それから、少年とその両親は直ぐにトウカの実家へと帰宅した。今までにない怯え方を少年がしていたため、余程の恐ろしいことを経験したのだろうと彼等は察したのだ。
彼はシダケタウンの家に行くことを頑なに拒むようになった。
数か月の入院生活で、明るく元気になった筈の少年は、しかしあのシダケでの一件以来、自室に閉じこもるようになってしまった。
トウカの実家に戻ってからも、昼間でも窓のカーテンを閉め切り、決して開けようとはしなかった。
実家の窓に必ず訪れていた、あの青と白の翼を持ったキャモメのことを、彼はどうしても思い出したくなかったのだ。
きっと、あのキャモメだって、もう言葉を発しないのだと少年は確信していたのだ。
最も親しくしていたあのロゼリアが自分に言葉を紡いでくれなかった、そのショックは少年の心に大きすぎる影を落としていた。
プラスルやゴクリンといった、他の友達からも言葉が失われてしまったのだと、少年が推測することは容易かった。
そうして、彼はそのアッシュグレーの目に絶望を映すに至ったのだ。
ボクの世界は間違っていたのだろうか?
あの時間は、ボクが見た幻だったのだろうか?
けれど少年は、ロゼリアから教えてもらった花の名前を覚えている。彼女と交わした言葉を覚えている。あの約束を覚えている。
あの日々は確かに存在していた。しかしそう確信すればするほど、「彼等の言葉が聞こえない」という悲しい現状が益々、彼を苦しめた。
『それは、雨の多い夏に咲く花よ。変わった形をしているでしょう?ツユクサっていうらしいけれど、私は「雨の花」と呼んでいるの。』
『生き物は、いつまでも今のままでいることはできないの。』
『でも私やミツルは、その花よりもずっと長く生きていられるわ。だから枯れてしまうことを怖がるよりも、今を懸命に生きた方が素敵だと思うの。』
『待っているわ、ミツル。必ず私を連れていってね、約束よ!』
過去と現在の矛盾する事実に、少年は苦しんでいた。
両親も、シダケタウンに住む彼の親戚の叔父や従妹も、そんな少年を案じていた。
何度か彼に話を聞こうと試みたが、少年は決してその苦しみの理由を、あの日の出来事を、ポケモンの声が聞こえていた日々のことを話そうとしなかった。
そうして長く、少年の心は閉ざされたままだった。
けれど時は流れる。記憶は薄れる。
1年が過ぎ、2年が経つにつれて、少年のポケモンに対する好奇心は再び呼び覚まされていった。
元々、真面目で勤勉な少年が、未だ謎の多く残っているポケモンという生態に引き付けられるのは当然のことだったのかもしれない。
数年振りに彼はポケモンの本を手に取り、彼等のことをもっとよく知ろうと努めた。
ポケモンのことを知れば知る程、彼等が人間の言葉を操る筈がないと、少年は確信せざるを得なくなってしまった。
けれど、それが普通のことなのだと、少年は認められるようになっていた。
ポケモンと人間の区別を知らず、彼等と当たり前のように会話をしていたあの頃からもう数年が経過していて、あの日々を鮮明に思い出すことは困難となっていたからだ。
シダケタウンの叔父の家に行かなくなって、もう3年になる。
当初はポケモン達を思い出させるあの町を訪れることを頑なに拒んでいたが、もうあの日のような拒絶をすることはなくなっていた。
彼は夢中でポケモンのことを勉強した。分厚い本の上で踊る情報は彼を苦しめなかった。
そしてあの辛い過去の記憶が薄れていくにつれ、少年は再び、ポケモンと関わりたいと思うようになっていた。
「ミツル、叔父さんの家に一人で行ってみないか?」
父親からそんな提案を受けたのは、その頃だった。
「もし寂しいのなら、ポケモンを一緒に連れていくといい。この町のジムリーダーのセンリさんなら、ポケモンの捕まえ方を教えてくれると思うよ」
その言葉に、少年は一瞬の躊躇の後で、頷いた。
彼は、10歳になっていた。
*
捕まえたラルトスというポケモンを、少年はとても大切に育てていた。
ポケモンをどのように捕まえるのか、どんな風に戦わせるのか、どの草むらや森にどんなポケモンが暮らしているのか、そうしたことを少年は全て知っていた。
そして何より、ラルトスと一緒に旅をする日々がとても楽しかった。
ラルトスの声は少年には聞こえなかった。か細い声で頼りなげに鳴く他には、彼は全く声を発しなかった。
しかし、それが当然のことなのだと、少年は受け入れられるようになっていた。
モンスターボールにポケモンを閉じ込めることへの抵抗も、バトルで戦わせることへの躊躇も、少年には最早存在しなかった。
彼は長年の勉強を経て、ポケモンと人との在り方を完全に理解していた。
ポケモントレーナーとして歩みを進めた彼は、かつてポケモンと会話をしていたあの日々のことを忘れていく筈だった。
しかし少年は、思わぬところで「彼女」と再会することとなった。
キンセツシティのジムに挑もうとしていたところを、叔父に止められてシダケの家へと帰る途中の出来事だった。
ポケモンセンターでラルトスを回復させてから、少年は叔父と117番道路を歩いていた。その時、少年はそのポケモンを見つけたのだ。
赤と青の薔薇を両腕に咲かせた、鮮やかなポケモン。3本ある棘のうち、真ん中の棘が渦を描くようにくるりと曲がっていた。
数年の時を経て、少年はあの時のロゼリアと再会するに至ったのだ。
「ロゼリア……」
もう、彼は言葉を話さないロゼリアに怯えることはしなかった。彼女と話ができていた頃の記憶と、今のロゼリアの姿との間に生じた隔絶は、もう彼を苦しめなかった。
言葉がなくとも、少年はラルトスとコミュニケーションを取ることができたからだ。
ポケモンはとても表情豊かで、様々な方法で彼に自分の感情を伝えてくれていた。そのことに気付けた今なら、あの時とは違う接し方ができると信じていた。
『待っているわ、ミツル。必ず私を連れていってね、約束よ!』
それと同時に、あの時の約束を果たしたいという思いが彼の胸を満たしていた。少年はポケットから空のボールを取り出してロゼリアに差し出した。
けれどロゼリアは、そんな少年に攻撃を仕掛けてきた。
彼のモンスターボールから飛び出してきたラルトスが、その攻撃に応戦した。待って、と止めようとした言葉を少年は飲み込まざるを得なかった。
もう彼女にとって自分は、数年振りに再会した友人ではなく、数多のポケモントレーナーの一人でしかないのだと思い知らされたからだ。
……解っている、仕方のないことだ。少年は人間で、ボールにポケモンを入れて連れ歩くことを選んだポケモントレーナーだ。
彼女は一匹のポケモンとして、少年の実力を見定めようとしているだけなのだ。
ロゼリアを責めることなどできなかった。それは少年が人間で彼女がポケモンである以上、仕方のないことだと理解していたし、先に彼女を拒んだのは少年の方だったからだ。
『来ないで!』
あの拒絶にロゼリアが傷付き、少年を憎んでいたとして、それはだって、当然のことだったのではないだろうか。
「……」
投げたモンスターボールはロゼリアを飲み込み、3回揺れて動かなくなった。
少年はそのボールを拾い上げて宙に投げた。現れたロゼリアは真っ直ぐにミツルを見上げていて、彼は思わずその小さな身体を抱き締めた。
彼女は何も言わない。彼等の言葉は交わらない。それでもいいと受け入れていた筈だ。言葉がなくとも通じ合える関係を、少年はラルトスと築いてきた筈だった。
それなのに、どうしようもなく悲しかった。
彼等と言葉を交わすことのできたあの日々を、少年は今も忘れていない。
何が間違っていたのだろう。少年はふと、そんなことを考える。
あの会話は、ポケモンと人間の境を知らない幼い境地だったからこそ為せたことだったのか。
ポケモンの言葉が聞こえなくなったのは、自分がポケモンを、人間の世界のフィルターを通して見るようになってしまったからなのか。
ポケモンが人間の言葉を操ることなどしないと、知ってしまったからなのか。
それとも、あの会話は病弱だった自分にポケモン達が見せた幻覚だったのだろうか。本当はポケモンの声など最初から聞こえていなかったのではないか。
けれどそれならば何故、少年の幻である筈のそのポケモンは、再び自分の前に現れたのか。
「答えは、まだ見つかっていません」
「……」
「だから、もっとポケモンのことを知りたいんです。もっと彼等と一緒に戦って、まだ見ていないところに辿り着いて……。
そうしていれば、もしかしたら、またポケモンの声が聞こえるようになるかもしれない」
連絡船がバトルリゾートへの到着を告げた。
彼は手すりに凭れていた身体をそっと起こして、少しだけ肩を竦めて笑った。
「聞こえるようにならなきゃ、いけないんです。ロズレイドに謝らなければいけないことがあるから。ボクはまだ、彼女に許してもらっていないから」
甲板を蹴る足音が遠くなる。私は動けずにいた。
潮風があまりにも冷え切っているような気がして、心臓が泣くように震えていた。
2015.7.6