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ダイゴは時計を見た。父親が設定した時間まで、あと30分を切ろうとしていた。
彼は少し考え込むような素振りをして、少女の手を引く。

「もう一か所、君と行きたい場所があるんだ。付き合ってくれるかい?」

その言葉に少女はクスクスと笑い、とても楽しそうにダイゴを見上げてみせたのだ。

「あれ?私達は今から婚約者なんでしょう?」

「あ、……そうだったね」

「婚約者のお誘いを邪険にできる程、私は冷たい人間ではないつもりよ、ダイゴさん」

敬語を使うのをやめてほしいという、ダイゴの申し出を少女はしっかりと覚えていた。
だからこそ、彼女の得意とする上品な言葉遣いを取り払って、真っ直ぐにダイゴに語り掛けているのだ。ダイゴはそのことがどうしようもなく嬉しかった。
ダイゴは少女の手を握っていない方の手をポケットに入れ、エアームドの入ったボールを取り出して投げた。

「君にそんな傷だらけのドレスを着せたまま、カントーに帰らせる訳にはいかないからね。ミナモシティのデパートで、服を買おう。
今、着ているようないいものは流石に用意できないけれど、構わないかい?」

少女はその目を輝かせて、頷いた。
ダイゴは先にエアームドに乗ろうとしたのだが、放した筈の手を再び少女に捕えられてしまう。
どうしたのかと振り向けば、少女はエアームドの背中を指差して楽しそうに微笑んだ。

「今度は、私を前に乗せて。ホウエンの景色をもっと見ておきたいの」

そんな可愛らしい彼女の懇願にダイゴは頷き、その手をしっかりと掴んだまま、エアームドの背中に誘導した。
鋼の翼を羽ばたかせて飛び立つエアームドに、ダイゴの前に乗っている少女から歓声が上がる。風を感じるように両手を広げ、無邪気な子供のように歓喜の声を宙に放った。

「空がこんなに広かったなんて!」

その笑顔に釣られるようにしてダイゴも笑った。この笑顔には確かな引力があったのだ。
それはダイゴにしか解らない引力だったのかもしれない。それならそれでよかった。寧ろ人を好きになるとはそういうことなのではないかと思ったからだ。

二人を乗せたエアームドは、ルネシティの丸く切り取られた空を抜ける。
広がる青を、少女はその目に焼き付けている。ダイゴはその少女の先程の言葉を思い出していた。
『私がそれでも、愛に意味を見いだせない愚かな人間だとしたらどうするおつもりですか?』
そんな筈はない。ダイゴは確信していた。
この少女は愛を切り捨てられる程に愚かな人間ではない。自由と愛とを天秤に掛けなければならないという、固定観念に縛られ続けることもきっとない。
ダイゴはそう信じていたのだ。出会って間もない、9つも年下の少女を彼は心から信じていた。
しかし、その信頼に根拠などなかった。彼女の笑顔や目の輝きが持つ引力がそうさせたのであって、裏付けなど一つもない。それなのに、ダイゴは確信している。信じている。

『これが、愛ですか?』
愛を知らないのは、何も少女だけではなかったのだ。ダイゴも同じように、そうした思いに関しては全くの無知であった。
けれど、自分は確かにこの少女を好きになった。この少女の愛に関する推量と拒絶をそのままにしておきたくなかった。それは紛れもない真実だった。

トキちゃん、君の好きな色は?」

ダイゴはそう尋ねた。彼女はくるりと振り返って「赤です」と即答し、楽しそうに笑ってみせた。
だって恋の色だもの、と続けた彼女にダイゴは少しだけ首を傾げる。

「君は愛など信じていないのではなかったのかい?」

「ええ、でも赤は好きよ。人を好きになる気持ちも、誰かを想う心も、それを象徴するような恋の赤色も、好き。
でも私は、それに憧れこそすれ、そんな美しい気持ちを持つことなんてできないから」

「どうして?」

「だって私、嘘吐きなんですもの。きっと私の愛の色はくすんでいるのよ」

信じられないことを断言して少女は笑った。その断言も、嘘吐きな彼女が吐いた嘘に過ぎないのだろうか。それとも、これは彼女の真実だろうか。
彼女の真偽を見抜くためにその目を見ることを心掛けていたダイゴは、しかしそれを自由に見ることができない今の状況に少しだけ苛立った。
彼女は振り返ってはくれない。故に真偽は確かめられない。彼女のどんな言葉よりも正直な彼女の目は、広すぎる空へと向けられたままだ。

ミナモシティのデパートへとやって来た二人は、直ぐに女性服を取り扱っている階へと向かった。
ここにある服なら、どれでも好きなものを買ってあげられると思うよ。そう告げたダイゴに少女は小さな歓声をあげながら店の敷地へと飛び込んでいった。
……まさか彼女は、デパートでの買い物をしたことがないのだろうか。だからこんなにもはしゃいでいるのではなかろうか。
そう考えたダイゴは、服のサイズの表示が解らずに悪戦苦闘しているのではと少し不安になったが、勝手を知っているように歩き回る少女を見て、ああ杞憂だったと思い直し苦笑する。

「ボクは此処で待っているから、気に入った服があれば声をかけてくれ」

そう言って店の隅で待っていたのだが、少女はその僅か3分後にやって来た。
女の子の買い物はもっと時間が掛かると思っていただけに、彼女の即決はまたしてもダイゴを驚かせる。
ピンクや色など、可愛らしい服が多くを占める並ぶ店の中から、少女が選んだのは赤いノースリーブとショートパンツだった。黒いレギンスまで添えている。
そのセレクトを見て、思わずダイゴは笑ってしまった。ピンク色の上品なドレス姿しか見ていない彼としては、その格好はあまりにも少女に不釣り合いのように思われたからだ。

「君はショートパンツを履いたことがあるのかい?」

「いいえ、だから選んだの。とても動きやすそうでしょう?」

少女が本当にそれを着たがっているように見えたので、ダイゴは頷いて彼女を試着室へと送り出した。サイズが合っていれば、そのまま会計を済ませて店を出るつもりだ。
慣れないショートパンツのせいか、少し時間を掛けて着替えを終えた彼女は、その場でくるりと一回転して笑ってみせた。

『きっと私の愛の色はくすんでいるのよ。』先程の少女の言葉が脳裏を掠める。
人を好きになる気持ちや、誰かを想う心の象徴としての赤が好きだとダイゴに告げた少女は、その想いの色をしかしとても優雅に着こなしていた。
先程まで淡い色のドレスを着ていたとは思えない程に、その格好はよく似合っていたのだ。
だからダイゴは嘘吐きな少女に、思いのままを伝えることにした。

「君は赤が似合うんだね」

「あら、そんなことを言われたの、初めてよ」

「ボクはお世辞を言えるような人間じゃないからね。……よかった、君の色はくすんでなんかいなかったんだ」

少女ははっとしたように顔を上げ、その柴色の目に彼を映してふわりと微笑む。
「ありがとう」と優しい声音で紡いだ彼女の言葉の意味を、きっとダイゴだけが知っていたのだろう。

「本当は帽子も欲しかったんだけど、気に入ったものがなくて」

「カントー地方は風が強いのかい?」

「いいえ。空を飛ぶのに髪が乱れるから、それを支えておける何かが欲しいと思ったの」

その言葉に、ダイゴは一つの贈り物を思い付いた。
しかしそれをこのデパートで探すには、あまりにも残りの時間が少なすぎるように感じられた。
後日、彼女の元へ送ればいい、とダイゴは思った。
そう、彼女とはこれから飽きる程に顔を合わせることになるのだ。今日はその始まりの3時間に過ぎない。二人の関係は約束され、終わることなどきっとないのだから。

「それじゃあ戻ろうか、トキちゃん」

ダイゴは思わず少女に手を差し伸べていた。彼女は少しだけ驚いたように目を見開き、しかしふわりと微笑んでその手をそっと添える。
少しだけ力を込めて握れば、隣からクスクスと笑い声が聞こえた。

「変なの。あんなに終わってほしかった3時間なのに、今は少しだけ名残惜しい」

ダイゴは息を飲んだ。頬を僅かに染めた少女が「これも嘘だとお思いになる?」とおどけたように笑ってみせた。
「いや、思わないよ」とダイゴは答えた。彼女は嘘吐きだが、その笑顔はとても饒舌で正直だったからだ。
少女が社交辞令でそんなことを言う人間ではないことをダイゴは知っていたし、何よりその声音には人を騙す色が含まれていなかった。

この少女と向き合いたければ、彼女の嘘と真実を見抜かなければならない。
『嘘か真実か、見抜くんだ。君が大切な人を守りたいと思うのなら。』
あの夏の日、ダイゴは遥か遠くの地に住む一人の少女に、そんな助言をした。その言葉がまさかこのような形で自分の胸に刺さることになるとは思ってもいなかった。
おかしな偶然にダイゴは笑った。少女は同じように微笑んでダイゴの手を握り返した。


2015.3.7
『嘘か真実か、見抜くんだ。君が大切な人を守りたいと思うのなら。』……ポケモン長編「サイコロを振らない」前編3話より抜粋。

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