三十の詩

28:Last se”X"tet with six letters

 かつて彼女がバサギリを鎮めるため、激しい戦いを繰り広げたこの巨木の戦場も、今では遠くにストライクの鳴き声を聞くばかりの静かな場所になっていた。
 最後の遊びは、この地に生える巨木を利用した「木登り」になった。調査メモに書かれた「きょぼく のぼる」に従う形で、二人は木の幹にどうにか手を引っかける形で上を目指した。ウォーグルを呼び出して上から探せばすぐに見つかったはずなのだが、彼女は笛を吹かなかったし、ウォロもそのような提案をしなかった。ただ「最後の一文字」の瞬間を先送りにしたいという気持ちからではなく、彼女の方では単に、木登りで遊んでみたかっただけなのだろう。ウォロの方でも、そのように遊びたがる彼女に付き合ってやろうとしただけに過ぎず、そこに健気かつ執拗な未練めいたものは最早存在しなかった。

 先に太い枝へと辿り着いたウォロの視線の先、折れた枝の奥にXのアンノーンが佇んでいた。此処までやって来た者を歓迎しているようにも、ウォーグルの助けを借りずに上ったその苦労を無言のうちに労っているようにも、もしくは要らぬ労力を使った二人に呆れているようにも見えた。ウォロはにっとアンノーンへ笑い掛けてから、少し下で苦戦している彼女へ「いましたよ」と声を掛けた。嬉しそうにぱっと顔を上げた彼女を引き上げるため、手を差し出すことをウォロは躊躇わなかった。彼女もまた、一切の逡巡なくウォロに手を伸ばし、穏やかな声音で「ありがとう」と呟くのみだった。

「待たせてごめんね、君で最後だよ。早くみんなに会いたいよね、一緒に行こう」

 手の平からコロンと落とすように投げられたボールに最後の文字が吸い込まれる。二十六文字のアルファベットに「!」と「?」を加えた二十八種類のアンノーンが全て集まった。全種類のアンノーンの捕獲。その完了はそのまま、彼女のポケモン図鑑がとうとう完成したことを意味する。彼女の調査員としてのランクがこれ以上ないところまで達成したことと同義でもある。この世界で彼女がしなければいけないことは、これで本当に全て終わってしまったのだろう。

「ウォロさん、此処まで一緒に来てくれてありがとうございます」
「……やれやれ、ようやく終わりましたね。お疲れ様でした」
「これ、どうぞ読んでください。ずっと調査に付き合ってくれた貴方に、一番に見てもらいたいんです」

 もう何百回と捲り記入を続けたのであろう、その冊子は、表紙の藍色が一部くたびれて、色褪せてしまっていた。もう不要になったアンノーンの調査メモを彼女は引き抜き、もう記載すべき空欄がなくなったポケモン図鑑を、両手で丁寧にウォロの方へと差し出してきた。受け取り、最初の数ページを捲っただけで、この図鑑の情報量の凄まじさにウォロは圧倒されてしまった。途方もない捕獲とバトルと生態調査を気が遠くなる程に繰り返していかなければ、此処までの情報は集まらなかっただろう。改めて、彼女がこのヒスイに為してきた貢献の多さに畏れ入ってしまう。

「見事なものですね、とんでもない情報量だ」
「そりゃあもう、頑張りましたから。文字通り『ずっと』調査していたんですよ」
「嫌になったことはなかったのですか?」
「ええ、ありませんでしたよ。図鑑を埋めるために苦戦させられたポケモンって、実はほとんどいないんです。捕獲もバトルも楽しくて、夢中でこの世界を駆け回っていたら、あっという間に埋まっていきました。本当に、夢のような時間でした」

 そうですか、と相槌を打ち、ウォロは太い枝へ腰掛けて図鑑を読み進めた。長らくヒスイの地を探索し続けてきた身であるウォロに「知らないポケモン」というのは存在しなかったが、それぞれのポケモンについて、その生態を深く観察した経験には乏しかったため、図鑑説明や好みのエサの情報などにはページを捲るごとに驚かされるばかりだった。
 パラリ、パラリとページを捲り、図鑑を隅から隅まで丁寧に読んでいるウォロの隣、彼女も同じように太い枝へと腰掛けながら、穏やかな沈黙を貫いていた。三分の一ほど読み進めたところでウォロはふと彼女の横顔を盗み見た。目を細め、眼下に広がる黒曜の原野を静かに眺める彼女は、果たして何を思っているのだろう。彼女なりに、長く世話になったこのヒスイの大地に別れの挨拶をしようとしているのかもしれなかった。声を掛けてその邪魔をしてやろうと考えられる程、ウォロは無粋な人間ではなかったため、そのまま見なかったことにして再び図鑑へと視線を落とした。けれども彼女には「見ていた」ことなどお見通しであったかもしれない。ウォロが彼女の横顔に見惚れている間、図鑑を捲るページの音が完全に止んでいたから。再び図鑑へと手を掛けたウォロの隣で、彼女が小さく笑ったのが気配で分かってしまったから。

「ありがとうございました。この目で見られて、よかった」
「こちらこそ、丁寧に読んでくれてありがとうございます。楽しんでもらえました?」
「ええ……これまで読んだどんな古文書よりも興味深く面白かった」

 一時間半、いや二時間近くだろうか。それだけの長い時間をかけてウォロは図鑑を全て読み終えた。目を通せる文字がなくなってからも、手放すのが名残惜しくて、意味もなくパラパラとページを行ったり来たりさせてしまう有様だった。
 この分厚い図鑑は彼女の歴史そのものである。その歴史を読み込むことで、ポケモンのいるこの世界をこよなく愛した彼女の生き様に触れているような感覚にさえなれてしまった。誇張でも何でもなく、このポケモン図鑑こそが彼女の生きた証になるのだろう。ヒスイの時代を大きく加速させる、偉大の過ぎる貢献だ。誰もが彼女を称えるはずだ。シマボシも、博士も、団長も、ムラの人間たちも、おそらくはあの全なる神でさえも。

「……」

 最後、余っているページにはあの全なる神、アルセウスが記載されるのだろう。このページはどうするのですか、と空欄になっている箇所を開いて尋ねれば、彼女は「あ!」と慌てたように叫んで立ち上がった。

「そうですよ、忘れてた! まだアルセウスに会えていませんでした。ちょっと待っていてくれませんか、図鑑に登録してくるので!」

 ウォロは腹を抱えて笑ってしまった。よりにもよってあの神をして「忘れていた」とは!
 以前の彼なら憤っていただろう。だがそんな不遜極まりない発言を、今のウォロは笑って楽しむことができるようになっていた。彼女は神を軽んじている訳ではなく、ただ一匹のポケモンとして見ているだけなのだということを、これまでの旅路で嫌という程に理解してしまっていたからだ。たとえその図鑑の空欄がムックルであったとしても、同じように「忘れてた!」と叫ぶのみであっただろう。そう、彼女にとっては本当に同じことなのだ。ムックルをあと一匹捕まえるのも、あの壊れた神殿で笛を吹き、アルセウスに相まみえるのも。

「ちゃんと完成したものを見せたいんです。少しでいいので時間を下さい!」
「仕方がありませんねえ。アナタはお得意様ですから、ほんの数時間くらいならくれてやってもいいですよ。ほら、さっさと行ってきなさい。此処で待っていますから」

 彼女は嬉しそうに笑ってから、いつかのように「絶対ですよ」「何処かへ行かないでくださいよ」としつこいくらいに念を押してから、ウォーグルを呼び出してその背に飛び乗り、天冠の山麓の方角へと急加速で向かっていった。
 一人残されたウォロは慎重に巨木を下り、静かな巨木の戦場に腰を下ろした。まだ日は傾いておらず、野宿の準備をするには早いような気もしたが、待っている間の時間潰しが必要だろうと思い、テントだけ張っておくことにした。それからウォロはメモ帳を取り出して、彼女がこれまでそこに書き付けてきたアルファベットを指でなぞり、意味と音とを復唱しながら彼女の元いた世界について思いを馳せた。

 そんなことをしていたからだろう、ウォロはメモ帳を手に持ったままのうたた寝で、不思議な夢を見た。四角い幾何学的な建造物が立ち並ぶ、自然の気配をほとんど感じさせない奇妙な街並みを背景に、Tシャツに短パンというやはりいつ見てもキテレツだと思わせる格好をした彼女が、ウォロに向かって手を振り駆けて来るという、ただそれだけの夢だった。周囲にはポケモンがおらず人ばかりである。ポリゴンやドーミラーを彷彿とさせるような無機質な音がひっきりなしに鳴っている。人のざわめきがやや煩いと感じる。そんな中でも彼女の「ウォロさん!」という声だけはいやにはっきりと聞こえる。
 ああ、アナタって何処にいても目立つんですね。そんな風に思っていると、今度は現実の方向から全く同じ声が降って来た。顔を上げれば、髪の一部と服の左袖を焦がした彼女が目の前で得意気に笑っており、「お待たせしました!」と叫ぶようにして帰還を告げてきた。ただ「会う」だけではなく、その謁見のために一勝負交えさせられたようであるが、無事に戻って来たところを見るに、彼女はその全なる神にさえ勝利したのだろう。本当に、末恐ろしい子供だ。

「今度こそ完成しましたよ。私はこれから一度コトブキムラへ戻って、シマボシさんや博士たちに図鑑を見せに行くつもりです。その前にもう一度確認を、どうぞ!」

 満面の笑みでこちらへと差し出される図鑑。そこに記されているのであろうアルセウスの情報。好奇心に忠実になるなら捲らずにはいられなかったであろう、その最後のページ。
 だが。

「わざわざ完成したものを持ってきてくれた、その心意気には感謝します。ですがワタクシ、このページを開くつもりはありません」
「えっ……?」
「ヒスイの神話全てを解き明かしてアルセウスに会うというワタクシの野望は潰えていません。その姿も、有様も、ワタクシの目で確認すべきことだ。アナタの完璧な図鑑から知り得たのでは意味がない」

 ウォロはにっと笑ってその図鑑を受け取り、一度だけ強く握り締めてから、ページを捲ることなく突き返した。戸惑いつつも図鑑を再び腕の中へと収めた彼女は、本当にいいんですかと確認するように、不安そうな顔でウォロを見上げてくる。

「アナタが『ポケモン図鑑を完璧なものにした』という、その事実だけワタクシの胸に留めておきましょう。ですからもう、それは仕舞っていただいて結構ですよ」

 けれどもウォロがそう続けることで、彼女の中でも納得がいったのだろう。分かりましたと大きく頷いて図鑑を鞄の中へと仕舞い、乱れた髪を手櫛で整えてから照れたように笑った。

「そうだ。対価! 対価は決まりましたか? この文字集めを手伝ってくれた貴方に、何でも差し上げる約束でしたよね」
「ああ、そんなことも言っていましたね」

 できることなら、アナタをこちらの世界に留め置きたいと言ってしまいたかった。あるいはアナタが元の世界に戻ることで確実に「報われる」のだという確証が欲しいのだと、そんな無茶を口にして彼女を困らせてやってもよかった。だがウォロはそのどちらも口にせず、代わりに手元のメモ帳を彼女の眼前に掲げた。

「アナタが此処に書き付けてくれた言葉、これを貰いましょう」
「!」
「ワタクシにはこれで構いません。十分すぎる程、楽しませていただきましたから」
「言葉を、貰う……」

 彼女は大きく目を見開いたまま、「言葉を貰う」というウォロの言葉を何度か反芻していた。何か深く考え込んでいる様子だったが、ウォロが「どうしたんです」と尋ねるより先に、彼女が何かを決意したようなかたい微笑みで大きく頷き了承の意を示したので、まあこれでいいかと思うことにした。

「じゃあもう少しだけ時間を下さい。対価にするにはまだ言葉が少なすぎるような気がするんです。せめてそのメモ帳がいっぱいになるくらいまで、私に書かせて」
「おや、対価の割り増しをしてくれるんですか? それは有難い! 是非お願いしますよ」
「あ……でも先にコトブキムラへ寄ってもいいですか? シマボシさんや博士たちにも、図鑑が完成したことを伝えたいんです」
「えっ、またワタクシは待ちぼうけですか? いやまあ別に構いませんけどね、ほらさっさと行ってきなさい」
「はい! 皆さんへの報告が終わればすぐ戻ってきますから! 待っていてくださいね、絶対ですよ!」

 しつこいくらいに念を押してから、今度はアヤシシを呼び出して巨木の戦場から飛び出していった。慌ただしい子供だなと思いながら、その蹄の音が消えるのを遠くに聞き届ける。メモ帳を再びパラパラと捲り、此処にまだ新しい言葉が増えることを思ってウォロは少々浮ついた心地になった。さてどんな言葉を尋ねてやろう、と楽しみにさえなったのだった。

 彼女がおにぎりやイモモチを持って共に再び姿を現したのは、日もすっかり傾き辺りが暗くなり始めた頃のことだった。ムベさんが沢山持たせてくれたのだと嬉しそうに話す、そんな彼女の鞄には、水色の石で飾られた、見慣れないお守りのようなものが付いていた。おそらくは図鑑完成の祝いか、あるいは団員ランクがこれ以上ないところまで上がったことへの報酬として貰ったものだろう。そのおにぎりやイモモチだって、本当は図鑑完成の祝いとして、彼女を含んだ大勢に振る舞うつもりのものだったのではないだろうか。そんな風にウォロは思ったが、彼女が「ウォロさんと約束していたので、お祝いの食事会やお祭りは全部断ってきました」とさも当然のように告げるので、妙な優越感と共に「まあ当然ですよね」などと相槌を打って得意気に笑ってやったのだった。
 海苔の巻かれたおにぎりを二人して大口を開けて頬張り、歯を汚していることを互いに指摘し笑い合った。イモモチを食べて少々べた付いてしまった手を近くの川で洗い、戻ってきてから改めて焚火を起こし、その明かりを頼りにメモ帳を開いた。けれども筆を彼女に渡そうとしたタイミングで、彼女は悪戯っぽく笑い、鞄から大量のポケモンボールを取り出したのだ。

「……まさか、アンノーンですか?」
「放牧場のお姉さんに無理を言って、二十八個出してもらいました! 折角みんな揃ったんですから、言葉を作って遊ぶのも楽しいかなと思って」

 出ておいで! と宙にボールを投げる。飛び出してきたアンノーンたちは一斉に焚火の周りへと集まり、ピロピロと嬉しそうに鳴きながら踊り始める。文字同士が一か所に集まってウォロの知らない単語を作り上げる度に、彼等は青白い光を放った。結晶のようなものがチラと瞬きさえした。
 一文字では力を発揮できないアンノーンたちが、仲間を得たことで自在に言葉を、意味を作り、生き生きと輝いている。その様はウォロを不思議と勇気付けた。彼等に彼女を救ってやる程の「奇跡」を起こす力はなくとも、多少の報いくらいはその二十六文字と記号の力でどうにか作ってやれるのではないかと、そんな風に信じたくなる程度には、彼等の有様はただ美しく神秘的で、綺麗だった。

 そんな様子を眺めながら、彼女はひっきりなしに筆を動かして言葉を記し続けた。途中で墨が尽きてしまったため、ウォロは予備の筆を自らの大きな鞄の底から引っ張り出さなければいけなかった。そうしてメモ帳の最後の方まで言葉を埋めた頃には、二人共が欠伸を堪え切れなくなる程に夜が更けてしまっていた。
 焚火を消しても、今夜は明るかった。周りでふわふわと飛ぶアンノーンたちが青白い光をひっきりなしに放っていたからだ。天体観測をするように二人して寝転がり、アンノーンたちが次々に言葉を作って煌めく様を、飽きることなく眺め続けた。おそらくはウォロの方が先に寝落ちてしまったのだろうと思う。最後の記憶は彼女の、こんな声で締め括られていた。

「私の言葉、ちゃんと貰ってくださいね」

 目を閉じる寸前、六匹のアンノーンがウォロのすぐ傍で淡く光った。知らない単語だった。あれはどういう意味だったのだろう。

2022.2.22
【六文字による最後の六重奏】

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