三十の詩

16:Rha”P"sody dyed with flowers

 天冠の山麓、フェアリーの泉に向かう道中、ウォロと彼女は一言も言葉を発さなかった。ただ、互いが逃げ出すことのないようにとかたく手を繋いで、そんなものを互いの鎖として、どうかいなくなってくれるなと、それぞれ異なる理由ではあれど、そうしてかたく祈り合っていたのだった。鍵のない鎖はどちらかが手を緩めてしまえばいつでも解けてしまう脆さだった。それでも二人は手を離さなかった。
 オオニューラの助けを借りて崖を上るルートは選ばず、アヤシシを呼んで陸地を素早く駆けることもせず、彼女は徒歩で真っ直ぐ西へと向かうことを選んだ。ベースキャンプ付近とは異なり、フェアリーの泉へと向かうルートには岩陰など、身を隠せる場所が多くあったため、野生ポケモンとの戦闘は慎重に歩を進めることでほとんど回避できてしまった。

「メモに書かれている通りだと、この花畑の中にアンノーンが混ざっているはずなんですけど……」

 フェアリーの泉に到着した二人はどちらからともなく手を離した。彼女は調査メモを取り出しながら、ウォロは背を低く折って膝を曲げつつ、葵色の花畑を注意深く観察した。

「おや、いましたよ」
「えっ、何処ですか?」

 草むらに身を隠した中腰の状態のまま、彼女はすり足でウォロの方へと近寄る。葵色の花畑の中に一輪だけ生える黒い「P」の花は、何かを訴えるかのように大きな瞳をこちらへと向けていた。同じくらいの背丈の花の中に埋もれるようにして佇んでいることから、隠れる才能はそれなりにあるようだが、このアンノーンもまた他の文字たちの例に漏れず、彼女に見つけられることを望んでいるような有様なのだった。

「君はお花が好きなの? それとも君と同じくらいの背丈だからこの花畑を選んだだけ? どっちにせよ、隠れるのが上手だね」

 ほらおいで、と近くまで歩み寄り、転がすように投げたボールへとPのアンノーンは大人しく収まった。フェアリーの泉での用はこれで終わり。次は群青の海岸か、もしくは純白の凍土へと向かう手筈だったはずなのだが、彼女は名残惜しそうにきょろきょろと辺りを見渡してから、ウォロにこのような提案をしてきた。

「もうちょっと遊んでいきませんか?」
「は? 遊ぶ? アナタがそうしたいのなら、少しくらい構いませんが……」
「やったあ!」

 歓喜の声を上げて彼女は花畑へと飛び込むように駆けていく。葵色や檸檬色の花々に高い声で喜ぶ様は、彼女を随分と幼く見せた。つい先程まで、神に付いての談義を至極真面目な表情で繰り広げていた人間と同一人物であるとは思えない。

「花が好きなんですか?」
「好きです!」

 果たしてその「好き」はLIKEの方だろうか、それともLOVEだろうか、とウォロは考えたくなった。そういえば今日はまだ一度もメモ帳に単語を増やせていない。

「ヒスイ地方にはこの花畑の他にも綺麗な場所がいっぱいあって、本当に素敵ですよね。ただ一人だと気を抜いて遊ぶこともできなかったので、こんな風に満喫できるのは初めてなんです。ウォロさんがいてくれてよかった!」
「やれやれ、子守をするためにアナタに同行している訳ではないのですが、ねっ!」

 花を眺めている彼女の背中を、笑いながら思いっきり突き飛ばしてやった。わっと悲鳴を上げながら、彼女が葵色の絨毯の上へと豪快に倒れる。千切れた花たちが一斉にふわりと舞い上がった。静かに吹く風が僅かな甘い香りをウォロの鼻先にまで運んでくる。彼女のような人にもウォロのような人にも、花は等しく香るのだと分かって、にわかに嬉しくなってしまう。

「あっはは! いい顔じゃないですか。その色の花飾りもよく似合っていますよ」
「もう、ウォロさんも花まみれにしてあげましょうか!」
「ええそれはもう、どうぞどうぞ。やれるものならなぁ!」

 立ち上がった彼女の髪には葵色の花が幾つも付いていて、動き回る度にそれがぽろぽろと彼女の髪から零れ落ちた。こちらを突き飛ばそうと突進してきた彼女の膝に、右足をすっと差し出すことで躓かせる。ひゃあと甲高い悲鳴と共に顔から派手に転んだ彼女に、やりすぎたかとウォロは内心冷や汗をかいたが、鼻先を土で汚した彼女が本当に楽しそうに笑いながら、花畑の上、仰向けに転がったので、安堵しつつその隣へと大の字に寝転がって落ち着くことにした。

「あはは、もうウォロさん大人げないですよ」
「まだワタクシに親切な大人の幻覚を見るおつもりで? 度入りの眼鏡でも買ったらどうです」
「ふふ、酷い言い方! でもおかげで花畑を満喫できました。大人げない貴方と、今度は浜辺で遊んだり、雪だるまを作ったりしてみたいなあ」

 そんな彼女の言葉を受けて、群青の浜辺や純白の凍土で、子供のようにはしゃぎ回る二人の姿をウォロは想像した。ひどく下らない時間になるだろうな、と思った。そのようにして時間を使った記憶がついぞないものだから、それがどれ程の充足を与えてくれるものなのか、まだウォロにはピンと来ていない。ただ今のような心地と同等のものが得られるのなら……そうした下らない時間を過ごすのも、悪くない気がした。
 彼女は仰向けになった状態のまま、葵色の花を一輪だけ摘んでウォロの頭に乗せた。お揃いだとして笑うつもりだろうか、などとウォロが考えていると、彼女は顔をこちらに向けて、落ち着いた声音で口を開く。

「『これ』が神様の加護であるとは、思いたくないんです」

 一気に思考が、少し前の神の談義へと引き戻される。この愉快な心地のまま、あの談義を流してしまうことだってできたはずなのに、彼女はどうにかしてウォロに、自らの考えを正しく伝えなければと必死なのだ。その切実さは、哀れを通り越していっそ綺麗でさえある。彼女の髪に飾られた、この花の色と香りがそう思わせているだけなのかもしれないけれど。

「ちょっと強くて凄いポケモンが、この世界に一人で落ちてきた私を憐れんで力を貸してくれている。そんな風に思っていたかっただけなんです」
「……」
「この楽しい時間も、幸せな思いも、神様からの授かりものなんかじゃなくて、他の誰でもない貴方が私にくれたものなんだって、そう信じていたいだけなんです」

 その理屈に則るなら、ウォロがアルセウスに選ばれなかったのも、「神に選ばれなかった」とか「神の加護から見放された」とか、そういう大仰な表現ができるものではない、ということになる。ただ「強いポケモンとの相性がちょっとだけ悪かった」だけであるという、本当に些末で下らないものとして、鼻で笑って済ませてしまえるような、そんなものにしてしまえるのだ。彼女の思想を借りるなら、そういうことになってしまうのだ。
 勿論、そんな理屈を飲んでしまうには、ウォロのアルセウスへの信奉はあまりにも厚く、その神に選ばれるために費やしてきた労力や時間はあまりにも長い。たかがポケモンの一匹と相容れなかっただけ。そんな風にすぐ考え直せる程、ウォロの信仰は柔ではない。

「気にしていません」
「!」
「アナタの考え、ワタクシの好みで答えるなら間違いなく『いけ好かない』ものですが、少なくとも、神についてそれだけの考えを巡らせられるアナタの誠実さは、否定されるべきものではないでしょうね。間違ってなどいないはずです、絶対に」

 ただそういう、ちょっと笑えてしまえるような考え方も、あの時空の裂け目の向こう側には存在するのだという、その「事実」を知ることでウォロは少しだけ楽になれた。今はそれで十分だと思うことにした。

「話してくれて、ありがとうございます」

 その言葉に彼女は驚きながら「貴方がお礼を言うなんて」と随分と失礼な呟きを為す。そのおかげで再び愉快な心地になれてしまったので、ウォロはその「礼」も兼ねてもう一度、彼女の頭を花まみれにしてやることにした。わしゃわしゃと髪を掻き乱されながら、ウォロの大きな手によって自らが花の色と香りに染まっていく様を、彼女はいつものようにへらっと笑って許した。

2022.2.18
【狂詩曲の花染】

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