無くなったのだから当然のことであるのだが、それを少しだけ惜しく思ってしまう。 「紅茶に何か入れますか」と尋ねれば、「何があるんだい」とやや浮付いた声音が返ってくる。 角砂糖、蜂蜜、アプリコットジャム、レモン、ミルク、……と、棚と冷蔵庫を覗き込みつつ呟けば、 しばらくの沈黙の後で「どれも魅力的で選べそうにないからストレートにしておくよ」などと、よく分からない理由でネズの報告を無駄にしてくる。 はいはい、と気乗りしないような返事を音にして、湯を沸かす。茶葉もどうせ「選べない」と言うのだろうから、こちらで勝手に決めてしまうことにする。 妹と二人暮らしであるこの家のキッチンは、二人暮らしに相応しく、簡易でシンプルで、そう広くもないものだ。 もっともそれはキッチンに限ったことではなく、リビングも洗面所もバスルームも似たような控え目さで家の中に配置されていた。 控え目な規模のこの家だが、二人で生活するには十分であり「狭い」と思ったことはなかった。 けれども、妹が遠出している時などに一人でこの家にいても「広い」と感じるようなこともなかった。 一人でいる時間は心が泣きそうになる。ネズの精神はそう軟弱なものではないが、自らの弱さを認めることができない程に強情な訳でもない。 寂しいものは寂しいと認められるし、焦っているときは焦っていると口に出せる。自らの理解者は他ならぬ自分自身であり、そういう意味でネズの精神は強靭であった。 「これはウバだね。嗅覚が洗われていくような茶葉の鋭い香り、私は好きだよ」 「正解ですが、……好きというのはどうでしょうね。君は何を出しても同じように好ましいことしか言わないでしょうに」 そんな彼の心を、この家でいるときの「一人」という状況は蝕まない。それは妹であるマリィの帰る場所がここであると確信しているからだ。 いくら「一人」の時間が長く続いたとしても、妹は必ず「ただいま」という声と共にネズを呼ぶ。その未来を疑うべくもなかったから、ネズの心は泣かずに済んでいた。 そう、この家にネズとその妹しかいなければ、彼の心は間違いなく守られていたのだ。 「……ふふ、美味しい。ありがとうネズさん」 ああ、それなのに、この子供が来てしまったから。ほぼ毎日、妹よりも高い頻度でこの家の戸を叩くようになってしまったから。 この少女が「貴方だけだよ」などとほざいて、この家を、おれを止まり木になどしてしまったから。 楽しそうにおれの愛読書を盗み読みして、幸せそうにおれの備蓄である紅茶を飲んでいくものだから。 おれなんかの憐れみに、救われたような笑顔をしやがるものだから! ……そういう訳で、ネズの心はこの家に一人でいるとき、しばしば泣きそうになる。 マリィの帰宅を確信できたとしても、ユウリの再訪を確信できないが故に、泣きそうになる。 「ねえ、インテレオンにもあげていいだろうか?」 「ご自由にどうぞ。ティーカップをもう一つ出しましょうか」 「いや構わないよ、一緒に飲むから」 遠慮というものを知らない子供の手が、ティーポットの中にあった残りの紅茶を全てカップへと注いでいく。 ボールから出てきたインテレオンは、針金細工のように細い体を折り曲げて、恭しく少女の手からカップを受け取り口に運ぶ。 その所作はいっそ少女よりも上品で、ネズは思わず笑ってしまいそうになった。 「君のエースは、君の下でずっと育ってきたとは思い難い程に、静かで、品が良くて、お利口ですね」 若干の皮肉を込めたつもりだったのだが、少女は嬉しそうに「そうとも! 私の自慢のパートナーなんだ」と大きな声で答えて微笑んだ。 心なしか、紅茶に口を付けるインテレオンの頬も嬉しそうに上がっているような気がする。 「メッソンの頃からこの子は頭が良かったんだ。ただ、それ故に外の危険が多く分かってしまっていたのだろうね。 いろんなことを恐れがちで、進化するまでは本当によく泣いていたよ。おかげで私もよく目を腫らしたものさ」 「……君にも、もらい泣きができる程度には人並みの情緒があるんですね」 「あはは、情緒はあまり関係がないんだよ。メッソンの涙には強力な催涙作用があるものだから、泣くまいとしていてもおのずからそうなってしまうんだ。 私には、一緒に泣いてくれる仲間を求めてくれているように思われて、どうにも嬉しくて、あの頃はそれはそれは豪快に泣いたものさ」 懐かしそうに笑うその目から、大粒の涙が零れるところなどネズには想像さえできなかった。 此処に通いつめ、堕落した時間を満喫し、チャンピオンであることへの愚痴や諦念や弱音を吐き出す彼女は、 それでもやはり凛としていて、どう足掻いてもその姿は強者以外の何者でもなくて、そのアンバランスさにネズはたまに苛立ったりもしていたのだ。 けれども、その少女の隣で優雅に紅茶を飲むインテレオンは、その少女の外面と内面が「弱い」という形容で完全に一致した様をよく知っている。 ネズよりも長く彼女の傍に在り、ネズよりも多く彼女の為に力を奮ってきた彼にしか知り得ない少女がいる。それは当然のことだ。自然なことだ。 だからこそネズは、少女を真の意味で知るために何が必要か、とてもよく分かってしまった。 彼女の隣で静かに佇むそのパートナーの姿に、教え込まれてしまった。 「実はねユウリ、その紅茶にも催涙成分を混ぜ込んでおいたんですよ。どうです、効いてきた頃じゃありませんか?」 「えっ」 「冗談ですよ」 彼女を泣かせることのできない自分自身に一矢報いるようにそんなことを口にして笑う。少女は一瞬だけ驚いたものの、面白い冗談だと告げてやはり笑う。 そんな二人を交互に見ながら、インテレオンは双方の強情さを許すように目を伏せて、空になったカップをソーサーの上へと音を立てることなく優雅に、置く。 2019.12.15