潮風が、若草色をした髪をふわふわと舞い上げていた。アッシュグレーの目は、海の色を吸って淡い青に色付いているようにも見えた。
まだ10歳の少年であるということを差し引いても、その身体はあまりにも華奢で、纏った色はあまりにも儚げだった。
風が吹いたら飛んでいきそうだと、思った瞬間、私の足は動いていた。その肩をぽんと叩き、驚きに目を見開いて振り返った彼に微笑みかける。
「あ、トキさん!」
「こんにちは、ミツル君。今日もバトルリゾートに行くの?」
船の手すりに身体を預けるようにして凭れ掛かり、大きな船体、タイドリップ号が海を切って進む音に耳を傾けてみる。
あの島に着くまで、あと20分と言ったところだろうか。私は手すりに背中を預けたままに大きく伸びをして、船に吹き付ける潮風を深く吸い込んだ。
時間の効率性を問うのなら、ラティオスの背中に乗せてもらい、大空を駆けた方が何倍も早く辿り着ける。
けれど私は、敢えてあのポケモンを呼ぶための笛を使わず、この船に乗ることを選んだ。
特に急がなければいけない理由もなかったし、何よりこの船に乗らなければできないことがあったからだ。
その一つがこの少年との会話であり、私は偶然を装って彼に話し掛けておきながら、実は彼がこの時間帯の船に乗ることなど、もうずっと前から知っていたのだ。
この船の上では、バトルをしなくてもいい。彼に勝たなければと焦る必要だってない。
私は彼に勝たなければいけなかった。けれど日増しに強くなっていく彼に、私はいつまで勝つことができるのだろうと不安ばかりが募っていた。
この少年は私のことをライバルだと思ってくれているけれど、彼の実力はもうとっくに私を追い抜いているように思われたのだ。
それ程に彼は恐ろしい程に勉強家で、そんな彼のポケモン達も恐ろしい程に強かった。私は彼のそんな強さに焦がれ、そして、彼を恐れていた。
彼はそんな私を見上げ、「トキさんだってそうでしょう?」と尋ねたので、私は得意気に肩を竦めてみせた。
「私は違うわ、ただのバカンスよ」
「バカンス、ですか?」
「そうよ、あの海で泳ぐのが好きなの。バトルリゾートの周りは潮の流れも弱いから、私みたいな素人が泳ぐには丁度いいんだ」
私は大きく伸びをした。30度を超える真夏日が続くこの季節、海の上を走る風はとても心地いい。
潮の香りが苦手だという人も少なくないようだけれど、私はこの風が大好きだった。
その風を最も強く肌に当てることのできるこの場所で、ミツル君に会えた。今日はきっと運がいいのだろう。そう思うことにした。
「ボクでは物足りませんか?」
「え、……どういうこと?」
「貴方のライバルに、ボクは力不足ですか?」
だから、バトルをしようとしないんですか?彼は言外にそんな言葉を含んで私を見上げる。
それは私の台詞だ。私の言葉を奪わないでほしいと、彼を少し憎らしく思ったくらいだ。
私には、彼のような恒常的な情熱も、ポケモンバトルに対する狂信的な執着もありはしない。あるのはただ、ポケモンと一緒にいるのが楽しいという思いだけだ。
けれどそんな甘ったるい思いだけでは限界がある。ポケモンと目指せる高みにどこまでも登っていきたいという願いは、それに相応しい知識と機転がなければ叶わない。
そして、私はその鍛錬を放棄し、ただこの土地でポケモンと過ごす時間を愛することを選んだ。高みを目指さなくても私は幸せでいられた。だからバトルの前線から退いた。
けれど彼の情熱と向上心は留まるところを知らない。私はその姿に最初の頃こそ感心していたけれど、やがて不安に思うようになった。
頑張り過ぎていないか?夢中になり過ぎて狂気の沙汰となっていないか?強くなれねばと慌て過ぎていないか?彼は本当に、ポケモンバトルを楽しんでいるのか?
解っている。楽しくなければ続けられない。けれどそれ以上に、ポケモンが好きだという思い以上に、彼には大きすぎる焦りを感じた。
そしてその焦燥は、きっと私を倒したところで収まりはしないのだと解っていた。
それならば、彼の前に立てている今のうちに、彼の全てを知っておこうと思ったのだ。
彼が私を慕うのは、私が彼のライバルだからだ。私が彼に一度も負けたことがないからだ。
だからこその尊敬の意がそこにあって、私が彼とのバトルに負けてしまったその瞬間、私は彼の中で、彼が打ち負かしてきた数多のトレーナーの一人に成り下がるしかないのだ。
それが高みを目指す者の正しい在り方だと理解していた。いつまでも、登りきった山を振り返って満足そうに微笑むなど馬鹿のすることだ。
向上し続けたいなら、振り返るのは一度でいい。そうして敗者となった私は忘れられていくのだろうと知っていた。そして、だからこそ焦っていた。
「そんなことないわ。ミツル君が強すぎて、バトルをするのが怖いだけ」
彼が私を見てくれているうちに、私は彼のことを知らなければならない。彼の焦りの正体を掴まなければならない。そしてできることなら、その焦りに寄り添いたい。
そんな、勝者だけが持ち得る傲慢さを振りかざして、今日も私は偶然を装い、彼の前に現れる。
彼は一体、何に焦っているというのだろう。
「トキさん、ボクのロズレイドを覚えていますか?」
「え?」
覚えていない筈がない。バトルリゾートでバトルをするときは、いつも一番手として出てきていた彼のポケモン、それがロズレイドだった。
彼女が放った毒タイプの技に、私のサーナイトがやられそうになったことは記憶に新しい。
チャンピオンロードではロゼリアだった彼女だが、進化した今では益々頼もしいポケモンとなり、彼のバトルを支えている筈だ。
そんなポケモンの名前が出てきたことに私は多少なりとも驚いたが、「勿論、覚えているよ」と笑顔で返した。
すると彼はその細い眉を悲しそうに下げ、とんでもないことを口にしたのだ。
「ボク、ポケモンの声が聞こえていたんですよ」
私は思わず、船の甲板を走り回っているプラスルに視線を移した。彼女は海を渡るキャモメと一緒に船を駆け、楽しそうにはしゃぐ声がここまで聞こえてきていた。
けれど、この少年が言っているのは、きっとそのプラスルの鳴き声のことではないのだろう。
彼の「声が聞こえていた」という言葉は、もっと特殊なものを指しているのだと解っていた。
人と人とが会話するようにポケモンとも言葉を交わし、彼等の声を人間の言葉として聴き取る力。……そんな、通常の人間には持ち得ない力のことを指しているのだ。
そうした能力を持つ人間がいることを、私はイッシュに住む友達から聞いて知っていた。
故にそんな力が存在することにはさして驚かなかったが、その能力がこの、若干10歳の少年に備わっていることには流石に息を飲まざるを得なかった。
けれど、その言葉に少しだけ違和感があった。「聞こえていた」という言い方に私は首を捻り、そして尋ねた。
「今は、聞こえないの?」
「……はい」
彼の白い肌にふわりと小さなえくぼが浮かび上がる。細い眉は悲しそうに下げられていて、竦めた肩は恐ろしい程に華奢であった。
それは、まだ10歳になったばかりの少年である彼が見た、儚い夢の中の出来事だったのだろうか。
あるいは、病弱であった彼が、病に伏している時に見た幻覚の類だったのだろうか。
それとも彼は、本当に起こったことの話をしているのだろうか。
何もかもが解らずに私は沈黙した。
そんな私を許すように彼は微笑み、手すりに身を乗り出すようにして両手を海へと伸ばした。
「ボクの話をしてもいいですか?」
「!」
「トキさんに、話しておきたいんです」
心臓が大きく跳ねた。私に、頷く以外の選択肢がある筈もなかった。
だって私はこのために彼に会いに来たのだから。彼の飽くなき向上心と、恐ろしい程の焦燥の正体を知りたくて、私はこの少年と関わり続けていたのだから。
私がミツル君に負かされてしまう前に、どうしても知っておかなければいけなかったのだから。
けれど、彼という存在が、他でもない彼の口から紐解かれようとしている今になって、私は急に、不安になった。
私はこの子の焦燥に寄り添えるのかしら。ポケモンの声が聞こえるなどというとんでもない次元の話に、私は共感し、理解することができるのかしら。
彼に、適切な言葉を与えることができるのかしら。私は彼を少しでも救えるのかしら。
けれど、できないかもしれないと不安になり、躊躇って機会を逃すなどという愚かな真似だけはしたくなかった。
きっとこれだって、超古代ポケモンを鎮めることや、この星に向かってきていた隕石を壊すことと同じくらい、造作もないことに違いないのだ。
私はいつもそうやって、全てのことを楽しく乗り越えてきたのだから。今回のことだって、きっとその内に一つに過ぎないのだから。
私は大きく息を吸い込んだ。心地良い夏の潮風が肺を満たして、笑みを作れば少しだけ前向きになれた。
「聞かせて、ミツル君」
彼の話が、始まった。
2015.7.4