三十の詩

22:Sky and sea adventure, on ”R”ondo

 彼女と共に群青の海岸へと足を運ぶのは、火吹き島でBのアンノーンを捕まえた日以来のことだった。その火吹き島からやや南西に飛んだところにある帳岬、先代キングであったウインディの墓の近くに、Rのアンノーンが隠れているのだという。崖に張り付くようにして気配を消していたその文字を見つけるまでにかなりの時間を要した。隠れ鬼の上手な個体を相手にすると、相応に骨が折れるものなのだ。

「わっ、此処……かなり高いですね」

 崖から上半身をぐいと乗り出すようにして、彼女は眼下の海をその大きな目に映す。足を踏み外して落ちても助けてやれないぞ、と思いながら、注意するようにと簡素な声掛けをした。けれども顔を上げてこちらを向いた彼女は、ウォロにとって非常に既視感のある「マズい表情を」……具体的には悪い遊びを思い付いたようなにやけた表情を……していたので、ウォロは冷や汗をかいてしまう。笛を取り出し、いつものカミナギの旋律をたった一回、何気なく吹き遊んだ彼女は、そのマズい顔を崩さぬままにウォロの手を取った。その足先が崖へと向かう。彼女の踵に力が入ったのが分かって、さっと血の気が引く。

「えっ、いや、ちょっと待ちなさい! 流石に死にます、死ぬ!」
「元の世界には『飛び込み』っていうスポーツがあって……」
「ええい煩い! アナタの世界の正気じゃない競技の真似事はもう懲り懲りです!」
「ほら、行きますよウォロさん!」

 行きますよ、と言いながら、彼女はウォロの手を寸でのところでぱっと離した。そして踵を大きく弾ませて、その体をぽんと崖の外へと放り出したのだ。その惨くおぞましい挙動は、雪合戦の果てに彼女を雪上へと押し倒した際のそれによく似ていた。起こしてほしいと訴えて右手をこちらへ伸ばしながら、左手では一人で起き上がる準備をしている、その「二人」を乞いながら「一人」になることをもうすっかり受け入れているような様が、今の手を離した彼女とにぴたりと重なる。ああ、本当に気に入らない。
 もし彼女がウォロの手を取ったままであったなら、体格と力の差を活かしてウォロが彼女の愚行を止めることができただろう。だが離された手をウォロが掴み直すよりも、彼女が一人、崖の外へと身を投げる方が早かったのだ。一切の恐れを表情に出すことなく、彼女はへらっと笑いながら重力に飲まれていく。ウォロの頭は真っ白になった。まさかこの子供が此処まで、此処まで馬鹿だったなんて!

 ウォロは夢中で崖を蹴り、身投げするように海へと飛んだ。彼女が驚いたように目を見開く様と、遥か下の海が岩礁にぶつかり白い波を立てている様とを、交互に見た。こんな馬鹿げたことで死んで堪るかと思いながら、すぐ傍まで迫った彼女の手を取り、がむしゃらに腕の中へと引き込んで、もう片方の手でその小さな頭を抱えた。重力に置いていかれている彼女の長い髪が自らの頬を容赦なく叩くのを感じながら、そら、見ているのなら助けてみせろと、ウォロはあろうことか自らの信仰対象へと、挑発するような心地で祈ってしまったのだった。
 けれども二人を拾い上げたのは神の力などではなく、彼女が事前に吹いていた笛により姿を現したイダイトウだった。高い二段ジャンプで二人をその大きな背中に受け止めたかと思うと、白波の激しく立つ外界へと豪快に、けれども極めて安全に着水してくれたのだ。

「……た、助かった」

 胸を突き破りそうな程に心臓が激しく高鳴っている。恐怖で寿命が削れるのならこの瞬間だけで三年分はゆうに吹き飛んだであろう。氷上を滑らされた時とは比べ物にならない「遊び」だった。そういった具合に顔面蒼白になっていたウォロだったのだが、一方の彼女はウォロの腕の中、命の危険など一切感じていないかのように、ちょっとした遊びを楽しんだだけであるかのように、肩を震わせて笑い始める始末なのだ。本当にこの子供、どうかしている。

「あっはは! もう、どうして付いて来ちゃったんですかウォロさん!」
「どうして、はこちらの台詞ですよ! 何故手を離したりなんかしたんです!」
「だって飛びたくなさそうだったじゃないですか。無理強いはよくないでしょう? それなのに結局、貴方の方から無理をして……ほら、心臓だってこんなに暴れているのに」

 彼女の小さな手が、ウォロの鼓動を確かめるようにぐいと左胸に押し付けられた。それはどちらかというと、彼女の側がウォロの生存を確かめるための行為であったはずなのだが、何故だかそんなことをされたウォロの方が、押し付けられたその小さな手により彼女の生存をありありと感じ、ひどく安心できてしまった。崖上にチラと視線を遣りながら、あんなところから二人して身を投げたのに無傷でいられているという事実を改めて噛み締めて、もう神にでもポケモンにでも何にでも感謝したくなったのだった。

「もう、アナタって本当に……」
「ふふ、ところでどうでした? 飛び込み、気に入ってくれましたか?」
「そんな訳ないでしょうが! 嫌いですよ、飛び込みもスケートも、アナタのこともね!」
「あはは! 私も!」

 快活な笑い声に乗せる形で彼女が為してきたその同意に、ウォロは思わず「え」と声を上げてしまった。彼女は大きな目でこちらを見上げたまま不思議そうに首を傾げたが、やがてウォロが何に驚いているのかに思い至ったのだろう、肩を竦めていつものようにへらっと笑ってみせた。彼の腕からするりと抜け出すようにして、イダイトウに跨り直し、進路をこれより西……戻りの洞窟の方向に向けてから、ぽつりと囁くように、けれども潮風と波の音に掻き消されない程度にははっきりとした声音で、呟くのだ。

「私も、貴方が嫌い」

 ワタクシが嫌い? そんなまさか。
 傲慢にもウォロは即座にそう思った。そうとも、そんなはずがない。だって本気でウォロを嫌う者が、あんな笑顔でウォロの左胸に触れてくるものか。あんな言葉でウォロを許すものか。あんな風に綺麗な泣き顔を見せるものか。あんな風にウォロの名前を呼んだりするものか。こんな風に、二人、を喜んだりするものか。

 アナタは何を言おうとしている? ワタクシを嫌える気持ちの下地などアナタにはついぞない癖に、何を振り切ろうとして、何を拒もうとして、そんなことを?

「貴方が、全ての縁と夢を取り上げて私をこの世界に落としたんです。私はそれを取り戻したい。でも、貴方がこっちで代わりにくれた沢山の新しい縁と夢が、それでいいのかって言うんです。中途半端に捨て置くのかって責めるんです」
「……」
「だから私はまだ、帰れない。だから私は、貴方が嫌い」

 おかしいでしょう? と付け足した彼女は、恨み言を口にしているとは思えない朗らかさで笑った。ああこの子供は自分の迷いを分かりやすくウォロのせいにしてしまいたいのだなと把握でき、少しばかり安心してしまった。
 元の世界に帰るためなら全てを手放せるのだとあの氷上で言い放った彼女には、けれども今、それら全てを手放せない理由がある。その理由全てに「ウォロ」の名札を付けたのは他ならぬ彼女だ。彼女はウォロを嫌いだと口にすることで、自らを帰れなくしている要因……恨み憎むにはあまりにも優しすぎる、人との縁やポケモンとの絆や、新しい夢たち……そういったものを恨みやすくしているだけの話なのだ。

「貴方のせいで此処に来たのに、貴方のせいで帰れない」

 ああ、成る程その通り、アナタがそう考えるのならきっとそうなのだろう。ならば好きなだけ恨んでしまえばいい。嫌いと口にすることで楽になれる程度の迷いなら幾らでも吐き出してしまえばいい。
 そんなもので互いの何をも救われないと分かっていながら、それでもウォロは彼女の子供っぽい暴言を許した。それくらいしかこのいけ好かない子供に対して許してやれるものがなかったのだ。逆に言えば「それくらい」のことさえ今まではついぞできないままだったのだから、今になって彼女がウォロと同程度の愚かさにまで靴底を落とし揃えてくれたことは、ウォロにとってはむしろ有難いことだった。そんな「嫌い」如きで傷を負ってやれる程、ウォロは繊細ではない。ウォロは彼女と同じ心地で苦しんでなどやれない。

「ええ、そうでしょうね」

 むしろそのような言葉の諸刃を振るった彼女の方が深い傷を負っていそうだ。ウォロのそんな同意を受けて、彼女ははっとしたように振り返り、泣きそうに顔を歪めたから。彼女は本当は、ウォロを嫌うのではなくウォロに縋りたかったのではないかという、そんな風に思われてしまう程の弱々しい表情であったから。

2022.2.21
【空と海の冒険、回旋曲に乗せて】

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