三十の詩

21:Voiceless reci”T"ative

 次はあそこに行きたいのだと言って、彼女は純白の凍土の中央、高くそびえ立つ巨大な氷柱を指差した。ツルツルと滑る氷にはオオニューラのツメが食い込まないため、彼の力を借りて上ることは不可能だ。故に此処からウォーグルを呼んで、上空からアンノーンの姿を探しつつ下りたいのだと彼女は言う。そうするしかないだろうなと分かりつつも、この寒空の険しい寒さを思いウォロは少々うんざりした。
 案の定、ウォーグルが上空に高く飛び上がるタイミングで冷気が一気に強まり、耳を切るような冷たさに思わず声を上げてしまう。彼女も寒い冷たいと喚いてはいるものの、この険しい気候さえ彼女にとっては楽しいものの一部に含まれてしまうらしく、その横顔から間の抜けた笑顔が消えることはなかった。

 上空から探していると、白と薄い青の広がる凍土において、ポツンと佇むTのアンノーンはかなり目立った。迷うことなく目当ての氷柱に下り、捕獲をつつがなく終える。さて帰ろうすぐ帰ろうと考えるウォロに対し、彼女はきょろきょろと辺りを見渡し始めた。これはフェアリーの泉での花畑や、先程の雪だるま作りで見せたのと同じ挙動だ。此処でも何か突拍子もないことで楽しんでいこうと考えているらしい。

「これだけ平らな氷だと、スケートで遊べそうですね」
「スケート?」
「元いた世界にはそういう競技があるんです。底に刃を付けたような特殊な靴を履いて、氷の上を走ったり踊ったり……とってもかっこいいんですよ!」

 彼女はもう一度ウォーグルを呼び、ウォロと共に最も大きな氷柱へと向かった。氷に足を取られて危険極まりないとウォロが冷や汗をかく傍ら、彼女は靴をわざと氷上に滑り込ませて、体をスッと素早く移動させたり、軽くジャンプをしたり、片足を軸にしてくるくると回ったりして……ウォロにはその面白さがよく分からないが、まあとにかく彼女なりに楽しんでいるようだった。

 ウォロの目の届く範囲で一人そうしてくれている分にはよかったのだが、彼女はにっと笑ってウォロの前へとやって来たかと思うと「ほら、一緒に!」と手を引いて勢いよく滑り始めてしまった。これには流石に焦ってしまい、咄嗟に手を振り払おうとしたのだが、それより先にウォロの足元が氷のせいで覚束なくなってきたため、転倒を恐れて自ら手を離すことができなくなってしまった。膝を震わせながら、中腰になって何とかバランスを取りつつ子供に手を引かれて氷の上を恐々と滑らされる、そんな情けない有様から一秒でも早く脱するべく、ウォロは抗議の悲鳴を上げる。まったく、なんてザマだ!

「こんな、こんな危ないことをわざわざするなんて、アナタの世界の方々やっぱり正気じゃないですよ! 平和ボケして頭がおかしくなりでもしたんじゃないですか!」
「ええっ、やっぱりって何ですか、まるで私が狂人みたいな言い方!」
「似たようなものじゃねーか!」

 ぎゃあぎゃあと互いに喚きながら、二人の不格好な「スケート」は続く。とてもではないが、今の二人の滑り様が「かっこいい」ようには見えない。おそらくその滑る姿をかっこよく見せるのもまた、競技を極める者の技術なのだろうなと考察しつつ、こんな恐ろしい競技がまかり通る世界など死んでも御免だと思ってしまう。

「……ふふっ」
「この状況で笑えるアナタは本当に大物ですよ。言っておきますが、滑稽なのはワタクシもアナタも同じですからね。とても『かっこいい』ようには」
「あっ、違うんですよ。こういう競技もあったなって思い出していただけなんです。アイスダンスっていう、男女のペアで音楽に合わせて滑るもので……」

 立っているのがやっとの状態なのに、音楽に合わせて滑り踊るなんてやはり正気の沙汰ではない。そう思いながらも、双方手を離さず氷の上に立ち、恐々とではあるが何とか滑っているというこの状況は……遠目に見れば、氷上でダンスをしているように……見えなくもないのかもしれない、と半ば納得したい気持ちにも駆られてしまった。

「まさか貴方とアイスダンスができるなんて思ってもいませんでした。こっちの世界では本当に、信じられないようなことが沢山起きて、毎日驚かされてばかりです」
「アイスダンスやスケートは、誰でもできる競技という訳ではないのですか?」
「そもそもスケートをするための場所が少ないですからね。限られた人だけが極めることのできる、高貴で格式高いスポーツ、っていうイメージです。私なんか、純白の凍土に来るまでは、氷の上でまともに滑ったことさえなかったんですよ」

 高貴で格式高い。ウォロはその言葉を呆れたように復唱した。自身と彼女の滑りを見るに、とてもそんな評価を受けられるようなものには思えなかったからだ。ただもし、海上を跳ねるマンタインや空を豪速で駆けるムクホークのように、人が氷上を力強く優雅に滑ることが叶うのなら、その姿は確かに高貴で格式高いものになるだろう。あくまで可能性の話で、そんなことが「できる」とは、ウォロにはとても思えなかったけれど。

「こっちの世界に来なければ、アイスダンスはおろか、スケートそのものをする機会さえなかったんじゃないかなあ」
「……」
「一緒に遊んでくれてありがとう、ウォロさん」

 その「ありがとう」は震えていない。雪だるまの口になろうとして張り付いたUのアンノーンに掛けた声と同じく、ただ明るく楽しそうで快活な、いつもの彼女のものだ。にもかかわらずウォロは恐ろしくなった。背中に雪を詰められたかのような、肩をわななかせたくなるような寒気に襲われた。おかしい、つい先程まで氷上を滑ることに焦ってばかりで、寒さなどほとんど忘れていたというのに。

「アナタにとって元の世界は、どれくらい魅力的で手放し難いものなんですか?」
「え、どれくらい……っていうのは?」
「例えば、アナタが何かを捨てることで元の世界に帰れるとしましょう。アナタは何をどれだけ捨てられますか。どこまでなら手放してもいいと思える?」

 二人はゆっくりと氷上を進んでいく。ウォロの膝はもう震えていない。相変わらずの及び腰ではあったが、彼女によりしばらく強引に滑らされることでバランスを取ることにも幾分か慣れてきたのだ。彼女の滑りはウォロ以上に上達しているように思える。この氷上に下り立ったばかりの頃には恐々としかできていなかったジャンプや回転さえ、今なら「えいっ」とかいう掛け声と共に造作もなくできてしまいそうだった。

「あのフェアリーの泉で見た花畑も、雪だるまを作れるような積雪も、ポケモンたちと楽しめる温泉も身近にはない世界、このアイスダンスだって一生楽しめなかったかもしれない世界のために、アナタは、どれだけのものを」

 彼女の手が離れる。ウォロも思わず握っていた手の力を緩めてしまう。氷上で三回、四回と回ってみせる彼女の、一つに結わえられた長い髪が翼のように美しくはためく。足を止め、軽く目を回しながらも、彼女はその大きな目にウォロの姿を捉えてへらっと笑う。その口が、惨い言葉を紡ぐために大きく、開く。
 不条理というものの痛みをウォロは知っている。理由なく負う傷の苦しさを理解している。そこから脱せる手段があるなら藁をも掴む思いで縋りたくなる心地だってよくよく分かっている。

「全てを!」

 だから、彼女が寒空の下、白い息と共にそのような残酷な一言を吐き出すことだって、ウォロにはもう事前に予測できてしまっている。

『何でもあげます。貴方が私から取り上げたいと思っているもの、何だって』
 昨日、氷の地下洞窟で彼女が告げた言葉が唐突に思い出された。あれはウォロに向けての許しであり献身であり自己犠牲でさえありながら、それ以上に「どうせ全て捨ててもいいと思っているものばかりだから、貴方に譲るのも手放すのも同じこと」という意味こそが含まれていたのだ。彼女の口から紡がれる「何でも」という言葉に以前から不穏な気配を感じてはいたものの、こうして彼女から直接はっきりと、聞き違えの余地さえないレベルで断言されてしまうと、やはりその事実に受ける衝撃は桁違いだった。

 全て、全て、彼女にとっては「そういうもの」でしかないのだ。完成間近のポケモン図鑑も、ポケモンとの絆も、人との縁も、得た報酬も、信頼も、居場所も。アルセウスに会えるという、ウォロが喉から手が出る程に欲したその権利さえ。

「私は帰りたい。此処で貴方に貰った全てのものを捨て置いてでも、貴方に取り上げられた全てを取り返したい。元の世界に、帰りたい」

 ウォロはフェアリーの泉に広がる花の色と香りを思い出した。彼女の手から取り上げた携帯食料の味を思い出した。温泉に体を浸したときの温もりを思い出した。顔のない雪だるまの間抜けさに二人して笑い合ったことを思い出した。随所で彼女が紡いできた「ありがとう」を思い出した。
 そうして自然に、ウォロの脳裏に思い起こされる彼女は、いつだってただ綺麗だった。花畑に倒れ込み楽しそうに笑う様も、湯気の向こうに見えた細く薄い上半身も、震える声で紡がれた「ありがとう」も、氷上でその覚悟を宣言しながらくるくると回る様も。槍の柱で「私を見ていて」と叫んだ時の、あの笑顔が零した涙の一粒一粒さえ。

 ウォロにとって悪くないと思える、捨てたくないと思えるもの。ひとつひとつは笑ってしまいたくなる程に些末でささやかな思い出であるが、それらが積み重なっていくに従い、この世界を造り直す必要などなかったのではないかとウォロに思わしめつつあった、ウォロにとっては大事な、捨てるには惜しすぎる記憶たち。
 それら全てを捨て置いてでも取り戻したいと思える場所がこの子供にはある。この子供には、ウォロを再び一人にしてでも帰りたい場所がある。
 ウォロはこれらの思い出をもってして、世界を造り直す必要などなかったのかもしれないとさえ考え始めているのに、彼女はこれらの思い出をあと幾つ重ねようとも、元の世界へ戻れるならそれら全てを惜しむことなく手放せるのだと迷いなく宣言している。

「……」

 罰だろうか。
 この痛みこそが、ウォロに与えられるべき罰なのだろうか。

「そろそろ行きましょうか、ウォロさん」

 彼女は慣れた手付きで笛を吹く。現れたウォーグルが二人を氷柱から下ろす。彼女はにこっとウォロに笑い掛けてから、ベースキャンプがある方向へと歩き始めた。純白の凍土での探索はこれで終わり。次の目的地はおそらく群青の海岸になるだろう。一体、どれだけの思い出が増えるのだろうか。ウォロにとっては死んでも手放せないような、忌々しくおぞましい、かけがえのない思い出が。そして彼女にとっては簡単に手放せてしまえるような、楽しく愉快で幸福な、取るに足らない思い出が。

「ねえ」

 雪は音を吸い込む。周囲にはその冷たい白が満ちている。轟音を立てていた滝はもう近くにないが、代わりに風が強くなり始めており、びゅうびゅうと先程から耳障りな音が二人の間を満たしている。そんな帰り道、そんな有様だったので、ウォロの呟きも彼女には一切届かないのではと考えてしまう。その油断がウォロに致命的な質問をさせる。ウォロがずっと避けてきた、答えが出てしまっては最早正気ではいられなくなってしまうであろう質問を。この旅路、彼女の時間と空間、そこに隠された「終止符」を見抜くための質問を。

「アナタ、このアンノーンとの隠れ鬼を最後の旅にしてしまうつもりなんでしょう」

 ウォロに背を向け、ウォロの数歩前を歩いていたはずの彼女は、本当に「そう」であるのなら振り返る必要などないはずの彼女は……完璧なタイミングで振り返り、完璧な嘘を吐いてくれる。

「何て言ったんですか? 聞こえませんでした」

 昨夜、メモ帳に彼女が記した「ALONE」が、アンノーンを宿したかのように光り、揺れる。そんな幻視に震えたい気持ちを押し殺し、ウォロはにっと笑ってみせる。

「さあ、気のせいでは?」

2022.2.20
【無声の朗唱】

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