CaseX:ユウリ
「さて初めに、14歳という中途半端な幼さを持つこのチャンピオンが、ポケモンバトルをこよなく愛する皆様に、
前任者ほどの刺激的なバトルをお見せできる器ではなかったこと、こちらをお詫びさせていただきたく思います。
申し訳ございませんでした。
あの最高の舞台で、ダンデさんに勝利できた瞬間のことは今でも覚えています。
インテレオンが降らせた心地良い雨を浴びながら、私は大好きな彼等を勝たせてあげられたことをこの上なく喜んでいました。
あの歓喜に一点の陰りもありませんでした。素晴らしいバトルができたと思っています。
けれども、それはインテレオン達や私の力だけではございません。いえもとより、私達の力ではなかったのかもしれません。
あの最高の舞台を整え、最高の攻め口で私達を追い詰めたのはダンデさんとそのポケモン達です。
彼等には「相手を満たす」力がありました。挑戦者である私達のことも、そして、観客としてご観戦くださった皆様のことも、彼は完璧に満足させていらっしゃいました。
今、皆様が私のバトルを退屈だとお思いになっているのは、私にそうした「相手を満たす」力が決定的に欠けているからです。
単純な、バトルの力量や安定性の話だけをしているのではありません。
皆様に興味を持っていただくための「境遇」。皆様を魅了するための圧倒的な「芸術性」。
皆様がどんなものを求めていらっしゃるのかを把握する「思考力」。それを自ら生み出すための「創造力」。
全て、全て、私にはついぞ欠けているものでございました。私は全てにおいて、前任者に劣る身に違いありませんでした。
このまま、格下の身である私が長々とチャンピオンの座を占有し続けることは、皆様にとってなんの益ももたらさないものであると推察します。
「ただ勝つ」ことだけはできる身でございますから、私がポケモントレーナーとしてガラルに生き続けていれば、この退屈な時間はきっと長く続くでしょう。
前任者のように10年とまではいかずとも、相応の長い時間、皆様に不満足な、退屈なお気持ちをさせ続けることになってしまいます。
そうしたガラルにおける皆様の損失を私は望みません。皆様にはもっと楽しい心地でいていただきたい。
前任者が強くしたポケモントレーナーの皆様の、情熱の火を、私如きが弱めてしまうなどあってはならないことです。
皆様もきっと、同じお気持ちでいてくださいますよね。
前置きが長くなりましたが、以上の理由から、私は本日をもってガラルチャンピオンを辞退し、この土地から姿を消すことにいたしました。
短い間ではございましたが、私をチャンピオンとして扱ってくださり、本当にありがとうございました。
おそらくこの手紙が開かれる頃には、もう私はガラルにはいないでしょう。
私が何処へ向かったのか、どのように暮らしているのかについては、この手紙で予定を明記することはいたしませんので、好きにご推察いただいて構いません。
ただ、一つだけ書ける情報があるとすれば、私はこれから、皆様が絶対に辿り着けない場所へ向かうということです。
そういう訳ですので、どうか私のことはお探しにならないようお願いいたします。その捜索が実を結ぶことは決してございません。ご理解ください。
皆様の幸せと、ガラルの明るい未来を祈っています。
以下、蛇足ではございますが、感謝と謝罪の気持ちを込めて書かせていただきます。
私はこの手紙をある人物に託します。私の不在が明らかになったときには封を開けてほしいと申し上げて、白い封筒に思いの丈を詰め込み、渡すつもりです。
その後の予定ですが、私はガラル各地を回り、私自身の旅でお世話になった方々にご挨拶をする予定です。
ジムリーダー様や同期のジムチャレンジャーの方々は、きっとこの「挨拶」に心当たりがあるのではないでしょうか。その節は、お時間を割いてくださりありがとうございました。
おそらく、これから私が訪ねることになる相手、私をよく知ってくださっている皆様は、このようなチャンピオンとして不適正な、致命的な欠陥を抱える私を見限ることなどせず、
きっと真摯にひたむきに愛情深く接してくださり、私をどうにかして立ち直らせようと、言葉の限りを尽くしてくださるのだろうと想定しています。
称賛、あるいは同情、あるいは激励、あるいは叱責、そうした情熱的で慈愛に満ちたもの全てで、私を支えようと、引き留めようとなさるのだろうと考えます。
そのことに関しては本当に有難く思っています。私には勿体ない幸福でございました。感謝してもし尽くせない程です。心からそう思っています。
にもかかわらずこの手紙が開かれ、どなたかの目に触れているという事実。それは決して、私を支えてくださった皆様を原因とするものではございません。
それだけの支えを頂いておきながら、立ち直れなかった私に問題があったのです。皆様の善意を貪り食うようにしても尚、是正できないまま肥大した歪な心が私を殺したのです。
私がいなくなるのは、皆様のせいではありません。
けれども私が楽しく旅をしてこられたのは、そしてこれまで生きてこられたのは、間違いなく皆様のおかげでございました。
どうか、チャンピオンに不適正であった私のことなどはできるだけ早く忘れ、この素晴らしいガラル地方と共に、輝かしい未来を生き抜いてください。
皆様に沢山、愛していただける私で在れたこと、心から光栄に思います。
皆様を上手に愛することのできなかった私で在ったこと、本当に残念に思います。
それでは皆様、明日から、よい一日をお過ごしください。
ユウリ」
便箋にして5枚。発声時間としては僅か5分30秒。
もう何週間も前に書いたものであるはずなのに、その一言一句を私は全て覚えていた。
セルロースを主成分とする便箋は燃やせる。以前の私が丹精込めて綴ったそれらは、たった数十秒で呆気なく火に溶けて、なかったことになる。
けれども私の記憶の中にある言葉達はそう容易には消えないだろう。炎をかざせば呆気なく焼失してしまえるようなものではない。ならば忘れられるまで、抱えていくしかない。
「聞いてくれてありがとう。どうだい、お上手だったろう?」
「ええ、クソみたいな内容の遺書であることはおれにも分かりましたよ」
口が悪いよ、と苦笑しながら咎めようとも思ったが、「そんなものを書く君の性根よりはマシだ」と論破されてしまいそうだったので、やめた。
5枚の白い便箋を完璧に燃やし尽くした炎の上に鍋を置く。いつもの、カレー作成現場の光景だ。
違うのは隣に彼がいることと、此処が、探索し慣れたワイルドエリアではなく、右も左も分からない道路の、草むらの中であるということだ。
116番道路、ホウエン地方。紛うことなきエネコの生息地。
念願の土地にテントを張り、エネコの棲むこの場所で夜を明かせることへの喜びに私はすっかりはしゃいでいた。
温度と湿度がやや高めであるこの夜は、しかし高揚しきった心を持て余す私には暑過ぎるくらいだった。
ガラルの夜よりもずっと暗いと思われていたホウエン地方の空には、けれどもガラルでは見られない量の、無数の星が煌々と散りばめられていて、私はただただ、感激した。
巨額を投じても手に入れられないであろう、大自然の中でしか味わえないこの美しい天井の下、
その強烈な感動に押し出されるようにして、私の「遺書」の告解はあまりにも呆気なくこの口から零れてしまった。
勿論、そのような話を聞かなかったことにしてくれる程、彼は甘い人間ではない。夜が明けるまで続いた追究とはぐらかしの応酬を経て、折れたのは私の方だった。
午前11時。朝食と昼食を兼ねたスープカレーを作るために起こした火の隣で、私は持ってきていたそれを読み上げつつ、一枚、また一枚と火の中へ放り投げた。
ネズさんは、カレーに入れる木の実や具の「選択」という、私が苦手とする部分だけをピンポイントで済ませてくれて、
あとは草むらの上に胡坐をかいてじっと私の、使われることのなかった遺言を聞き届け、その紙が全て灰になる様を一緒に見ていてくれた。
確かに今読み返せば、確かにこれは「クソみたいな」内容の遺書に違いなかった。
けれどもネズさんは、そうした遺書の悪趣味性に眉をひそめこそしたものの、遺書を準備していたという事実や、それをずっと鞄の中に入れていた私自身を責めることはしなかった。
「バゲットを切りましょうか」
「あの大きなままかじるのも楽しそうだけれど?」
「君は稀にとてつもなく粗野になるんですね。いつもの上品な振る舞いは何処へ行ったんですか」
硬いパンを丸かじりするという提案を野蛮だと認識し、僅かな嫌悪を示したネズさんに「粗野で野蛮な私は嫌いかな」と尋ねてみる。
間髪入れずに「まさか」と、皮肉めいた、それでいて少しばかり嬉しそうな笑顔でそう返してくると、分かっていながら試すようなことをする私こそ、嫌悪されて然るべきだ。
けれども彼はそうしない。絶対に、そのようなことはしない。
「でもバゲットは切りますよ。そのままかじるなんて食べ方、おれが恥ずかしい」
ちょっとした優しい沈黙、さりげない言葉。そうしたものの連続が、私に、彼がかつて私に言い放った言葉の数々を信じさせていく。
決められないままでもいい、欠落を抱えたままであったとしても気にしない……。
私は既に選択ができている、その選択は愛に該当するものだ……。
私はネズさんを愛しており、ネズさんは私を愛している……。
すぐに受け入れられたものもあれば、未だに同意しかねるものもあった。殊更、愛に関するものについては本当に「分からない」ままであった。
けれども理解が及ばないなりに、その愛が、私をどうにかして引き上げようとするが故に編まれた、私の為だけの概念であることだけは分かってしまったから、
……だから今、私はこうして、他の誰でもない彼に「愛されているかもしれない」ことを光栄に思い、他の誰でもない彼を「愛せているかもしれない」ことを喜ばしく思っている。
「ユウリ、バゲットは何処です。昨日の夜、カナズミシティのスーパーで買ったと言っていたでしょう」
「バゲットならその鞄の中に入れたはずだけれ、ど……」
私の鞄の中を探るネズさんの、男性にしては華奢の過ぎる肩の、その向こう。
ピンク色の大きな耳と、あまりにも愛嬌のある尻尾が私の目を穿った。
今日はこのスープカレーとバゲットで腹ごしらえを終えてから、日が暮れるまで探索に勤しむつもりだったのだけれど、
私達はたった1本のバゲットの損失により、その探索の時間抜きに、一足飛びにお目当ての存在に出会うことができたらしい。
「ネズさん、ゆっくり顔を上げて。犯人がいる」
訝しげに顔を上げた彼は、呼吸さえ恐れるようにぴくりとも動かなくなってしまった。私もまた、それきり動くことができなくなってしまった。
会えた。会えてしまった。どうしよう。逃げてほしくない。できればもっと近くに寄りたい。顔を見たい。その耳に触れてみたい。言葉を掛けたい。
恐ろしいことだ。だってこんなにも私は「望んでいる」。あの子に逃げられてしまったら、私は今度こそ立ち直れないのではないか。やはり期待など、するべきではなかったのでは。
けれどもそうした我々の、衝撃と葛藤など露知らず、エネコは長いバゲットをくわえたまま、とことことこちらへ歩み寄ってくる。
冷たい水がめの中で溺死し、絶対的な平安を手に入れたあの子と同じ存在が、
美味しいものを手に入れた喜びに頬を綻ばせつつ、くわえていた残りのバゲットを地面に落として、感謝を示すように、つまみ食いをいっそ誇るように、高い声でみゃあと鳴く。
ネズさんは躊躇うことなくエネコに触れて、抱き上げた。人に慣れているらしいそのエネコは、見知らぬ人間に抱えられても爪を立てることなどせず、ただニコニコとしていた。
ほら、と彼はエネコを地面に下ろす。エネコは露ほどの警戒も示すことなく、今度は私の方へと駆け寄ってくる。
彼のように抱き上げる度胸を持てずにいる私は、手を伸ばして、その耳を撫でるのが精いっぱいだった。
抱き上げられることを期待していたのか、エネコは少し不満そうな表情をした。それがおかしくて私は笑った。笑えてしまった。
ねえ、とそのポケモンに語り掛ける私を、ネズさんは訝しまない。嗤うこともしない。ただ無言でこちらを見ている。その事実に私はまた一つ救われていく。
「無理を通そうとするから苦しいのだと、そんなものはつまらないと、貴方は言ったね。私もそう思っていた。でも考えが変わってしまった。
無理をしたから此処に来られた。無理をしたから貴方に会えた。苦しい思いをしてたった一つの選択をしたあの日から、私はずっと、つまらなくない気分なんだ」
本当はずっと恐ろしい。私はまだ、恐ろしい。
期待したものが得られなかった時の悲しさ。執着を一笑に付された時の虚しさ。愛着を否定された時の寂しさ。
そうした感情に身を引き裂かれることを、想像するだけでもう恐ろしい。それらのリスクを負うくらいなら、何も求めないままの方がずっといいと、今でも本気で思っている。
期待されることだけに応えていた方が、ずっと生きやすく、安定していて、確実だ。
でもその卑怯な生き方では手詰まりになってしまった。この生き方ではチャンピオンとしての今後を生き抜くことができなくなってしまった。私の手札は使えなくなってしまった。
使えない手札に固執する必要はまるでない。生きるためのカードを失ったのなら、立ち去るしかない。
立ち去った舞台への未練に苦しむことになるのなら、もう二度と戻れないようにしてしまうしかない。
自死を惨たらしく最低なものだと考える人が大勢いることは知っているけれど、あの恐ろしい思いに怯えながら生きていくよりはずっとマシであるように思えた。
今でも、少なからずそう思っている。今でも、自らの命を賭して絶対的な平安を手にした、この命と同じ姿をしたあのエネコが羨ましくなる時が、よくある。
それでも、皆に支えてもらった記憶が燃やされないまま在るうちは、この人に教わったものが私の中に生きているうちは、私がこの未解決な愛を諦めることなどありはしないのだ。
「もうすぐ、スープカレーが出来るんだ。一緒に食べていくといいよ」
その言葉を受けて、エネコはめいっぱいの喜びを示そうとしたのだろう。甲高く鳴いてから勢いよくジャンプして、私の胸へと飛びついてきた。
不本意ながら押し倒される形となった私は、けれども思わぬ形でエネコを抱きかかえられたことを喜んでしまった。
そのクリーム色の頬に自らのそれを擦り合わせて、ポケモンと人間の体温の差を楽しんでいると、ネズさんが隣へと腰を下ろし、こちらへと視線を落として、微笑んだ。
ガラルの空よりも少し濃い青色をした晴天、それを背景に微笑む彼はどうしようもなく美しかった。
貴方はとても綺麗だね、などと告げたところで顔をしかめられるのが分かっていたから、私は彼の手を握って微笑み返すだけに留めておいた。
ぽす、と小さな音を立てて、仰向けに寝転がった私の頭から帽子が落ちる。ニットベレーは勿論、ピンク色だ。
2020.6.7
Thank you for reading their story !