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ダイゴは迷っていた。彼の懇願に対して沈黙する少女に、どのような言葉を続けるべきか迷っていたのだ。
それと同時に、ダイゴは自身の中に渦巻く感情に付けるべき名前にも迷っていたのだ。

『なら、私はそんなもの、要らない。』

彼女らしくない、荒んだ低い声音で紡がれたその拒絶の言葉は、自由を求めるが故のものだった。
彼女は自由に焦がれていた。焦がれすぎていたのだ。そのためなら、愛など簡単に切って捨ててしまえるのだと。
しかしそれは、愛を知らない者の戯言でしかなかった。それをダイゴは理解していた。しかし愛の本質を彼女に説くことはできなかった。
何故ならダイゴも人を愛したことがなかったからだ。

『大切なものは、自由の足枷になるのかしら。愛は、不自由なものなのかしら。』
そんな彼女の言葉が間違っていると、ダイゴに証明する手立ては存在しない。けれど、自由と愛とが両立し得ないという彼女の結論に、同意することもできない。
彼女を説き伏せられるだけの経験をダイゴは持たなかった。
ダイゴは自由と愛に関して限りなく無知であった。そして、それは彼女も同じだ。

自由を持たない彼女が、愛を知らない彼女が、そのどちらかを選び取れる筈がない。

「9歳も年下の私が、貴方に砕けた言葉で話し掛けていると知れれば、ちょっとした騒ぎになってしまいますよ」

ダイゴは肩を竦めて笑ってみせた。
確かにその通りだとは思ったが、そんな怪奇の視線すらも払拭する魔法の関係をダイゴは知っていたのだ。
その言葉は存外あっさりと彼の口から零れ出る。何の躊躇もなしに、するりと、まるで用意されていたかのように。まるでずっと、伝える機会を窺っていたかのように。

「それじゃあ、婚約者だということにしておけばいい」

「……」

「嘘は得意だろう?」

彼女はぱちぱちとぎこちなく瞬きをする。

ダイゴはこのような、定められた関係に興味などなかった。第三者が示し合わせた婚約などもってのほかだ。
自分は自分が決めた相手を愛したいと、愛とは何かを知らぬ内から、そう願っていたのだ。

そして、ようやく見つけたかもしれないその相手に、ダイゴはこのような形でしか手を伸ばせずにいる。
歯痒いと思った。もどかしいと感じていた。けれどそれが、今の自分にできる精一杯だと、知っていた。

「婚約していることにしておけば、君はこれからずっと、こんな窮屈なお見合いをしなくて済む。
ずっと礼儀正しい淑女で居続ける必要もない。そんな風に取り繕わなくても、ボクは既に君のことを知っているからね。
どうかな、良い考えだと思わないかい?」

心臓が重い音を立てて胸を押し潰していた。これ程までに緊張したことが未だ嘗てあっただろうか。
ダイゴは右手を強く握り締めた。短い爪が掌に食い込んだ。

「だからお願いだ、諦めないでほしい」

少女は長い沈黙の後で、いつものように肩を竦めてクスリと笑う。

「……どうして?」

「知りもしない愛を諦めるには、まだ早すぎると思うんだ」

「違います、ダイゴさん。そういうことを聞いているんじゃないんです」

その目は、しかし笑っていなかった。それでいて、先程のような冷たい、荒んだ色を含んでいる訳でもなかった。
彼女の目に焼き付いた複雑な色をダイゴは紐解く。これはきっと、不安だ。
唐突にこんなことを提案したダイゴの心中を読み取れなくて、その思惑を理解することができなくて、不安に思っている。
この少女はダイゴの手の内を探るように、彼に縋るように、揺れるその目で見上げていたのだ。


「どうして貴方はそこまでして、私の愛に対する推量を貶めまいとなさっているの?」


少しだけ気取ったように発せられたその質問は彼女の装甲だった。ダイゴはそれを理解していた。
その頑丈な装甲の内側に踏み込みたいのなら、躊躇ってはいけない。傷付くことを、拒まれることを、恐れてはいけない。

「君を好きになったからだ」

少女の目は真っ直ぐにダイゴを見上げていた。ダイゴはその黒い瞳から絶対に視線を逸らすまいと誓った。
ダイゴが思うに、愛などというものは、ダイゴや少女のような若い人間には到底語り得ないものだったのだろう。
その二つの音が綴る神秘的な単語の正体を、そう簡単に知ることなどできない。
けれど愛とは何かを知らないからといって、人を愛してはいけない理由にはならない。愛されてはいけない道理などない。

「だから君に愛を拒まれると少し、困るんだ。ボクの思いが行き場を失くしてしまうから」

そう紡げば、彼女は一瞬の沈黙の後で声をあげて笑い始めた。
これに面食らったのはダイゴの方で、今の発言はそんなにもおかしいものだったのかと脳内で反省会を繰り広げる。
……確かに、出会って2時間と経たない少女に告げる言葉としてはあまりに重く、急ぎ過ぎているように感じられた。

「ああ、おかしい!こんなに笑ったのは久し振りです」

ダイゴはそんな少女にかける言葉が見当たらず、ただ苦笑して沈黙する。
暫くして笑い声が止んだその空間に、少女の凛とした声が響いた。

「ダイゴさん、私、こんなことは初めてなんです」

歌うようにそう紡いだ少女は、ルネの大樹の下をゆっくりと歩き回る。
裾の破れたドレスを揺らして、泥の付いたハイヒールで地面を踏みしだく。風に乱れた髪はふわふわと揺れていた。

「初対面の人とこっそり出かけたことも、ポケモンに乗って空を飛んだことも、砕けた言葉でお話ししたことも、こんな風に本音を投げ合ったことも、全部、全部初めてなんです」

「……」

「勿論、出会って2時間と経たない相手に、愛に似たものを伝えられたことも初めてでした」

少女は楽しそうに笑みを浮かべる。ダイゴは不安と期待の狭間に突き落とされそうになりながら、それでも彼女の目を真っ直ぐに見続けていた。
次の言葉を、絶対に聞き逃してはいけないとダイゴは思った。それがダイゴの期待するものであれ、落胆せしめるものであれ、その言葉を彼は受け入れなければならなかった。
何故ならダイゴが踏み出したそれは、他愛もない関係を変えるための勇気ある一歩だったからだ。その一歩には責任を持たなければならないと、ダイゴは知っていたのだ。

「お受けします」

だから、その言葉を少女の口から聞いた時、ダイゴは信じられない程の安堵と歓喜をその身に抱えることとなったのだ。

「……でも、もし私がそれでも、愛に意味を見いだせない愚かな人間だとしたらどうするおつもりですか?」

「その時は、君は別の道を歩むといい。世の中には色んな生き方がある。
でも、他の生き方を選ぶことだって、今の君の立場なら難しい筈だ。ボクという存在を持っていた方が、君も自由に動けると思う」

「……」

「君がボクとの人生に意味を見いだせないのなら、ボクをそれ以外の用途に利用するといい。
その時にはこれが、16歳という若さで君を婚約に縛り付けた男の末路なのだと思うことにするよ」

少女はその目を大きく見開いていた。その両目にはあまりにも真摯な表情で少女を見つめる男の姿が映っていたのだ。変なの、と少女は思った。
こんな、ドレスを破いて髪を乱したみっともない自分に、どうしてこの人はここまで執着してくれるのかしら。
私がこの人との人生に意味を見いだせなかった時には、それが罰だったのだ、とまで、どうして言ってのけることができるのかしら。
彼はその時には、自分も「愛」を諦めると言っているのだ。少女にはそれがどうしても信じられなかった。
どうして、彼は私にその全てを捧げるようなことをしてくれるのかしら。そして、どうして私の心臓は煩く揺れているのかしら。

「これが、愛ですか?」

少女は思わずそう尋ねていた。彼は少しだけ驚いた顔をした後で、困ったように、けれど少しだけ照れたように笑ったのだ。

「違うよ、トキちゃん。きっとこれは愛というもののほんの一部でしかないんだ」


2015.3.6

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