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倒れたと聞いていただけに、その日も変わらず少女が姿を現したことは、ズミに大きな衝撃を与えた。
一先ず荷物を預かり、椅子を引いてそこに座らせた。隣に椅子をもう一つ持って来てそこに腰掛けた。
何と言えば良いのだろう。事実を確認するのも、送ってやれなくて申し訳ないと謝るのも何処か違うと感じた。

「無理をすることはなかったのですよ」

ようやく投げたのはそんな言葉だった。少女は驚きに目を見開く。
どうして、とその深いグレーの目は雄弁に語っていた。

「プラターヌ博士が此処に来て、報告してくれました」

端的にそれだけ伝えると、少女は怯えたような顔をした。
その表情は、彼女が初めてこのレストランに来た時のことを思い出させた。あの時も同じような顔をしていた。
何に怯えているのかは解らないが、彼女はいつも窮屈そうに生きていた。
そしてその窮屈さに耐え切れずに、生きることを放棄しようとしていた。

「責められた訳ではありません、ですからお気になさらず」

そうした付け足しを自然に出来る程には、ズミは少女との時間を重ねていたのだ。
そんな彼女の怯えた顔を、改めて「思い出した」という事実にズミは驚く。
つまりその怯えの表情を、長らくズミは忘れていたのだ。少女は自分の前でそうした表情を見せることはなかった。
いつから、いつからだ。ズミは記憶の海を乱暴に探った。
しかし初めて少女と出会い、痴れ者がと怒鳴りつけたあの日まで顧みても、その怯えた目が自分に向けられた記憶を見つけ出すことが出来なかった。

確かに少女は怯えたように「ごめんなさい」とよく口にするが、それにははっきりとした否定と拒絶が含まれていた。
他の者に向けられるその目は、もっとあらゆる色を含み、忙しない恐怖に支配されていた。
自分に向けられた目と、それ以外に向ける目の違いは決して明言出来るものではなかった。
それ故に確かな違和感として、ズミの深くを抉っていたのだ。

「失礼ですが、貴方は何を食べているのですか?」

思わずそう切り出していた。随分と大胆な質問ではあったが、長い沈黙の後に少女は必ず口を開いてくれる。
そう確信出来た。何故ならそれがあの時交わした約束だからだ。
少女は義理堅い。倒れた日の夜にも、こうして欠かさずいつもの時間に訪れてくれたのは、これがズミと彼女との約束だからだ。
彼女は守れない約束は交わさない。だからこその信頼がそこにあり、つまるところ、ズミは彼女を信じていた。

「ソイスープと、野菜ジュース。それから、温かいレモネード」

「それだけですか」

「……あの、ごめんなさい」

「……いいえ、謝らなくていいんですよ。話してくれてありがとう」

なるべく優しく笑いかけると、少女は安心したように微笑んだ。
ズミはその僅かな笑顔に頷きながら、今聞いたメニューを頭の中で組み立てていた。
ソイスープ、野菜ジュース、レモネード。どれも食事というにはあまりにも粗末で、しかも液体だ。
……だからあの時、口にした野菜を吐き出したのだ。長らく固形物を入れていなかった胃が、いきなり入ってきたものに驚いて拒絶したのだ。
そんな状態を体験したことがなかったズミには、今の彼女に何を食べさせればいいのかを未だに把握しかねていた。
野菜は出さない方が良いのか、いっそデザートだけなら口にしてくれるだろうか。様々なことを思案していた。
しかし、少女から得られた情報は有意義なものだった。ズミは颯爽と立ち上がった。

「お客様、アレルギーはございませんか」

「……は、い」

「ではどうぞ、こちらへ」

いつもと少し違う言葉遣いと差し出した手に、少女はパチパチと瞬きをして首を傾げた。

「ソイスープを作るのは久し振りですが、貴方が食べたどんなものよりも美味しく作って差し上げますよ」

「……」

「折角ですから、厨房にも入ってみませんか。本来なら禁じられていますが、今は貸切、咎める者もおりません」

少女は長い躊躇の後で、そっとズミの手に自身の手を重ねた。
針金細工のような細い指は予想通りだったが、その手の冷たさにズミは愕然とした。
体温を置き去りにしたような冷たさは、確かな隔絶となってズミの心を抉った。
自分の温度を分けてやりたい。そんな思いが先走り、ズミは思わずその手を握り締めた。
少女は一瞬だけ驚いた顔をしたが、やがてそっとズミの手を握り返した。

「……やれやれ、貴方の温度は何処に逃げてしまったのでしょうね。
私のソイスープがそれを取り戻す一助になれればいいのですが」

「はい、きっと」

その言葉にズミは硬直した。硬直してからしまったと思った。
何故固まってしまったのだろう。何故それに笑顔で切り返すことが出来なかったのか。
それは楽しみですね、とか、やっと私の料理が報われる時が来たようだ、とか、そうした言葉を投げることは簡単に出来た筈だ。
その思考を奪う要素があったとすれば、それは目の前の少女に与えられたものだ。

「ズミさん」

「……ええ、行きましょうか」

少女は急かすように、しかし何処か縋るように自分の名前を呼んだ。
自分の名前がその消え入りそうな声で紡がれるという感覚は、何故だかズミを幸せにした。


2013.11.19

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