4 (Lover)

「私はこれからも貴方と一緒にいるつもりだったのよ、シェリー

貴方はそうではなかったのかしら?
そう言外に集約して、パキラはパジャマへと着替えた少女にインスタントのココアを手渡した。
消え入りそうな声音で「ごめんなさい」と紡いで受け取るその少女に、つい数十分前のあの奇跡の面影を見ることは最早不可能であった。
あまりの激情にあの時、パキラも驚いていたが、何よりもそんなことを口走ってしまった彼女も、自分の言葉が信じられないと言った風に、愕然とした表情を見せていたのだ。

泣き崩れた彼女を気のすむまで泣かせておいて、そこからやや乱暴に腕を引いて、高台の下に構えられた観光ホテルに転がり込んだ。
迷わず受け付けで部屋を借り、少女の腕を強く引いた。彼女は何も言わずに付いてきた。
水を吸って重くなった彼女のマフラーを取り払い、雫の滴り落ちる髪を備え付けのバスタオルで乱暴に拭き、パジャマに着替えるように指示を出した。
ポットでお湯を沸かし、その間にココアの粉を二つのカップに注いだ。マフラーを絞るようにして水気を取り、ドライヤーを当てながらゆっくりと乾かした。

そうした何もかもをてきぱきと行うパキラの姿は、しかし少女の目には留まらなかった。
彼女はただ茫然と項垂れて、ようやく知覚するに至った寒さにカタカタと震えることしかできなかったのだ。
そうした少女の全てをパキラは許していた。少女は何故許されているのか解らなかった。

「指は痛くない?」と、冷たい水に当て続けた人差し指のことを尋ねても、「寒いのならこれを被っておくといいわ」と肩に毛布をかけても、
「もう日が暮れそうになっているから、夕食は此処で簡単に食べましょうか」と提案しても、あるいはただ沈黙して、ベッドに腰掛けた彼女の隣に尊大な構えで座り、足を組んでも、
その度に彼女は消え入りそうな声音で、そのまま消えてしまいそうな様子で「ごめんなさい」と謝罪の音を紡ぐだけであった。

「貴方は何を申し訳なく思っているの?私のことを嫌いだと思ったことを謝っているの?」

「……」

「そんなこと気にする必要なんてないわ。私だって貴方のこと、憎らしくて堪らなかった時が確かにあったのだから」

パキラはそうした、憎悪の感情には馴染みの深い人間であり、またそうした感情に寛容な性格をしている、という風に自分を捉えていた。
何故ならパキラ自身もそうした、憤りや憎しみの感情を容易く発することのできる人間であったからだ。
故に自分がそうした憎悪を他者に向けたのと同じだけ、いやそれ以上の質量となって憎悪が他者から返ってくるようなことがあったとして、
そのことについて悲しんだり、逆上したりする気は更々なかったのだ。

けれどこの少女は臆病である。卑屈で、狡くて、どうしようもない人間である。
故にそうした臆病や卑屈の姿勢が返ってくることに対しては抵抗なく受け入れられても、パキラが少女に向けたような憎悪の感情には、きっと、慣れていなかったのだろう。
憎悪を受け慣れていないということはすなわち、憎悪を発し慣れていない、ということにも繋がる。
彼女はずっと自らの中に封じ込めてきた「大嫌い」を、あのような形で暴発させてしまったことに深く絶望しているのではないだろうか。
「貴方が憎い」というパキラの言葉に少女が傷付いたのと同じだけ、自らの「大嫌い」がパキラの心を鋭く切りつけてしまったと悔やんでいるのではないだろうか。

「ごめんなさい……」

それでも、パキラが「気にしていない」「これでおあいこだ」という意を示しても尚、彼女は謝罪の言葉を止めない。
いよいよ躍起になってパキラは手を伸べて少女の口を塞いだ。泣き腫らした鉛色の目が大きく見開かれた。

「私は「気にしていない」と言ったのよ。それでも貴方が告げるその言葉は、もう私に向けられてなんかいない。それは貴方のための言葉でしょう、シェリー

彼女は何か言おうとして口を動かしたのだろう。けれど音を発する術はパキラの右手が奪ってしまっているため、その音はくぐもったものにしかならなかった。
けれど「でも、」と反論しようとしたのではないかと推測できてしまう程には、パキラは少女の目の色から、その表情から、次の言葉を読むことに慣れ過ぎていた。

「貴方が救われたいならそのための言葉は私が用意するわ。だから黙りなさい。……少なくとも私は、貴方の本音を聞くことができて、今、少しばかり浮ついているのだから」

その言葉に少女はひどく驚いたような顔をした。
パキラが彼女の口から手を離すと同時に「どうして?」と、縋るような目で見上げられた。
「私は貴方を酷い言葉で傷付けた筈なのに、どうして貴方は喜んでいるのか」それを問われているのだと理解したパキラは、肩を竦めて少女の、まだ水分を含んだ髪を撫でた。

「此処からは私の独り言よ。貴方はただ黙って聞いていればいいわ」

そう告げれば、やはり例に漏れず少女は少しばかり安心したように、細く小さな息を吐いた。パキラはそのままベッドに倒れ込んだ。
スプリングが小さく軋む音がして、白い天井が視界を覆った。少女は、隣に倒れて来なかった。

シェリー、私は貴方の言葉が聞きたかった。貴方が私に何を求めているのか、私のことをどう思っているのか、聞き出したかった。知りたかったの。
貴方が自分から口火を切る勇気を得るまでに、いつもの3時間は短すぎるような気がしたの。だから貴方を旅行に誘って、貴方の何もかもを暴こうとした」

けれど、やはり解らなかった。この少女は上手く紐解けない。
彼女の心を開くために、1年という月日はあまりにも短すぎたのだろう。彼女に深く根を張った臆病の芽を、たった1年で摘み取ろうなどという無茶が叶う筈がなかったのだ。
そして、摘み取れなかったとしても、それはそれでよかったのだろう。知ることができないならば、知らないままでよかったのだろう。

「貴方のことはまだよく解らない。けれど、もう何だっていいわ。
貴方が何を考えていようと構わない。私は何にだってなってあげる。貴方が私に何を求めようとも、私が全部叶えてあげる」

「どうしてですか?どうして、そこまで、」

「独り言だって言ったでしょう?貴方の質問には答えないわ」

おどけたようにそう言い返せば、少女はようやく身体を倒して、パキラの隣にその綺麗な顔を並べた。
パキラは夕日を映したような鉛色の目を覗き込むように見つめてから、少しだけ赤くなった鼻を指で摘まんだ。いつものように肩を震わせて笑い始めた少女に心から安堵した。
そしてその目に静かに懇願する。「いなくならないで」と。

フラダリを弔うための真っ赤な喪服を身に纏っていた頃の少女が忽然と姿を消したとして、そうであったならパキラはフラダリを憎めたのだろう。
自分から大切なものを二つも奪った男のことを、パキラはいよいよ二度と許せなくなっていたのだろう。
しかし少女はもう赤を纏わない。彼女の喪の作業は終わってしまった。パキラはそのことに安堵していた。
けれどこの段階で少女が姿を消してしまえば、パキラの手をすり抜けてどこか遠くへ行ってしまえば、果たして彼女は誰を責めればいいのだろう。誰を憎めばいいのだろう。

終わりのない自責の念を抱え続けることは、パキラにとってどうしようもなく恐ろしいことだった。
彼女は怒りや憎しみといった外部へと向ける感情には慣れていたが、自信の中に積み上げていく感情を上手く片付けていく術を知らなかったからだ。
それこそ「大嫌い」と金切り声で叫んだ少女のように、途方に暮れるしかないのだろうと心得ていた。
だからこそ、他でもないパキラ自身が少女を手放したくなかったのだ。
彼女を喪うことは恐ろしいことだった。彼女自身の愛しさを、認めざるを得なくなっていた。

「貴方が臆病で卑屈な自分を変えたいと思うのなら、協力するわ。でも頑張ることに疲れたなら、いつでも止めてしまえばいい。
貴方が臆病で卑屈な今のシェリーのままだったとして、変わりたいと努めた結果、何も得られなかったとして、私はそれでも貴方を嫌いになんてならない」

「愛嬌」の意味が分からないなら、私がこれから長い時間をかけて教えてあげる。
自分にとって有益であるか否かといった、あまりにも貧相な判断基準でしか人と関わってこなかったのなら、それ以外の価値を一緒に探してあげる。
それでも貴方が貴方自身の価値を見出せないのなら、貴方が貴方であることだけでいいのだと笑ってあげる。
貴方を肯定するための言葉なら、私は星の数程に持っている。

「私は貴方が何をしても、何もしなかったとしても、私を嫌っていたとしても、憎らしくて情けない貴方のことが好きよ、シェリー

息を飲む。囁くように紡がれたパキラの言葉は、しかしこの少女にどれ程伝わったのだろう。
臆病の類が生む恐れや緊張は、人の思考力をあまりにも容易く殺いでいく。常習化した卑屈は向上心や積極性を鈍麻させる。故に彼女は愚かになるしかなかったのだ。
常人が直ぐに思い至れるようなことであったとしても、迷わず動けるようなところであったとしても、彼女はその何倍もの時間と勇気を要するのだと、
しかしパキラは解っていたからこそ、彼女が理解しうる言葉を選び、その理解を急くことなくゆっくりと、しかし確実に言い聞かせた。

「だから、私を貴方の隣に置きなさい」

それでも、届かないことがある。それが言葉というものであると解っていたから、今更、彼女が絶望する理由などないのだけれど。

それから「私の独り言はこれで終わりよ」と告げたパキラに、しかし少女は矢継ぎ早に、そして驚く程饒舌に質問を重ねた。

「でも、敵意を向けられた相手を好きになることなんてできるんですか?嫌いだって言われても、好きでいることなんてできるんですか?」
「大切だと思えば思う程に、嫌われたくない、軽蔑されたくないと思って、怖くなって、言葉が出てこなくなるのはおかしいことなんですか?」
「ここまでパキラさんが私にいろんなことをしてくれるのに、私は何も変わることができないかもしれない。それでもいいんですか?」
「私が私のままでも、嫌いにならずにいてくれるんですか?」

この歪な少女はあまりにも大きな勘違いをしている。そのことが分かっていたから、パキラはその全てを飲み込んで笑った。
「できるわ、そんなことを簡単よ」と言い放った。「怖がる必要なんてないわ」と肩を抱いた。「勿論よ」と髪を撫で、「好きよ」と告げて頬に触れた。
少女は時に笑い、時に沈黙し、時に涙を流した。頬を横に伝ってその涙が枕に染みを作るのを、一粒ずつそっと見届けては拭った。時が止まればいいと思った。

ココアが完全に冷えてしまっても、夜が更けて廊下の明かりが落とされても、二人の言葉は止まらず、二人を包んだ布団は少しずつ温かくなった。
どちらが先に眠ってしまったのだろう。よく覚えていない。


2016.3.13
(恋人)

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