7:Sweet symp”H”ony by the sound of rain
隣からは寝息が聞こえない。どうやら彼女は先に起きているようだ。代わりに聞こえてくるのはそこそこ激しい雨音である。己の体が冷え切っていることに気付き、ウォロは半ば飛び起きるようにして目覚めた。昨夜は雲一つない満月だったため油断していたが、そもそもヒスイの気候はとても変わりやすいのだった。失念していた! 「ウォロさん、おはようございます。生憎の雨ですね」 後ろでひとつに束ねた長い髪を両手でぎゅっと絞りながら、雨に濡れた彼女はへらっといつもの調子で笑っている。だが当然ながら雨で冷え切ったその顔色はお世辞にも良いとはいえない。これは一度、コトブキムラに立ち寄って暖を取るべきだろうなと考えながら、ウォロは欠伸を噛み殺しつつ低い声でぼそぼそと挨拶を返した。 「雨具や防寒具を取りに戻りたいので、一度コトブキムラに寄ってもいいですか?」 「ええそうですね……ワタクシも、そうするべきだと思っていました……」 「それじゃあ此処を片付けてしまいましょうか。テントを畳んでも?」 「ああ、やってくれるんですか。それはどうも……」 ウォロの快諾を得るや否や、彼女はえい、という掛け声と共に豪快にテントを崩した。遮るものがなくなったことにより、ウォロは大粒の雨を顔に受け、一気に眠気を吹き飛ばされることとなってしまう。噎せ返る程の豪雨ではないが、はっきり言ってこの量の雨は不快極まりない。眉間にしわを寄せて俯く彼に、少女は笑いながら「ウォロさんって朝、苦手だったんですね」と揶揄い混じりの指摘を為した。そんな無礼を、へらっと笑うことで許せるようになってしまっている自身の変化に、ウォロは瞬間、ぞっとした。 これはいけない。さっさとアンノーンを集め終えてしまわなければ大変なことになりそうだ。主にウォロ自身の矜持とか、信念とか、信心とか、そういうものが。今までずっと一人であったウォロを支え続けてくれた確かなものたちが。 「一緒に来てくれてよかった」 ずぶ濡れの衣服を引きずるようにして二人、コトブキムラまでの道のりを歩く。道中、そんなことを呟いた彼女に「何故?」と簡潔に尋ねれば、困ったように笑いながらこちらを見上げつつ、子供らしい戯言が返ってきた。 「だって一度別れてしまうと、ウォロさん、そのまま約束を破って行方を眩ませてしまいそうだったから」 「おや舐められたものですね、商人は対価を受け取らないまま取引の場を離れたりしませんよ。アナタから目ぼしい何かを譲っていただくまで、ワタクシは逃げも隠れもしませんから、そのおつもりで!」 半ば脅しのつもりではあったのだが、やはり彼女には通用しないらしい。彼女は実に子供然とした受け取り方を……すなわち「ウォロが自分を置いていくことは決してない」という実に都合の良い解釈を……勝手に為して、勝手に喜んでしまったのだ。 いやもう、そんなことで喜んでしまえるのなら、どうぞ好きにすればよろしい。 そんな調子でウォロは半ば諦めていた。悪意の刃では決して彼女を傷付けることは叶わないのだということを、彼は少女とのこれまででいよいよ確信していたからだ。 * 申し訳程度にでも変装をしておくべきかとも思ったが、イチョウ商会の帽子を目深に被ってしまえばウォロの存在は見事に空気と化して人混みの中に消えた。やや大柄なだけの男を呼び止める暇な人間もいなかったため、ウォロには銭湯で誰にも邪魔されることなく十分に体を温め、食堂でイモモチを二人前、のんびりと平らげることができたのだった。 彼女は旅支度のため、宿舎に立ち寄っている。待ち合わせ場所である門前にまだ姿が見えなかったため、ウォロは時間を潰す目的でふらりとムラを一周してみることにした。 「それにしても……賑やかになったものですね」 縁側で風と遊ぶチリーン、ギンガ団本部の前にいる男の傍で嬉しそうに羽ばたくドクケイル、放牧場の近くで我が物顔でくつろいでいるビッパたち、漬物屋の大きな樽の上にどっしりと座っているゴローン……。 このムラにはポケモンが増えた。ポケモンと共に暮らすことを受け入れ楽しむ人間も、ポケモンをボールから繰り出して戦わせる人間もまた増えた。みんなもっとポケモンをボールに入れて戦わせればいいのに、とウォロはずっと前から思っていたが、この急激な変化が起きたのはごく最近のこと、すなわち彼女がやって来てからのことだ。彼女と、そして彼女に影響を受けてこのムラへと住処を移したシンジュ団のキャプテンが、ポケモンと共に暮らすこと、そしてポケモンバトルの意義をムラの人間に少しずつ広めつつあるらしい。 こうすればいいのに、と思っているだけでは駄目だった。ただ商売然としてにこやかに勧めるだけでも駄目だった。ウォロが一人では成し得なかったこと、ポケモンを使役するだけではできなかったこと。その結果がおそらくはほぼ最良の形で「此処」に在る。 あまりの眩しさに少々嫌気が差し、目を逸らしてしまおうと視線を上へと持ち上げれば……看板の隅に張り付いた大きな瞳と目が合った。お目当てのアンノーンだ。おそらくあの文字は「H」だろう。そう気付いたウォロは慌てて踵を返し、待ち合わせ場所である東門の方へと走った。大きめの鞄を背負った彼女が丁度宿舎から出て来るのが見えたので、「遅いですよ!」と声を掛ける。驚いたようにこちらを見る彼女へと、ウォロは得意気に笑い掛けてやった。 「アナタがのんびり準備をしている間に、ワタクシは新しい文字を見つけてきましたよ」 驚く彼女の手を取って、こちらです、と告げつつウォロは再び走った。隠れ鬼だか宝探しだか表現に悩むところのあるこの旅路を、どうせならウォロは楽しみ尽くしてやりたかった。最悪、それ自体を協力の「対価」としてやってもいいかと思えるくらいには、概ねウォロは満足していた。他に欲しいものを思い付けない程度には、満足だった。 2022.2.16 【雨音による甘い交響曲】