少女が一口目を嚥下した瞬間、ズミの胸を占めたのは紛れもない安堵だった。
続いて湧き上がってきたのは歓喜だった。そしてそんな自分に呆れた。
躊躇うことなく、ゆっくりとした動作で二口目を口に運ぼうとする少女の手を、ズミはそっと抑えていた。
「お味は如何ですか」
約束された沈黙が場を満たした。少女はスプーンを皿の中に沈めて固まってしまった。
深いグレーの目は一回、二回と瞬きをした。もうその目は虚ろではなかった。しかし何かに迷っているようにも見えた。
やがて紡がれたたった一言は、確かな温度をもってズミの心を揺らした。
「おいしい」
少女は再び沈黙を下して言葉を探していた。浮かんだ感嘆を象る言葉を探しているようにも見えた。
上手く言えなくてごめんなさい。少女は小さな謝罪をした。ズミは泣きそうに微笑んだ。
「いいえ、十分です。その言葉を待っていました」
それは本心だった。
この少女はグルメレポーターでもプロの料理人でもない。ただのスープを作る工程を食い入るように見ていたただの子供だ。
その彼女が何とかして、自分の感じた味覚を表現しようと言葉の海を探っていたことをズミは知っていた。少女が作る沈黙はそうしたものだった。
それでも見つからなくて、だからその一言を吐き出すしかなかったのだと、ズミは正しく理解していた。
立派なリボンなど要らなかった。むき出しのままに差し出されたプレゼントには、美しい箱にはない優しさと温度があった。
どうしてそれを咎めることが出来ただろう。
「こんな美味しい料理、初めて食べました」
「当然です、貴方のことを考えて作ったのですから」
それでもプライドの高いズミは、そんな冗談と本音とを交えながら軽口を叩いた。
「料理は何を食べるかよりも、誰と食べるかで味が変わるといいます」
「……」
「貴方が美味しいと思ったのなら、それは貴方の心のせいでしょう。私を貴方が信じてくれたから、だからそう感じるのでしょう」
違いますかと尋ねようとした、しかしそれは叶わなかった。少女が泣きそうに笑ったからだ。
その目に怯えの色こそ汲み取れなかったものの、その小さな笑顔を曇らせてしまったのが自分の一言であることにズミは焦った。
まさかこの少女はまだ自分を信じてはいなかったのだろうか。
少女の繊細な性格では無理もないことだと思いながら、しかしそのことに愕然とする自分がいて思わず呆れた。
しかしそうではなかった、少女は頷いて小さく綴った。
「よかった」
そこには紛れもない安堵の表情があった。
「一番最初に信じられたのが、貴方でよかった」
ズミは沈黙した。それは少女が与えてくれるような、次の言葉が約束された優しい沈黙ではなかった。
本当に言葉が見つからなかった。その空白の時間は少女に不安しか与えないことを知っていながら、それでもズミは沈黙するしかなかった。
ズミさん、と彼女は自分の音を紡ぐ。この縋るような声を拾えたのはいつからだろう。
そんなことを考えながら、しかしもうどうでもいいとさえ思えた。
「……どうやら、人はあまりの感慨に浸ると言葉を失うらしい」
そう吐き出すと、少女は今まで見たこともないような表情で笑ってみせた。
「はい、そうみたいです」
「ですがご安心下さい。私の不本意な沈黙を埋める手段を貴方はお持ちです」
どうぞ、とスープを手の平で指せば、少女は笑顔でスプーンを持った。
さあ、デザートの用意をしなければならない。ズミは二口目を見届けてから厨房へと足を運んだ。
この喜びは料理人としての純粋なものではなかった。
どれくらいの割合で料理人としての歓喜があり、どれくらいの割合でズミとしての感動があったのかは解らない。
ただ、こんなにも喜びに満ちた日は今までになかった。それだけは断言出来たのだ。他に何が必要だったというのだろう。
*
デザートのティラミスを食べ終えた頃には、もう日付が変わろうとしていた。
固形物でないデザートとしてティラミスを選んだが、どうやら彼女はチョコレートが好きらしい。
美味しいですねと何度も口にした彼女を、ズミは微笑ましい気持ちで見ていた。
久しぶりに新メニューを考えてみよう。彼女は何なら食べられるだろうか。
ゆくゆくは普通の食事を食べられるようになればいいとは思っていたが、何日も固形物を拒絶して萎縮した胃をいきなり駆使させてはいけない。
それくらいの知識はズミにもあった。どれくらい時間が掛かっても構わなかった。そんな覚悟はとっくに出来ていた。
「では、また明日お会いしましょう」
少女との邂逅からもう随分と月日が流れていたが、あの時はこんなに穏やかに笑える日が来るなど思いもしなかった。
しかしそんな安堵とは対照的に、少女は驚いたような顔をしてみせた。
「どうしました?」
「……私、また此処に来ても良いんですか?」
「……貴方は何か勘違いをしているようだ」
繊細な少女の荷物を取り上げるべく、ズミはこの時ばかりは悪者になることを決めた。
大きく咳払いをして、いつかのようにまくし立てる。
「いいですか、貴方は私のポリシーを侮辱した」
「!」
「その借りを返すには、今の貴方はあまりにも脆い。だから元気になって貰わなくては困るのですよ。
貴方の為ではない、私の為です。私はあの怒りを忘れた訳ではありません。
……もっとも、それが貴方のきっかけになったことに喜んでいることは認めますが」
だから、明日も此処に来なさい。
そう言うと少女は再び沈黙し、本当に嬉しそうに、しかし何処か泣き出しそうな顔で紡いだ。
「はい、必ず」
つまり二人はここから始まったのだ。
2013.11.21