三十の詩

27:Requ”I"em to pray for miracles

「アナタの言う世界の話が、このヒスイの遥か過去の姿だとして? ポケモンが想像上の生き物でしかない、でも遥か未来に誕生するかもしれない、夢と可能性を詰め込んだ不思議な生き物であったとして? そんな仮説で一体、我々の何がどう救われるというんです」

 今度はウォロが捲し立てる番だった。彼女ほど冷静になりきれなかった彼の言葉は些か乱暴で、それにいつもの嫌味の節まで混じり、一層刺々しいものになった。そんな彼の言葉を受けても尚、彼女の表情は涼しげな、穏やかな様相から全く変わらないものだから、あの戦いの日のように眉をくたりと下げてさえくれないものだから、ウォロは益々苛立って、焦って、より言葉を尖らせていく他になくなってしまう。

「アナタへ雪辱を晴らそうにも、此処からいなくなったアナタが遥か昔に死んでしまっているのでは意味がない。アナタが元の時代でヒスイの気配を拠り所にしようとも、そこにまだ我々は生まれてさえいないのだから全て幻想だ」
「……ウォロさん」
「ワタクシが追い求め続けてきたアルセウスも、アナタが身も心も削るようにして真摯に絆を結び続けてきたポケモンたちも、全て幻想で? 存在しない想像上の不思議な生き物で? そんなものを元の世界で愛し続けることに何の意味がある!? そんなものでワタクシの何が、アナタの何が救われるというんだ!」

 心に思考が付いていかない。ウォロ自身、どうして自分がここまで傷付き絶望しているのかよく分かっていない。彼女が身も心も削るようにして愛してきたポケモンたち、それが「いない」と知ったことでどうしてウォロの方がここまでショックを受けているというのか。

「その幻想こそが、私にとってはかけがえのない希望でしたよ」
「!」
「ずっと、存在しないものなんだと思っていました。子供たちを楽しませるため、優しい大人たちが作ってくれた夢の生き物。本当はいない、想像上の存在。大きくなるにつれてそのことが段々と分かってきたけれど、それでも私はその幻想に救われていました。ポケモンたちとの毎日が、夢を見られる毎日が、楽しくて堪らなかった」

 もしかしたら……ウォロは願っていたのかもしれなかった。こちらの世界であれだけ辛い思いをしたのだからさっさと救われてしまえばいいのだ、などという投げやりな心地などではなく、本気で「どうか救われてくれ」と「ワタクシの手を離すのならその先でどうか幸いに」と、そんなぞっとするようなおぞましい祈りがもうずっと前からウォロの中にあったのかもしれなかった。そうして彼女が救われることで、報われることで、かつて似た不条理に苛まれたウォロの遠い記憶さえも同じようにマシなものへと変えることができたなら。あの不条理にも、もしかしたら意味があったのかもしれないと、ほんの少しでも思うことができたなら。
 彼女の救いと己の救いとを同一視し、どうか救われてほしいと願っていた。それは「どうか救ってくれ」と願っていることとほぼ同義であり……すなわち今のウォロは、自らが救われないかもしれないことが受け入れ難く、駄々を捏ねるように喚き立てているだけに過ぎないのだ、きっと。

「いつまでも夢を見ていられたらって思っていた。夢さえ見られていればそれでよかった。でも貴方のせいで、その夢がこんな形で現実になってしまった!」
「……」
「大好きなポケモンとの世界は本当にある。アルファベットが古代文字とされる程に古びてしまった、この遥か遠い未来は、私の世界と確かに繋がっている。私が愛したポケモンの世界は、夢じゃなかった。貴方たちは確かに此処にいた。その確信があれば私はこれから先、きっと何にも絶望することなく生きていける。私にはそれだけで十分です」

 このままでは彼女は救われない。にもかかわらず彼女は満足そうにしている。
 このままではウォロは救われない。ウォロにはそれがどうしても耐えられない。

「無欲だ。そんなの、馬鹿げている」
「ふふっ、そうかなあ? こんなに皆さんによくしてもらって、こんなに愛してもらって、それでも尚、みんなのいない元の世界へ帰りたいんだって頑なに思い続けている私は、相当に強欲で我が儘だと思いますよ」
「ええそうですとも、アナタは強欲で我が儘で本当にどうしようもない。それだけ元の下らない世界を切望できるのなら、どうしてもっと欲張らないんです。どうしてアナタの愛したこの世界について、肝心なところでアナタは無欲になるんです。どうして、全てを手放してもいいなんて思ってしまうんです。どうして……」

 彼女は世界を造り変えようとしている。この現実を「夢」にしてしまおうとしている。かつての彼女はそれと同じような野望を抱えたウォロを見事に止めてみせた。にもかかわらず今のウォロには同じことができない。ウォロでは彼女を止められない。

「ねえ、アナタもうすぐアルセウスに会うんでしょう。あの全なる神に、全てが欲しいんだと駄々を捏ねてみてはどうです。どちらの世界で生きることも捨てたくないんだと、言ってやっては?」

 帰らないでほしい、と言うつもりはない。だがせめてそれくらいの慈悲はあって然るべきだ。そうとも、だってこのままでは誰も、何も報われないではないか。彼女が愛し、彼女を愛したポケモンたちも、彼女がコトブキムラに為してきた数多の貢献も、彼女を大切に思うヒスイの人々も、綺麗に埋めてきたポケモン図鑑も、ウォロとのたった数日間でさえ、報われないまま無に帰してしまうなんて。

「相手はあの全なる神です。アナタの無茶な我が儘だって叶えてもらえるかもしれない。アナタが望みさえすれば、神の奇跡が、起こるかも」
「……ありがとう、ウォロさん。でも私、アルセウスには私がしたこと以上の対価を求めるつもりはないんです。すべてのポケモンにであうという使命を果たしたご褒美としてお願いするには、やっぱり私の本当の願いは大きすぎて、釣り合わない気がしているから」

 神にさえ願えない奇跡を、彼女はたかだか二十六種類の文字に託している。こんな不毛なこと、馬鹿げているとウォロは思った。こんな頼りない拠り所で、こんな健気な祈りで、奇跡など起こるはずがないのだ。文字は言葉を作り、言葉は意味を作り、意味を見ることは我々の力になり、その力は何年先にも残り続けるが……それが奇跡に変わることは在り得ない。この世界の二十六文字にはせいぜい、彼女に「二つの世界の繋がりを見出す」という希望的観測を与えるだけの力しかないはずだ。それなのに彼女はまだ、古代文字、ひいてはアルファベットが作る文字の力を、言葉の奇跡を信じている。道端の小石を信仰するような滑稽さでありながら、その信心はただひたすらに健気で、美しくて……ウォロにはとてもではないが直視していられない。

 彼女の足が動いた。そちらに「いる」ことを半ば確信しているかのような足取りだった。洞窟の裏側にいたIのアンノーンに「見つけた」と微笑みかけて、いつものようにボールを投げる。小さな手へと戻って来たポケモンボール、それをウォロは思わず取り上げていた。右手で強く握り締め、胸元に強く押しつけてかたく捕らえた。彼女は困ったように笑いながら「ウォロさん、返して」と手を伸ばしてきた。

「こんなものにアナタの何が救えるというんだ」
「ね、返してください。あと一匹ですよ。一緒に行きましょう、最後まで」
「アナタの願いは叶わない。奇跡は起きない。夢は夢のままだ。現実になどなるものか。アナタはもう一生、未来永劫ずっと、アナタの愛したものたちに会えないままなんだ」

 彼女が祈らないのならば、もうウォロが願ってしまうしかない。恥も外聞も捨てて祈ってしまうしかない。Iの文字を祈るように強く握り締めてウォロは目を閉じ、顔を伏せた。背の低い彼女はちょっとこちらを見上げるだけで、ウォロが隠したかった表情の変化に気付いてしまう。困ったように笑う気配と共に、二人の間の空気が実に惨たらしい優しさで、揺れる。

「そうですね、寂しい。ダイケンキたちと別れることも、貴方に二度と会えなくなることも、とても寂しい」
「……」

 神よ、神よ、どうか助けてくれないか。
 ポケモンを、この世界を、ワタクシを、夢物語だと切り捨てないでくれないか。
 ワタクシを、一人にしないでくれないか。

 ウォロさん、と名前を呼ぶ声が震えている。思わず目を開ければ、こちらの頬に手を伸ばそうとしている彼女の、涙を溜め込んだせいで普段より大きくなった二つの瞳が視界一杯に映り込んだ。

「どうして貴方が泣くの。私とさよならできることがそんなに嬉しいんですか?」

 アンノーンの入ったボールを取り落とし、その手を掴んで腕の中へと引き込んだ。足の力を一気に抜き、冷たい土の上へと崩れ落ちるようにして膝を折った。もう片方の手でその小さな背中に手を回して、抱き込んで、強く羽交い絞めにした。彼女は小さく驚きの悲鳴を上げたけれど、緊張に身を固めることも体を捩って逃げ出そうとすることもなく、震える声で笑いながらウォロの背中に手を回してきた。子供の短い腕では彼の背中を覆うには力不足で、ただ添えているだけ、といった風になってしまっていた。けれどもウォロはこれまで、その腕以上に手放し難いものに触れたことがなかったため、こちらからは決して離すものかとかたく決意して、強く強く抱き締めたのだった。
 彼女もまた、競うように、応えるように、背中へ回した手に力を込めていたけれど、やがてその腕が緩められ、鎖をほどくような自然さですっと離れた。彼女の方から手を離したので、ウォロもまた彼女の腕と腰から手を離した。

 涙でぐしゃぐしゃになった顔を服の袖で拭いながら、彼女はふわっと笑った。花を手折るような、雪を潰すような、氷を砕くような、砂山を崩すような、そんな、惨たらしくもただ美しい笑顔だった。ウォロもいつものようににっと笑い返した。花を拾うような、雪を掻き集めるような、氷の上を滑るような、砂を高く積むような、そんな、些末な幸せを認めかねるただひたすらに不器用な笑顔で。

2022.2.22
【奇跡を祈る鎮魂歌】

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