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翌日、少年は再びレクリエーション室へと向かい、昨日の女の子が塗り絵をしているところへ歩み寄った。
挨拶をするためにぱっと顔を上げた彼女に、少年は一つのお願いをする。

「ボクにポケモンのことを教えて」

知らなかったのなら、学べばいい。彼の無垢で純粋な心はそのように結論を出した。
そして彼女はその懇願に嬉々として、ポケモンに関するあらゆる話をした。彼はそのアッシュグレーの目を大きく見開いて、彼女の言葉に何度も頷きながら話を聞いていた。

ポケモンは6匹まで連れ歩けて、それ以上捕まえるとパソコンに自動的に保存されること。
戦い続けていると「進化」というものを経験し、姿が変わり、強くなること。
彼等は人間を慕い、共に仕事をしたり、一緒に暮らしたり、ポケモンバトルを通して絆を深めたりしていること。

同年代の子供達は、ポケモンのことについてあまりにも無知であった彼を訝しんだが、理解の早い彼が即座に皆と同等の知識を身に付けたことにより、その懐疑も薄れていった。
ポケモンの話題を通して、少年が更に彼等と親しくなるまでに、そう時間は掛からなかった。

急にポケモンへの興味を示した少年に、両親はとても驚いていた。
彼等は少年がトウカやシダケの家で、ポケモンと会っていることを知らなかったのだ。
しかし、彼がポケモンのことを話すときに決まって笑顔になることに気付くと、特に心配することもなく、彼の興味のままにポケモンに関する本を買い与えた。
彼はそれらを宝物のように持ち歩き、昼も夜も読み耽っていた。
元来の努力家で真面目な気質がその好奇心に拍車をかけ、数週間の入院生活の後に、彼は同年代の子供達の中で、誰よりもポケモンのことに詳しい少年となっていた。

ポケモンのことを正しく理解したい。
全ては少年の純粋な思いが支えた行動だった。

自分にとってのポケモンと、皆にとってのポケモンとの間には決定的な差異があることに少年は気付いていた。
皆が間違っているのだと声高に唱える勇気はなかった。けれど自分が間違っているのだと諦めてしまうには、彼がポケモンと過ごした時間はあまりにも長く、優しすぎた。
だからこそ、少年は皆にとってのポケモンを理解しつつ、自分だけが知っているポケモンのもう一つの側面を、自分だけの秘密にして、大事に持っておこうと決めていたのだ。
若干6歳の少年が手にした初めての処世術は、あまりにも高等で、それでいてどこか悲しいものだった。

更に数週間が経過した頃、彼はミナモシティの病院を去ることとなった。多くの友人に見送られ、彼は海の見える町を後にした。
先にシダケタウンの親戚の家に寄りたいと言った少年の願いを、両親は快く聞き入れた。
数か月間、一度も会うことの叶わなかったポケモン達に、彼は今すぐにでも会いたかったのだ。

シダケの家に戻るなり、少年は窓を勢いよく開けた。
そこから見える町の風景は何ら変わっておらず、そのままの姿で彼を迎えた。

もう直ぐ、ロゼリアがこの辺りを通る時間だ。
そう思った少年は、「30分だけ外に出させてほしい」と両親に訴えた。
入院を経て、彼の体調は好転の兆しを見せていたため、彼等はその訴えに心配そうな表情を見せながらも、彼の外出を許すことにした。

「あまり遠くに行っちゃ駄目よ」

「大丈夫だよ、この家の前を歩くだけだから」

彼の言葉に両親は首を傾げたが、それなら安心だと笑い、彼を快く送り出した。
重いドアに力を込めて押し開ければ、その隙間から吹き込んだ冷たい風が少年の頬を撫でていった。思わず息を飲み、恐る恐る一歩を踏み出した。

自分が窓の向こうではなく、外に出てきているところを見たら、ロゼリアはどんな顔をするだろうか。
そんなことを想像しながら少年が微笑んだ、その瞬間だった。南に生える木々の間から、見慣れた赤と青の薔薇が姿を現したのだ。

「ロゼリア!」

その言葉に彼女は少年の方を振り向き、ぱっとその顔に笑みを湛えて駆け寄ってきた。
頭の3本の棘のうち、真ん中の1本は渦を描くようにくるりと曲がっていた。それはこのロゼリアが「彼女」である証だった。
実に数か月振りの再会に、少年は胸の奥が熱くなるのを感じていた。

彼女に話したいことが、沢山あった。
新しい友達が沢山できたこと。ポケモンのことについて勉強をしたこと。両親に分厚いポケモン図鑑を買ってもらったこと。それから……。
はやる気持ちを抑え、少年はまず、ずっと姿を見せられなかった理由を話すことにした。

「ずっと会えなくてごめんね。ミナモシティっていう町に入院していたんだ。でも、おかげで少し元気になったよ」

「……」

「それにね、向こうで友達ができたんだ。ポケモンのことを沢山、教えてもらったんだよ」

早口で喋り続けていた少年は、しかし大きすぎる違和感に言葉を止めた。
ロゼリアが無言を貫いているのだ。彼のどんな言葉にも笑顔で相槌を打ち、「それから?」と続きを促してくれていた彼女は今、何も話さず少年の方を見上げるばかりだった。
長く姿を見せなかったことを、怒っているのかもしれない。そう思った瞬間、少年の耳に音が届いた。

「音」が、届いた。

少年は自分の耳を疑った。彼女から聞こえてくる筈の、優しいメゾソプラノの声音は、少年のよく知る言葉の形を取ってはくれなかったのだ。
さっと血の気が引いて、強い眩暈が少年を襲った。彼は懐疑と恐怖のままにロゼリアへと手を伸べる。

ポケモンがどのように鳴くのかを少年は知っていた。普通のポケモンが人間の言葉を話さないことも解っていた。
けれどこのロゼリアは違う筈だったのだ。だって少年は、このポケモンに沢山のことを教えてもらったのだから。
道端に咲く、鮮やかな赤や青の花の名前。死の概念と生の素晴らしさ。彼女に宿った赤い薔薇よりも美しい、この世界の何処かにある、赤い花の存在。
あの窓と外の世界を、彼女はいつだって繋いでくれた。少年に希望をくれたのは、いつだってポケモン達だったのだ。

……確かに、ロゼリアは喋っていた。
ロゼリアだけではない。いつか訪れる少年との別れに悲しそうな顔をしたプラスルも、彼の旅に皆で付いていけばいいのだと提案したゴクリンも、皆、喋っていた筈なのだ。
彼等にも確かに鳴き声はあったけれど、それでも、彼等は言葉を操っていた。少年と同じ、人間の言葉を話していた。あの日々を少年は覚えていた。
それなのに。

「……ロゼリア、どうしたの?」

首を傾げるロゼリアは、小さな鳴き声を上げて少年の方へと両腕の薔薇を伸ばした。
……喋らない。彼女の言葉が、聞こえない。

「ねえ、喋ってよ、ロゼリア。どうして喋ってくれないの?どうして……」

少年が何度、その小さな身体に話し掛けても、彼女は言葉を発することをしなかった。
確かにロゼリアは喋っていたのだ。少年は彼女の言葉を聞いていたのだ。
果たして、彼女が喋らなくなってしまったのか、それとも少年が聞こえなくなってしまったのか。
変わってしまったのは彼女だったのか、それとも彼だったのか。

「嫌だ……」

背中を這い上がってくる恐怖に少年は震えた。気付けばロゼリアが伸ばした腕を力の限り払いのけていた。
そのつぶらな瞳が驚愕に大きく見開かれていた。彼の方へと踏み出したロゼリアの足は、しかし彼の絞り出すような悲鳴にぴたりと止まった。

「来ないで!」

彼はくるりと踵を返し、ドアを勢いよく開けて中へと飛び込んだ。
わっと泣き出した彼に両親は慌てて駆け寄り、どうしたと尋ねるが、零れ続ける涙が彼の言葉をも奪ってしまっていた。

何処へ行ってしまったというのだろう。
少年に沢山のことを教えてくれたあのロゼリアは、彼と飽きる程に会話を交わしたあのポケモンは、何処へ行ってしまったのだろう。
彼等だけが交わすことのできた、彼等だけの間に存在していた、あの言葉は、何処へ。


2015.7.6

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