厨房で芸術に勤しんでいた彼は、ふいにゲスト席が騒がしくなったことに気付いた。
ここはそれなりに格式高いレストランだ。不用意に声を上げる真似は止めて貰いたい。
しかしその歓声の正体が客ではなく、他でもないズミの同僚が発したものであることに気付いた彼は、慌てて彼等を咎めに向かった。
「おい、何を騒いで、」
「ズミさん、チャンピオンが!チャンピオンが来ましたよ!俺達の店に!」
その言葉を最後まで聞いたズミは、受付で立ち止まっている二人の人間に目を向けた。
一人はポケモン研究の権威であるプラターヌ博士だが、もう一人の少女も彼に負けない存在感を放っていた。
それもその筈、今やカロスで彼女の名前を知らない者はいない。
あの時自分を侮辱した幼い少女が、フレア団を壊滅させ、カロスを救い、チャンピオンになった。
そんな信じられないことを次々とやってのけた人物であることを、ズミは一週間程前のパレードで知った。
そのどれを讃えて催されたものなのかも解らない。それ程に少女が成し遂げたことは大き過ぎた。
誰もが彼女を知っていた。誰もが彼女を讃えた。
しかし彼女はレッドカーペットの上を、誰よりも力無く無表情で歩いたのだ。
その正気を逸した表情が印象的だった。ズミの言葉を鋭い一言で一掃した時も、確かこんな顔をしていた。
全てを諦めたような顔をして、まるで自分のしたことを開き直るように、その目には一切の表情がなかった。
若干14才の子供にはおおよそ似合わない暗い目だった。ズミはその目の色が忘れられなかった。
しかし少女にとってズミは、旅先で出会った数多の人間の一人に過ぎないらしい。
彼を見上げて僅かに一礼したが、それ以上の反応は何もなかった。
忘れてくれているのならそれでいい。その方が料理を作り易い。
そう思ったが、どうやら連れの博士はそれを許してくれないらしい。
「シェリー、ズミさんとはポケモンリーグで会ったことがあるだろう?彼はこのレストランのシェフでもあるんだよ」
「……」
少女はゆっくりと顔を上げ、ズミの顔を見つめた。
「お久しぶりです」
消え入るようなメゾソプラノが紡がれた。ズミはその言葉に簡単な挨拶を済ませて厨房に下がる。
あの深いグレーの目は、どんな色をしていたのだろう。それを観察する余裕はズミにはなかった。
何故なら少女の手足は、あの時に増して細くなっていたからだ。
顔色も更に悪く、その華奢が過ぎる身体は寒さに震えているようにも見えた。
ちゃんと食べているのだろうか。ズミは他人事でありながらそんなことを思った。
今日の料理は何としてでもいい出来にしなければならない。
いつになく気合を入れて、ズミは厨房の前に立った。
しかし、しばらくしてやって来たオーダーが「ボクはいつもの、彼女には何か温かいスープを」というものだった為、ズミは怪訝な顔をして手を止めることになる。
一体何を言っているのか。彼は注文を聞いてきたウエイターを睨み付けた。
その鋭い目は雄弁だった。「ふざけているのか」というその問いにウエイターは顔を青ざめさせて首を振る。
私は承ったことをそのままお伝えしただけですので」とだけ言って下がったウエイターを見送り、ズミは頭を抱えた。
どういうことだ。ここは格式高い一流のレストランだというのに。
そんな場でスープを一皿だけしか頼まないという、そんな謙虚な姿勢こそがマナー違反だということを彼女は知らないらしい。
しかもそれをプラターヌは咎めなかった。ということは彼もそれを黙認しているのだ。
ズミは益々苛立った。あの子供のなすこと全てが自分の神経を逆撫でしていくことに気付いていた。
しかしそれでも今、彼女はお客様であり、ズミはそれをもてなさなければならない。
厄介な客が来たものだ。彼は深く溜め息をついた。
*
最後のデザートを送り出したズミは帽子を脱いだ。我ながらどうしてこんなにも苛立っているのかと自嘲出来る程には落ち着いていたのだ。
どうやら自分は気が立っていたらしい。ああしたマナー違反を無知故に堂々とやってのける人間は数多くいる。
偶然にも彼女がその一人で、自分は偶然にもその少女と面識があり、そして偶然にもバトルに敗れた。
それだけのことだったのだ。悪条件が重なり過ぎた故にもたらされたその不安定な感情は、過ぎる時間が水のように押し流してくれる筈だった。
しかし、ウエイターが下げたスープの皿を見て愕然とする。
それは一度も手を付けられず、スプーンすら汚されることなく冷め切って戻ってきたのだ。
その衝撃的な事象を、長い時間をかけてズミは理解しようと努めた。
理解した瞬間、厨房を飛び出していた。まさにレストランを出ようとしていた二人に駆け寄った。
驚きに目を見開くプラターヌを押し退け、少女の華奢な肩を掴んだ。
「おい、どういうつもりだ」
「!」
彼女は驚きに目を見開いた。それは彼女が見せた数少ない表情の一つだった。
「私は手の付けられない程に貧相な料理を出した覚えはない!お前はどれだけ私を侮辱すれば気が済むのだ!」
止まらなかった。こんな年端もいかない子供に激昂するなんてどうかしている。それでも言わずにはいられなかった。これはズミの自尊心と信条とを賭けた戦いでもあった。
「明日から毎日、此処に来なさい」
「……」
「代金は要りません。食べもしない料理は貴方にとってその程度だということ。そんな人間からお金を取っても仕方ない。
いいですか、貴方は私を侮辱した。その責任は果たして貰いましょう。いいですね」
お前に拒否権はない。
口にこそ出さなかったが、ズミの青い目はそれを雄弁に語っていた。
少女はその、色を拒絶する目で徐にズミを見上げ、小さく頷いた。
それに頷き返したズミは、たった今払った代金の一割を抜き取ってプラターヌに返した。
食べもしない料理にお金は出させませんと言い捨てると、「それじゃあお言葉に甘えるよ」と紡いで彼は笑った。
これは自分の自尊心と信条とを賭けた戦いだ。ズミはそう確信した。
2013.11.12